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……数日後。
あの日、いつまでも泣き止まぬ姉を鎮めながら、サファイアは自分とは思えぬほど冷静に計画を立てていた。
サファイアは無鉄砲ではない。
自分の死が、そのまま姉の結婚へ直結するなどと安易な思考を持ち合わせてはいなかった。
(たとえ私が死んだとしても、姉さまの妹として存在していた事実は消えない)
この事実を根底から抹消しなければ意味はない――。
サファイアにはそんな不可能を可能にする当てがあった。
相も変わらず、閑古鳥が鳴く店内を見渡しながら、サファイアは姉に暇だから祖父の部屋を久しぶりに掃除したいと申し出た。
偶には風通しを良くしなければ、と。
スズランは最初自分の妹がなにを言ったのか、理解できなかった。
(あのサフィーが、お爺さまに関わることを口にするなんて……)
サファイアは、姉が茫然とする姿を放置したまま、ギシッギシッと悲鳴を上げる古木の階段を上り、二階の一番南にある部屋に掛けられた南京錠の鍵を解除した。
そこは薄暗くはあったが、予想に比べ埃かぶりでも汚れている様子もなかった。
おそらく、スズランがサファイアに気づかれぬ時を見計らっては掃除をし続けたに違いない。
窓を開け放つと、目の前に生えた大木で休憩をしていた名もわからぬ鳥が驚いたように飛び去って行った。
(……確かに、私がお爺さまの部屋を急に掃除したいなんて怪しすぎるわよね)
ハルト・ロー。彼の名は密やかに有名であった。
晩年こそ、『ハルト』の店主として慎ましい生活を送っていたが、祖母と結婚する以前は、ツァール国の王宮お抱えの宝石加工職人として第一線で活躍していたと聞く。
また、非常に優れた眼の持ち主で宝石鑑定士としても高評価な人物であったそうだ。
そして、サファイアが唯一好きになることができなかった身内でもあった。
なぜなら、彼こそがサファイアの名付親だったからだ。
この忌まわしき黒目を持った孫に対し、祖父はなにを血迷ったか、一目見て『サファイア』と名付けろ、と半ば強引に決定させてしまったのだ。
十二の月の宝石眼にも数えられた高貴なる宝石。
そんな名を黒目の忌まわしき孫に付けた祖父を、サファイアはどうしても好意を抱けなかった。
「黒目の忌まわしき娘が宝石眼を騙る」
幼い頃、よくそう蔑まれた。
大昔なら万死に値する行為だろう、と。
確かに、それは妥当な意見だ。
サファイアでさえ、その事実は認めるしかなかった。
ハルト・ローは厳格な人物であった。
サファイアの祖父へ抱く印象はこれに尽きた。
滅多に、この南の自室から出ることはなく、数えるほどしか食事を共にはしなかった。
しかし奇妙なことに、必ず一週毎にサファイアのみが部屋へ呼び出された。
そして、膨大な量の宝石学や鉱物学に関する書物の内容と自分が培った宝石鑑定士としての知識を問答無用で叩き込まされた。
最初、家族はおろかサファイアでさえその意味を図りかねていたが、その週に教授されたことを次の週忘れると、ひどく孫を叱咤する祖父の姿があまりに恐ろしく、理由を問いただす間もなく、サファイアは無我夢中で予習と復習に残りの日数を費やした。
こんな黒目の子供に友人ができるわけもなく、時間は有り余っていたこともあり、すぐに両親を凌ぐほどの宝石鑑定士としての知識を習得した。
父さまや母さまは、名付親になるほど私を愛しく思っているからだ、と言った。
姉さまは、私と同様にお爺さまに畏怖の感情を抱いていたから、私だけが辛い思いをしているのではないか、とよく心配してくれた。
そのなかで、サファイアはある糸口を密かに入手していた。
生前祖父がなぜかある時、ツァール国の王宮内でも最上部の権力者間のみに伝承された〝呪師〟と呼ばれる存在の話を彼女へ聞かせた。
