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ブラックサファイア  作者: 早紀
196/227

29-9


 驚愕したような周囲の反応に、エルフィは、今更ながらに母親との会話を想起していた。




 その日、母親は特に上機嫌だった。


 


 徐々に体調も回復したことを契機に、夫亡き後、小麦農家として機能せず荒れ果てていた農地の大半を売り払い、細々とした身の丈に合った広さの庭周りで、母親は密かに華の栽培を開始した。


 初めの頃、それは単なる趣味の庭園に過ぎなかった。


 季節に合わせた華々の種を植え、備え付けに余っていた大量の肥料を少しずつ撒き、良質な水をあげながら育てる。


 手順も方法も、なにも不可思議な点はなかった。


 けれども、不思議なことにエルフィと母親が育てた華は、一輪も枯れることはなく美しく咲き誇った。


 蕾が各々に開花していく様は、一瞬の儚い美と勇気を与えてくれた。


 確かな命の輝き。




 満開の華は可憐だが、五分咲きの華は逞しい。


 満点でも五十点でも、それぞれ善さはあるものだ。




 噂は、少しずつ近隣にも届き、勧められるまま、思い切って母娘は自分たちが育てたその華々を生花店へ輸出するようになった。


 もちろん、大手に大量に持ち込めるような栽培は困難だったため、個人店の片隅に置いてもらうだけに留まった。


 それでも、その旨をエルフィが手紙で(したた)め姉に送った際、彼女はとても喜んでくれた。


 賃金を得られることよりも、働くという生きがいは、母親に生気を与えた。


 姉妹は、揃ってその想いを共有して喜びを分かち合ったのだ。






 母親は、娘から機嫌の良さを指摘されると、綻んだ顔を見せながら興奮したように言い募った。




『実はね――。今度の、サファイアの宝石眼(ユヴェールアオゲ)様のご訪問日に贈呈する華束と、エルフィたちが着用することになっている花冠に、今、我が家の庭に咲いている黒いダリアが選ばれたのよ!』


『えっ!それって、すごく凄いことだよね!?』


『当然よ!宝石眼(ユヴェールアオゲ)様の正式なご訪問を祝う為の華束ですもの!普通なら、こんな庭に生えた華なんて候補にも挙がらないわよ』


 母親は、両手を握りしめながら嬉々として娘に語っていた。




『じゃあ、どうして選ばれたの?』


『それがね、現在のサファイアの宝石眼(ユヴェールアオゲ)様は、黒き蒼というとても珍しい瞳をされているでしょう。だから、瞳に合った黒くて美しい華をクヴェレ公爵家でお探ししてたんですって。それにダリアの華が選ばれて、なんと(うち)が卸している生花店のダリアが、最も黒くて目を引かれたんですって!』


 普段は、口数も多くなく聞き手に回りがちな母親の止まらぬ口調に、エルフィは、二重に驚きながらその驚愕の事実を受け止めていった。




 重要な行事。


 失敗は赦されない。


 それにも係わらず、クヴェレ公爵家は、領地内にある小さな個人経営の生花店ですら見落とさずに、候補を探ってくれたのだ。


 それに選ばれたことは、当然の如く嬉しい。


 しかし、母娘が本当に嬉しかったこと。


 それは――。




『良かったね、お母さん』

 ――姉さんが働いている場所は、やっぱり素敵なところだったんだよ。




 その詞を聴いて見せた母親の笑顔に、エルフィは幸福を噛み締めていた。


 愛している子供に苦労を掛けて、辛くならない親はいない。


 生活は楽になっても、心は苦しくなっていくばかりだっただろう。


 それが、ほんの僅かでも。


 そう、例えば真綿(まわた)ほどの軽さであっても、なくなれば人は軽くなれる。


 未来は明るい気がしてくるのだ。






 だから、それだけで、満足していた。


 そこからなにかを更に思考するなど、思いつきもしなかった。


 どうして、自分の庭にだけ、あんなにも美しい華々が豊かに咲いていくのかを。


 水の公爵家の領地だという設定(ハンデ)だけでは説明しきれないのに。


 


