3-7
奥に目をやると、そこには頑丈な南京錠がずいぶんと地面付近に設置された古びた木の扉があった。
「どうしてこの扉だけ南京錠が?」
「ここは、言うなれば俺の仕事部屋だ」
その詞に、サファイアはえっ、と仰け反った。
善呪師の仕事部屋。
そんな貴重な空間へ通してもらえるなんて。
タッキーは鍵を手慣れた手つきで解除した。
南京錠の位置は、タッキーの背にピッタリな造りになっていた。
扉が開き、タッキーは中央に置かれた書き物机上に置かれた灯を燈した。
その部屋は異様と言えば、異様だった。
しかし、神秘的と言えば、神秘的だった。
そんな、印象を与えられる雰囲気が醸し出されていた。
「……」
部屋には、書き物机以外に置かれた家具は一つもなく、代わりに周りを水が流れていた。
部屋の端をまるで用水路のように水が流れ続けている。
奥には巨大な岩石が敷き詰められている。
外観の寂れた館のなかにこんな清らかな水が流れていようとは誰も思わないだろう。
「これは……この水は一体?」
サファイアの問いに、タッキーがふんぞり返って答える。
「俺の力は清水を通してのみその力を発揮するんだ」
「清水を使って?」
タッキーは、書き物机に座ると、備え付けられた紙と筆を掴み、そこへスラスラと文字を刻んでいった。
文字の記入も手慣れたものだ。
こうして客観的に視ると見た目が異種なだけで人間とそう変わりない。
「できたぞ」
「え?……読めない」
サファイアは、差し出された紙の文字の羅列をただなぞることしか出来なかった。
「当然だ。唯の人間に解読出来ていては呪師とは呼べないからな。こうして己にのみ解読できる言の葉だからこそ、一文字毎に力を増すんだ」
「じゃあ、他の呪師はまた違う文字を用いるの?」
「さあな。俺は文字を使用しているが、詠唱の奴もいるだろうし。水ではなく風や花を活用している場合もあるだろう」
「ふーん。呪師っていうのも色々あるのね」
決まった方法もない。
奥が深い役職らしい。
「当然だ。他の奴も全く同じことができてしまっては、俺が掛けた呪を簡単に解かれかねんからな」
「それもそうね」
サファイアは頷き納得した。
「ただ、必ず自然に存在するなにかを使用することが義務付けられている。俺の場合は水だ。それも、人工ではなく自然に湧き出す清水のみだ」
「そっか。自然に纏わるものだから清水じゃなきゃダメなのね」
それを聞き届けてから、タッキーは紙に両手を翳した。
途端に紙は光を放ち、連動して周りの水も黄金に輝きだした。
同時に、今まで透明で確認できなかった清水のなかから何十本にも及ぶ透明のガラス瓶が浮かび上がってきた。
一瓶ずつ異なる形態の容器となっていたそれは、葡萄酒瓶のような型の瓶もあればジャムを保存する保存容器のような型の瓶もあり、大きさもバラバラだった。
さらに、瓶一杯に満たされた清水は、いつの間にか各々が異なる色彩を放ち煌きだした。
「キレイ……」
まるで水の精霊でも出現しそうな夢物語のような世界だ。
瓶は宙に浮かびながらシャボン玉のようにふわふわ回転し、徐々に一瓶ずつ清水のなかに戻っていった。
「あ……」
よく視れば大きめの一瓶だけがそのまま宙に浮遊し続けていた。
タッキーがにやり、とした。
「あれだな」
タッキーはその瓶に軽く手招きした。
すると瓶は、命令に従うかのようにタッキーの元へ飛んできた。
瓶の清水の色は限りなく透明に近い黄白色だった。
「すごい……」
感嘆としか言い切れなかった。
どこかで、疑っていた。
いくら冗談一つ口にしない祖父の詞だったとしても、神に等しき力を秘めた存在なんて本当に実在するのか、と。
タッキーが、レッサーパンダが喋ったあの不思議な体験をした際に信用したつもりでいたはずなのに。
信じ切れていなかった――。
こんな未知の力を本当にその身に宿していようとは。
一国の王子が、恥を殴り捨ててでも自ら懇願するのも無理はない。
「これが、あいつらの望みを具現化した光水だ」
