6-7
ウンシュルト公爵家の書斎――。
その部屋の主は窓の傍で立ち尽くしていた。
その瞳が指し示す先は、友が住む王宮の方角だった。
「どうされました、旦那様」
「……カナリヤ」
公爵は妻の名を呼んだ。
「啼いておられたのですね」
公爵夫人がその鈴のような音で夫に寄り添いながら言った。
「おかしなことを……。私は啼いてなどおらん」
そう言って振り向いた公爵には確かに一筋の雫も落ちた跡はなかった。
それに妻は首を左右に振る。
「心が、啼いておりますわ」
「……」
カナリヤは夫の肩に手を添えた。
公爵は、わずかに妻から眼を背けた。
「あれは、神にその身を捧げていた……」
「はい」
「私は、幼い頃初めて父に祭壇の間へ連れられた日に、あの男と出逢った。……あれほど美しい人間を観たのは初めてだった」
カナリヤは無言で頷いた。
「私は、何度もあれがいる祭壇を訪ねた。……しかし、あの男の関心は神のみ。一度として私に振り向くことはなかった」
公爵は壁に拳を叩きつけた。
カナリヤは、夫の代わりにその美しき顔を曇らし頬に涙を添えていた。
その意味を深く理解しているから。
「……愛していらしたのですね」
「愛だったのか、執着だったのか。……ただ焦がれていた」
あいつの元へ訪ねるための唯一の道標である螺旋階段まで模倣した。
自分から告白する勇気など持てずにいた。
だからこそ、相手に気づかせようなどと姑息な手を使った。
それでも、なに一つ私には向かなかった。
嫌悪の感情さえも……。
公爵はゆっくりと妻を振り向いた。
その顔に、怒りや嫌悪は見受けられなかった。
「……相手は神の如き存在。嫉妬などしても仕方ないでしょう」
カナリヤは、啼きながら微笑んだ。
公爵はまた窓の外を見た。
また、なにかを噛みしめ想起していた。
「……それが、この年になって初めてあれが私の屋敷に人目を忍んで訪ねてきた。何事かと問えば、頼みがあると言ってきたんだ……あれがこの私に」
公爵が少し浮きたつような声で話した。
「しかし、蓋を開けてみれば国家の宝を盗むという大罪の片棒を担げとほざきおった」
公爵は唇を噛んだ。
「わかっていた――。この国の為に、私はウンシュルト公爵として王を、そして民を守らねばならん。だから、王子の行動が見たかった。それで、ウンシュルト公爵家が破滅しようとも、私はなんの未練もお前たちへの罪悪感もない。彼が次期王に相応しいかどうか。臣下として他の誰にもその責は追わせられなかった。だが……だからこそ、あれは私に片棒を担がせた。きっと、誰でもよかったのだろう。それに無性に腹が立った」
王のためなら、どんな犠牲も厭わない。
己は王の為に、民に認められた王のためにこの身の全てを捧げて仕え、導くために存在していた。
それだけが、望みだったはずなのに。
「……あいつは自分の死期を私に告げた。それを聞いた瞬間、私はあれを殴っていた。あれほど美しいと焦がれた顔をだ。そして、宝石を持ち帰った。一緒に泥沼へ嵌ることを選んだ。あの瞬間、私は自分自身の心がわからなくなった。私は、誰の為に今宝石を受け取った。本当にウンシュルト公爵家当主としてか……。頭の片隅に、単にあれが最後の望みの共有に私を選んだという優越感のために共犯になっているのでは、と過ぎった。そんな愚かな欲望を満たすためだったとしたら、それはもはや王の臣下だからとは言えない。私には家族がいたのに」
――お前たちを道連れにしていい理由じゃなかったのかもしれん。
そう告白し、公爵は、己の罪に咽び泣いていた。
「仕方ありません」
カナリヤが間髪入れず告げた。
「この世で唯一迷惑を掛けても離れられないのは、己の家族だけですもの」
――私は、そう思っております、とカナリヤは教えた。
公爵は己がまるで、少年のように慈愛に満ちた女神に慈悲を乞うた気がした。
「……またきっとお逢いできますわ」
「……」
「あの変わらない美しい紫を彩る瞳のかの人に」
「そうだな……」
どんな泥沼からも見放さず引き上げてくれる、家族という存在。
私にはあった。
お前にもあったか?
今、お前は満足しているのだろうか?
きっと神以外にはなんの容赦もなくこうして涙を流させているに違いない。
お前の死を悲しむ奴なんていないと、本当に思っていたのか。
だったら、思い知って逝け――。
(お前が宝石を盗んだ理由なんて興味はないが、もしそれがまた神のためなんてふざけたことを言うなら、お前はきっと最後に罰を受けるだろう)
いくら神の愛し子でも、これだけたくさんの愛情を一心に受けながら気づかぬその真っ直ぐ過ぎる馬鹿正直さに、最後くらい天に君臨するかの方も平等に知らしめてくれることだろう。
本当に、待っているぞマハラート。
必ず、戻ってこい――。
部屋にいた二人の頬を雫が一緒に絶えず流れ落ちていた。
それは、宝石にこそその姿を変えることはなかったが、遥か天へと届く流れ星のように瞬いた。