 改めて訊ねられると、疑問は湯水のように溢れてくる。


 エルフィは、己の頭に飾られた華が、急に遠く感じられた。


 いつも庭に出れば見られた華。


 それを観察するのが、彼女の日課となっていた。


 この時期は、毎日のようにこのダリアを見ていた。


 他の華と共に、身近で手に入りやすい華。


 しかし、それはどうやら、己だけが思っていたことのようだ。






「あ、あの――」


「――ねぇ、メーアさん?」


「――っ!」


 エルフィが声を上げようとしたその瞬間、サファイアは彼女ではない者の名を呼んだ。


 呼ばれた相手は、元より白き雪肌に真青(まっさお)な様子が重なり、ビクッと肩を震わせた。




 ちらっと目線だけを動かし、片側だけの瞳のみで映した視界に広がったのは、自分とは異なる蒼だった。


 弱弱しい青の自分とは相反する猛々しい蒼の彼女。


 罰せられるのは自分だけでありたいのに。


 どうして、大事な家族まで巻き込んでしまうのだろう。




 ずっと逢いたかった。


 けれども、もう諦めていた。




 直に逢う価値などない娘であり、姉である自分。


 姿を想像しか出来ない紙の上では素直になれた。


 この距離が正しいと思い込もうとしてきた。


 だから、この地へ来ることも内密にして手紙にも一切触れなかった。


 それでも、狡賢い自分は、侯爵が黒きダリアを選定し始めた頃に、母親が卸している生花店の資料を気づかれぬよう勧めた。




 妹からいつも送られてくる手紙に添えられた押し華。


 次はどんな華だろうかと、いつも楽しみにしていた。


 それが、あの黒蝶と呼ばれし一輪の華を見た時、呼吸が止まった。


 見送った、愛しきブラックサファイアの瞳を持った方が、その黒蝶のなかに確かに存在して見えた。




 偶然だった。


 いや、偶然にしたくなかった。




 ダリアという華を調べ、華詞を知り、ますますこれは必然だと思った。


 けれども、全て自分の思うままに行うなどと思うから、罰が当たる。


 独りで行うことほど、独りよがりにしかならない。


 独りだけで成し遂げられることなど、微々たるものでしかない。


 有能でも選ばれた人間でもない自分は、尚更そんな大それたことは出来ない。


 だからこそ、最悪の形で罰が下った。






「――私、そのダリアの華、直に見たくなりました」

 

 普段なら、そんな身勝手な我儘を絶対に言わないだろう彼女の台詞にクルスは密かに視線を鋭くした。




 その詞は、〝依頼〟ではなく〝命令〟だった。


 メーアは、大きく息を呑み、目の前の尊き方を見つめた。


 その詞の刃を放った者が、自分より遙か高位の者で、この場で己の身を簡単に切り捨てられような存在であっても、彼女は拒否の申し出をしただろう。


 例えるなら、それがツァール国の国王であっても。


 出来ないとするなら、天に座を置く者。


 それほどの決意だったのに。




(どうして、その僅かな例外に入るあなた様がそれを言うのですか?)


 断りたい。


 断りたくない。


 こんな否定の詞がすぐに脳裏に出没する。


 それだけで、答はもう出ている。


 他の誰であっても、自分の心中にその否定は生まれないのに。


 




 冷えた空風に乗せて、枯葉が広場(テラス)に舞い落ちてきた。


 その微かな音が聞こえてくるくらいの静寂のなかで、侯爵は、なにも言わなかった。


 きっと以前の自分ならすぐに彼らの仲裁に入っていただろう。




 他人になど興味はなかった。


 他者を身勝手に傷つけた自分に、そんな感情を抱く資格はないと思っていたから。


 だから、その相手だけを守れればいいと信じてきた。


 それが、己の使命だなんて思いあがった優越感に浸っていた。


 悲劇の主人公にでもなったつもりだったのかもしれない。


 


 自分は、彼女に選択権を与えず、自分が盾になって彼女を守ろうとした。


 しかし、黒き蒼の瞳を持つ女騎士は、彼女自身に選ばせて、彼女に自らを守るよう諭した。




『罪は彼女自身が望む形で、すでに与えました』


 己が彼女を読み違いしていたあの舞踏会の夜、怒りで視界が歪み切っていた己に降り注いだ清廉な声に、視界は急に開けていった。




 凛とした、優秀な戦場の勇者がそこにはいた。


 武器など一切使用せず、無血開城(むけつかいじょう)を成し遂げた美しき女神。




 もし、その戦場で彼女の前に立っていたのが己だったなら、全て最悪の形で始末をつけていただろう。


 相手を剣で、槍で、矢で、痛めつけるだけで終えていた。


 後ろで、それを嘆き悲しむ彼女に気付かずに、獰猛な笑みで残虐な行為を繰り返す自分がいただろう。




 塔に住む姫が、守られ生き続けることを望んでいると信じているのは、塔の外から見ている門番の自分だけ。


 彼女の詞を聴かず、思い込みで己の職務だけを全うしようとしていた。


 しかし、女騎士は塔にある僅かな隙間から姫の許まで忍んで、彼女の詞を聴いた。


 自分で生きる道を選択したいという姫の望みを。


 だから、彼女は塔から姫を連れ去った。


 地上で無様に入口の扉を守り続ける己を見下ろしながら。


 夜空に輝く天空へと――。






(自分の囲いに入れたままで、なにが守れるって言うんだ……)


 今、確かに彼女は助けを求めているかもしれない。


 間に入れば、彼女の逃げの道に、今度は自分が騎士として救えるかもしれない。


 


 それでも、侯爵は微動だにしなかった。


 彼も、もう、わかっていた。


 尊きサファイアの騎士が、連れ出した姫に向かって今、守るための剣の切先を向けているその意味を。




 それもまた、彼女に自分で進む道を選ばせるために取らなければならない崇高な行為だと――。






 ガタッ。


 静かに立ち上がる彼女と反して、大きく悲鳴を上げる椅子。


 身体と心が一致していないようなその行動に、誰もが注目する。


 彼女は、しっかりとサファイアを見つめる。


 覚悟を決めたように――。




「――サファイアの宝石眼(ユヴェールアオゲ)様。……少しだけ、私と二人きりで、お話しするお時間を設けて頂けないでしょうか?」




 その詞に、サファイアは眼を見開く。


 隣でエルフィが、不安げに視線を彷徨わせるのが伝播する。


 サファイアは、少しの間瞳を閉じ、なにかを考えているようだった。


 そして、再び開眼して返答する。




「――もちろんです」



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