1 黒目の忌まわしき娘
バンッ!
「姉さま、本当のことを言って!」
ある一室内で、姉妹が言い争いを始めた。
ここは周囲を海で覆われた島国、ツァール国。
十二人の宝石眼たちが生み出されたことで繁栄を築かれた国。
神の加護を一身に受けたその国の象徴として、王族の血縁者には歴代、必ず一人は宝石眼の人間が生まれると伝承された。
国土の三分の一を占める鉱山では、常に良質かつ天然の宝石の原石が採掘され、その富により国は常時潤いを得ている。
そんな王宮が建立されているゲルト中央市街は貴族や豪商の住む上流階級の者たちが生活をする区域となっている。
そこから離れた片隅にある町、ブラオのレンガ通りに続く細道を右に二回曲がった角に、閑静と佇む古惚けた二階建ての小さな宝石店、名を創業した祖父に因んだ「ハルト」は存在する。
祖父や両親が存命だった頃は、活気に溢れていた宝石店も現在ではその十分の一にも満たないほどの宝石しか陳列しておらず、専らの収入は、客が持参した宝石の鑑定及び調査する鑑定料のみで日々を食い繋いでいる始末だ。
その一階。
客が皆無の店内で、ランプ一つの灯を寄る辺にサファイア・ローは自身の父親譲りの長き黒髪を振り乱しながら姉であるスズラン・ローと対峙していた。
「落ち着いて、サフィー。何度も言っているでしょう。男爵との結婚は、私の身分だと実現困難なことはあなただって予想してたでしょう?」
スズランはその美麗な母親譲りの蜂蜜色の髪を靡かせながら同色の瞳を僅かに歪めて目の前の妹を愛称で呼びながら諭していた。
そんな困り切る姿の姉もまた美しい、とサファイアは思わずにはいられなかった。
サファイアより三年の月日を長生する姉に、彼女は常々尊敬と憧れを懐き続けてきた。
だからこそ、今回ばかりはこの姉に対してこのような厳しい口調を唱えるのも無理はなかった。
「姉さま、私を庇わないで!さっき姉さまが男爵のために仕立てた夜間礼装を受け取りに『ライヒ』へ行ったら、プルンケン夫人が大声で教えてくれたわ」
スズランは妹の詞にすべての事情を察し、小さく溜息を吐きながら、サファイアから視線を外し俯いた。
『ライヒ』は、このブラオでは町一番の高級仕立店として名を馳せている。
店内には高価格に見合った大変素晴らしい技術を持つプルンケン氏の仕立てた洋服やら小物が並んでおり、町の人間にとってはライヒの商品を身に着けることは、一種の社会的地位となっており、皆特別な日や人のために来店する。
しかし、一つ残念なことは職人気質の夫とは正反対の妻の存在だ。
プルンケン夫人は、自らの店に強い誇りと見栄を持ち合わせた人間であり、しばしば店に相応しくないと判断した客に嫌味や小言を告げるのが、もはや日課となっていた。
しかも、大の噂話好きという厄介な趣味の持ち主でもある。
そんなプルンケン夫人にとって、同じ町に住みながら、全く繁盛しない小汚い宝石店の姉妹などは格好の標的なのである。
普段から節約志向で、新しいドレスなど滅多に新調しない姉をやっとの思いで説得して購入させた艶やかな菫色の夜間礼装。
それを受け取りに訪ねた先で、サファイアはプルンケン夫人から予想だにしていなかった話を聞かされたのだ。
普段なら夫人の話など耳半分で聞き逃していたサファイアも、さすがにその内容には耳を傾けずにはいられなかった。
「あら、ロー家のお嬢様。お姉さまの夜間礼装のお受け取りですか?もちろんできあがっておりますわよ。でも本当にお気の毒ですわ。せっかくのご縁談も破談になりそうだとお聞きしましたわ」
「えっ……」
思わず聞き返したサファイアに勝ち誇ったような目を向け、夫人は大げさな身振りで語り出した。
「私も先ほど、シモンズ伯爵夫人からお聞きしましたのよ。ああ、シモンズ伯爵夫人というのはもちろん貴族がお住まいになることで有名なゲルト中央市街の方なのですけれど、わざわざ馬車を二時間も要して、我が店においで下さるお得意様のお一人でしてね――」
「それで、その伯爵夫人はなんとおっしゃっておいでだったのですか?」
(これ以上あなたの自慢話を聞いていたら肝心の姉さまの話にいつまで経っても針が向かないじゃない!)
話の腰を折られたことに夫人は少し不快感を抱いたようだが、焦るサファイアの姿に満足感を覚え、話を戻した。
「そうでしたわね。伯爵夫人のお話によりますと、男爵のご両親の方々とご交流があるらしいのですが、男爵はそのご両親様から、お嬢様のお姉さまとのご結婚をご賛同いただけていないとか……」
「ああ、そのことでしたか。それなら、ご安心ください。姉と男爵の身分が釣り合わない件でしたら、先方のご家族とも納得のいくお話合いをさせていただく覚悟をしておりますので」
サファイアが憮然とした態度で答えると、ますます夫人は満面の笑みを見せた。
「まあ、私がお聞きしたことは、お姉さまのご身分が原因ではないとお聞きしておりますのよ。確か、お姉さまのお身内に黒目の忌まわしき娘がいるらしいと噂が立ったのだとか…」
「……え?」
今度こそサファイアは言葉を失った。
『黒目の忌まわしき娘』――。
それは、サファイアがこの世に生を受けたその日から、幾度となく呼ばれてきた影の名称だったからだ。
(……まさか……私自身が原因で――)
サファイアは茫然自失でその場に立ち尽くした。
そんなサファイアの姿に夫人はひどく上機嫌になった。
「私どもの作りし、この最高級の礼装。もしもうご不要なら今ご返品されても全く構いませんのよ。もちろんご返品に対しての代金をご請求しようなどとは考えておりませんわ。お嬢様のお姉さまでなくとも、この礼装を購入したいと考えるお客様は大勢おりますので――」
夫人の台詞に、サファイアは唇を強く噛んだ。
(口調は客に対するものであっても、明らかに姉さまにこの礼装を着る資格がないと言っているのと同じだわ。――姉さまの評判が落とされることだけはしたくない!)
