7-5
一喝した公爵は一度手を額においてから首を軽く振った。
そして、そのまま正面を向き語りだした。
「……私の息子は、少々気の弱い面はあったが、我がフレウンド公爵家嫡男として十二分に私の期待に応え続けた。だから、そんな息子からある日、結婚したい女性がいると聞いたときは心底驚いた。しかも子連れで年上だと言われて頭に血が上った。話も訊かずに反対した」
「父上……」
「……本当は、わかっていた。そんな出来の良い息子だったからこそ、その女性も連れ子の少女も素晴らしい人なんだろう、と」
侯爵は父親を真っ直ぐに見つめ続けた。
その拳が、似合わぬ青筋が浮き出ているほど握りこまれていた。
「だが、私にはつまらない見栄があった。このフレウンド公爵家を存続させてきた血というくだらない誇りが。それを壊す勇気が、受け入れるだけの度量が、心の広さが私にはなかったのだ」
皆、ただ黙って公爵の告白を聴いていた。
「……その娘に言われて気づいた。失敗を恐れるな、か。当たり前のその単語が今日は重く身に染みた。一歩踏み出してみないと結果はわからない。――越えてみよう、壁を」
そして、公爵は立ち上がり扉の方へ歩き出した。
「ち、父上?」
「私は多忙だ。結婚式は、早めに決定しろ。さもなくば、新郎の父親は欠席になるだろうからな」
「――!」
声を出す前に、公爵は部屋から出て行ってしまった。
言いようもない喜びが徐々に広がっていった。
それを分かち合うように抱き合う家族だけが、そこに残された。
「……素晴らしいお話ですわ」
「ありがとう。本当にサフィーさんのおかげです」
「いいえ。目の前の人を助けようとする優しい想いが固く凍った氷山の氷を溶かしたんですわ」
「……ありがとう」
薔薇の芳しい香りがする。
この貴婦人と同じ、大輪の紅き華。
己を棘という盾で身を守る。
その弱さを自覚した華。
それこそが、触れられない気高さを生む。
今のこの女性に相応しい華だ――。
ふと、正面を向くと庭園の奥に人影があった。
侯爵夫人は、それを捉え、微笑んでそのままサファイアをその場に残し優雅な足取りで引き返して行った。
「王子……」
「……急に消えてしまいましたね。本物の善呪師殿は」
「……王子を謀り、本当に申し訳ございませんでした」
サファイアが深く謝罪する。
「あなたが、私をヴィレと再び呼んで下さるなら許しましょう」
「……ヴィレ」
二人は微笑み合った。
大司教の葬式後。
サファイアの就任式を待たず、タッキーは姿を消した。
『じゃあ、俺は帰るからな』
『え?』
サファイアは眼を見開いた。
そんなことを、急に言われるとは予想していなかった。
『こんなに長く館を離れたのは初めてだ。もう潮時だ』
『タッキー……』
『あいつらにはもう俺の正体はバレてる。今更取り繕うつもりもない』
『……』
詞が出てこない。
ただ、心のなかが空っぽになる感覚だけが募ってきた。
『……サファイアの宝石眼の就任、少し先ですが、お喜び申し上げます』
タッキーはその場で紳士のように恭しく礼をした。
『タッキー……』
『姉の結婚も無事決まったんだろう?お前に俺はもう必要ない』
『……私、なんの代償も払ってないわ』
『フン。清水を使わないで、お前は自分で道を切り開いたんだ。代償を支払う必要なんてない』
『でも!』
サファイアは必死に声を出すのに、それを取り合ってくれない。
『じゃあな』
タッキーは、用を済ませたかのようにそのままサファイアを置いて、一度も振り返ることなく去って行った。
引き留める術がないサファイアはただその後ろ姿を見つめ続けた。
自分の頬をつたう雫にも気づかず……。
彼がそう宣言しながらも、やっぱり情が移り、心配と彼女の晴れ姿見たさの親のように、就任式まで気づかれないよう細心の注意を払って陰から見守り続けることになるとは知らずに――。
「彼は、本当に不思議な存在でした。傍にいると童心に返ったかのように感情の起伏を抑えられない」
――そして、誰より人間の心を理解していた、とヴィレは溜息を吐きながら言った。
「えぇ」
「彼は、今もあの館に?」
「……えぇ」
おそらく孤独に生きているに違いないだろう。
「なんだ。それなら悩む必要はない」
「えっ?」
「あなたは、自分の好きに道を歩ける」
ヴィレが宣言した。
「でも!」
サファイアは、それを否定する。
自分はもうただの自分ではなくなったのに。
「ターコイズの宝石眼は年中国内を飛び回っていますよ。あなたの就任式をすっぽかすぐらいね」
ヴィレは、肩をすくめながら告げる。
ターコイズの宝石眼――。
まだ、一度としてその姿をサファイアは垣間見たことはなかった。
「……」
「彼は、地上の者が安全な旅を行えるために存在しています。だからこそ、自分も常に動き続けてる。……立ち止まることなく」
「――!」
サファイアは、ヴィレと視線を合わせる。
「あなたも同じだ。そうでしょう?」
「ヴィレ……」
宝石眼だから、普通の人生を歩めない?