彼らはを代償を支払わせることにより、その者の望みを叶わせ、災いを逃れさせ、また、他人に災いを下すことができるのだ、と祖父は言った。
確かに、宝石眼が十二すべて勢揃いしていた遥か昔は、国の均衡は正常に保たれており、周囲の人間もその恩恵に与り、様々な能力の所有者が存在していたことは史実として学んだ覚えはある。
しかし、それはあくまで擦傷を癒せたり良質の果実や野菜を生育させることが可能な程度の能力だと伝播されていた。
決して、人間の身体にまで影響を及ぼすことが可能などとは一般公開されているどの書物にも記載されていない。
そんな神の如き力を持つは、人間では宝石眼のみのはず――。
サファイアがそんな衝撃を受けていることを知ってか知らずでか、無表情の祖父は続けてこう語った。
「わしは、その呪師が現在、何人現存しているかはわからん。しかし、昔ある御方にどうしても叶えたい望みが生まれたその時は、訪ねると良いと渡された紙がある。それをお前にくれてやる。使いたくなれば行け。ただし、一度きりにしておけ。代償は金とは限らん。もしかしたら、望まれるはお前の――」
そうして渡されたその紙を持つ手は、ひどく震えた。
まるで、開くことを許されぬパンドラの箱を持つかのように――。
それからひと月の後、祖父は静かに息を引き取った。
祖父を亡くした日の夜中、サファイアはその紙を祖父の部屋に隠した。
姉も両親も祖父の死後は、自室で不要になった服や置き場に困った物をこの部屋に仕舞っていたため、怪しまれることもなかった。
そう、今考えれば不安だったのだ。
あの紙は切符。
私が楽をするための。
ずっと手元に置けば、必ず使用する日が来る。
きっと衝動的に。
それは赦されない。
中途半端な逃げはきっと大きな悲劇を生む。
自分だけならいい。
しかしサファイアには自分になにかあれば悲嘆に暮れてくれる家族がいた。
だからこそ、手を伸ばさずにいられた。
祖父にある御方とは誰なのか、と訊ねても最後まで口を割らなかった。
ただ、生涯を通して恩返しをせねばならん人だった、と。
「お爺さまは、この呪師という方に代償を支払ったことがあるんですか?」
「いや……」
祖父は一度俯いてから真っ直ぐに孫と向き合った。
この時サファイアはなぜか、祖父が己の瞳を凝視していることに気付いた。
しかし居心地の悪さを感じつつも、不思議とサファイアが目線を外すことはなかった。
それを確認してから、祖父は詞を続けた。
「使おうとしたことは一度だけあった。だが直前で必要なくなってしまった。だからわしにはもうそれは紙屑同然と言ってもいい」
祖父は、それきりその話題を口にすることは二度となかった。
サファイアは、己の掛けているサングラスに触れた。
これは、祖父の遺品の一つだった。
すぐに売却すればそれなりの額になったはずだが、両親はそれを、まだ寸法が合わない幼いサファイアに授けた。
「このサングラスは、もともとあなたのお婆さまが常にお掛けになっていたお気に入りの品なのよ。とても大事にされていたからなのかしらね……。お婆さまからの遺言で、このサングラスは自分が死んだ後、最初に生まれた子に譲る、って言っていたのよ」
――だから、深い意味はないのよ、と暗に言われている気がした。
母さまがちらっと申し訳なさそうな目を向けてきたのが悲しくて、辛くて、そんな顔をさせる自分自身が赦せなくて、必至に体裁を取り繕って笑って見せた。
そうすれば、母さまは笑顔を見せてくれると知っていたから‥…。
カチャッ――。
止まっていた時が動き出す。
呪師の紙が封印されていた箱の鍵を解除し、サファイアは慎重に内部の紙を取り出した。
「待っていなさい。絶対に成功させるんだから!」
そう高らかに宣言したサファイアの瞳はこれまでにないほど、漆黒でありながら輝きを放っていた。
まるで、瞳に力が宿ったかのように。