サファイアは挑むような視線を夫人へ向けて言い放った。
「お気遣い痛み入ります。ですが、全く問題はございません。このまま礼装を頂戴いたします。代金をお納めください」
この日のために、コツコツと貯金してきた代金分の金貨を机に置きながら、サファイアは答えた。
「あら、ご親切で申しあげましたのに。本日を逃しますと、もうご返品の際に返金できませんのよ」
「ええ、結構ですわ。素敵な礼装をわざわざ姉のために仕立てていただき、感謝いたしますわ。それでは、失礼いたします」
礼装が夫人の後ろでお針子の手によって上質の包装紙で包まれたのを確認し、サファイアはそれをまるで壊れ物を扱うように抱きしめて店内を後にした。
背後で夫人が舌打ちしたのを感じたが、サファイアは一度も振り返ることなく歩き続けた。
「ねえ、サフィー。夫人からなにを言われたか知らないけれど、あの方はいつも少し意地悪なものの言い方をなさるわ。それを一つ一つ拾い上げていては、体力の無駄だとあなたがいつも言っているじゃない」
スズランの詞にサファイアは、首を乱暴に横に振った。
「違うわ!夫人は今日だけは真実を述べたのよ。姉さま、私のことを先方のご家族に知られたのでしょう?それでせっかくまとまりかけていたお話に水を差したのだわ」
「サフィー、これは私と男爵の結婚の話。そして、あなたは私の自慢の妹なのよ」
スズランの窘めた物言いに、サファイアは余計に悲しくなった。
(姉さまはいつもこう。父さまと母さまを亡くしてから、私に対して前以上に過保護になった……)
サファイアは、ゆっくりと常に掛けている金の鎖付きのサングラスを外した。
そして、なんの遮りもなく真正面から姉を見据えた――。
「……いいのよ、姉さま。私の瞳について訊かれたんでしょう?あなたの家には黒目の忌まわしき娘がいるのかって――」
「――!」
スズランは、今度こそ膝に置いていたお気に入りの濃紺の衣服を落とし、取り乱すようにこちらに駆け寄ってきた。
サファイアは理解っていた。
家族が一丸となって自分を護り続けてくれていたことを――。
十六年前のサファイア月三十日――。
ロー家に二人目の子が生を受けた。
ロー家待望の二人目の子。
スズランも姉として下の子と遊べる日を毎日指折り数えてきた。
しかし、生まれた子は、産声を一度あげた切り静まり返り、その両眼が開いた瞬間、夫婦のみならず出産に立ち会った産婆すら言葉を失った。
ただ一人、スズランだけは無邪気に新たな家族への疑問に触れた。
「ねえ、母さま。どうしてこの子の瞳は真っ黒なの?私と母さまは蜂蜜色で、父さまは茶色なのに――」
そう。家族の誰とも似ても似つかぬ漆黒の瞳。
ロー家も母親の実家にも黒目の子が生まれた歴史は皆無であった。
噂は瞬く間にロー家の血縁中に伝播した。
父親が異なるのでは、と……。
しかし、父さまは母さまを信じ、周りの疑惑に一切耳を傾けなかった。
もちろん母さまは父さまを裏切るような恥ずべきことをする人間ではない。
しかし、本当の問題はそこではなかった。
黒目。
その瞳を宿す人間はツァール国には唯の一人も存在しなかったのだ――。
不義の子にすら、なりえない子……。
なら、この子は一体なに……?
存在するはずのない忌まわしい瞳を宿して生まれた子。
サファイアが物心つく頃には、彼女の影の呼び名はすでに決まっていた。
黒目の忌まわしき娘――。
(そういえば、自分でこの呼び名を口にしたのは初めてだわ)
サファイアはどこか他人事のように分析していた。
存在するはずのない存在。
受け入れているつもりでいた……。
でも、口にする前と後では確実に違う。
存在しないことが正しいなら、最初からそうすれば良かった。
本当に受け入れていたなら、いつでもできたはずなのに……。
生にしがみついていた。
本当はなに一つ認めてはいなかった。
自分には存在を認めてくれる家族がいた。
それを糧にして、盾にして生きてきた。
でも、父さまも母さまも、もういない。
そして今、常に自分を愛してくれた人の幸せを自分の存在で壊そうとしている。
(そっか……。とうとう受け入れる日が来たのね)
必死にサファイアに縋り付いて号泣する美しい姉が訴える慰めの詞を遥か彼方に聞きながら、彼女は落涙もせずに決意した。
(今度は私が姉さまを幸せにする番なんだわ――)