それは、違う。
だって、人との出会いを繰り返し、こうして別れを悲しめる。
その後の道筋も自分で選べる。
誰でもできる普通を私は今、持っているのだと確信した。
「そして私も!」
ヴィレが満面の笑みでいくらか大きい声で言った。
そこには、一国の王子ではなく、年頃の男子が悪戯を思いついたような無邪気な表情だった。
「えっ?」
「私も……俺も自分から行動します。初めて自分を変えたいという衝動に駆られました。……そして手に入れたい者もできました」
「手に入れたい?」
「はい。負けません。誰にも。――たとえ相手が呪師だろうとも」
そう言って彼はサファイアの手を取り強く引き寄せ、そっと限りなく唇にほど近い頬に口づけを施した。
「キャア!」
サファイアは耳朶まで朱に染まり熱くなるのを感じた。
「どこへ行っても俺とあなたは宝石眼。繋がっています。今はそれで我慢します。……これを、受け取ってください」
差し出されたのはダイヤモンドの宝石の粒だった。
「これは、まさか……」
「はい。俺の涙の結晶です」
(あの時、俺が生まれ変わった瞬間に流した最初のダイヤモンドの結晶)
ヴィレは、心の中でサファイアに話しかけていた。
もし、本当にこの事実を彼女に告げたら、きっとそんな大切な物受け取れないと断固拒否されてしまうから。
(少し卑怯だけど、これくらい自ら敵に塩をを送った代償に頂いてもらいますよ)
サファイアと今どこにいるともしれない彼に向けて――。
「戴けませんわ、そんな貴重な石!」
「大司教のアメシストはもらったのに?」
ヴィレはなんだか拗ねたように言った。
「あ、あれは。目印として……。再びアメシストの宝石眼に逢えるように」
「俺も同じです。あなたと再び逢うためにお渡ししたいんです」
ヴィレは一歩も退かないつもりらしい。
サファイアはおずおずと手巾を取り出し宝石を包むように受け取った。
タッキーの館で見た石よりは小粒で、しかしその優美さはなに一つ引けを取っていない。
(むしろ、こちらの方が輝きが増しているような……)
サファイアは、逡巡してからヴィレに自分の持つサファイアの涙の粒を差し出した。
「では、ささやかながら返礼の品としてこちらを差し上げます」
「……善いのですか?」
「はい。……勘違いされないで下さい。これは、あくまで貴重な石を頂戴した返礼の品で――」
「ありがとう!」
ヴィレの満面の笑みにサファイアは弱かった。
なんだか見てはいけない女神たちの水浴びでも覗いているかのような錯覚に陥るのだ。
「……行かれますか?」
「はい。とりあえず姉の結婚式に親族として参列しませんと」
「その後は?」
ヴィレが最終確認をしてきた。
「……逢いに行こうと思います。邪険にされるかもしれないけど」
それに、サファイアも正直に伝える。
「……お気を付けて」
「ありがとうございます」
サファイアは、そのままユリーネと同じように薔薇庭園を去って行った。
「譲るのは今回だけだ。まさか恋敵がレッサーパンダになろうとは……」
ヴィレの呟きはまだ秘め事。
庭園に咲き誇る薔薇たちがその強い香りで声を掻き消した――。