「光水?」
タッキーは、壊れ物を受け取るようにその瓶を腕に抱いた。
「人間の望みには、見えない色が混じっている。それをこうしてガラスと清水を通して映し出したんだ。透明に近いほど、その望みは幸いな望みとされ、俺のような善呪師には叶えられやすくて助かる」
「じゃあ、二人の望みは……」
「望みの色がこれだけ澄んでるんだ。俺の力は十二分に発揮されるだろう」
「よかった……」
――なら建国祭は安心ね、とサファイアは安堵した。
「だといいがな……」
タッキーの呟きは、安堵に浸っていたサファイアには届かなかった。
「さて、じゃあ俺は寝るかな」
「え?この光水で宝石の在りかを捜すんじゃないの?」
「それは、明朝あいつらが来て代償を受け取った後に行う。俺は後払いの仕事は一切引き受けないからな」
タッキーの詞に、サファイアは視線を彷徨わせた。
なにか、不味いことでも切り出したいように。
「……あ、あの。私勢いでここまで来たから宿の手配とかしてなくて……」
タッキーが渋い顔をした。
「お願いします!どうか一晩泊めて下さい!代金は支払いますから」
ハァ、とタッキーが溜息を吐いた。
「着いて来い」
タッキーは机の引き出しを探り、綺麗に仕舞われていた、埃一つ付着ない匙を一本取り出した。
それに清水を一掬いし、そのまま仕事部屋から退出した。
サファイアはその後ろを恐々付き従った。
そして、タッキーは西の部屋を出て反対側の奥の古びた部屋を開けた。
室内は、長年使われた様子はなく寝台どころか、人が生活できる要素は皆無だった。
「……も、もしかしてこの部屋?」
サファイアは恐る恐る訊いた。
「お前が泊まりたいような部屋を声に出して言え」
タッキーはサファイアの問いかけを無視して彼女に命令した。
「え?……えっと。とりあえず寝台と鏡の付いた化粧台が置いてあって、衣装箪笥が備え付けられてる部屋、かしら……」
サファイアは、タッキーの意図は掴めなかったが、とりあえず自分が住んでいた実家の部屋に最低限置かれていた家具を挙げた。
タッキーは、そのまま空中に指でなにかの文字を書き綴った。
そして匙の水を部屋へ掛けた。
フッーー。
そんな煙音が聞こえたと思った瞬間。
そこには、今サファイアが口述した通りの部屋が出現した。
天蓋付の寝台に、桐の衣装箪笥と化粧台。
化粧台には丸い鏡がはめ込まれている。
(実家の私の部屋より豪華な家具……)
「これでいいか」
「あ、ありがとう。本当にタッキーってすごいのね」
サファイアの詞に、なにを今更という顔でタッキーは踵を返した。
「じゃあ、俺は一度仕事部屋に戻ってから寝る。明日は朝陽が上る頃には起きろよ。あいつらは、一刻も早く望みを叶える為に先んじてここを訪れるだろうからな」
タッキーはそう忠告して部屋を出て行ってしまった。
キィーバタンッ――。
扉が完全に閉まった。
それを確認してから、サファイアはゆっくり辺りを警戒しながら奥へ進んでいく。
一日中持っていた鞄を化粧台に置き、寝台の端に恐る恐る腰かけた。
そして、息を吐いた。
「今日という一日だけでも、私の今までの十六年間よりずっと濃い時間だったわね……」
無意識に独り言が漏れた。
こんな経験、幼い頃あまりにも果てしなくあった一人の時間の慰めにと熟読していた物語のなかだけにしかなかった。
そして、その空想の世界を素敵だと憧れつつも、自分には決して訪れることはないだろう、とどこか客観的に捉える己もいた。
そう思案してしまう自分自身は果たして不幸なのだろうか、と疑問を持つ感覚さえ失われていた。
今までの十六年間を悔やんだことはなかった。
家族の無償の愛に包まれて生きてきたのだから。
でも……。
「なにかしら、この充足感。私ワクワクしてる」
早く明日を迎えたい――。
今日よりも明日がきっと素敵な一日となるから。
こんな陽気な気持ちを抱くのは初めての経験だった。
サファイアは、一人きりの部屋で暫く微笑む自分を抑制できなかった――。