3-5
そんな空気にも彼は慣れっこなのかもしれない。
それは、すごく悲しいことかもしれないのに……。
「……ヴィレ・シュタルカー・ツァールと申します。どうぞお見知りおきを、善呪師殿」
「……」
とても、真っ直ぐに見つめられない。
(でも不思議。この国の最上位に君臨する王子が下の者に敬語で話すなんて……)
その時、サファイアはハッとした。
自分が今の今まででサングラスを外したままだったことに気付かなかったのだ。
サファイアは、急いでサングラスをかけた。
二人は彼女の行動に不思議そうな顔を向けた。
彼らは、サファイアが黒目であったことにも動揺した様子はない。
事情を知らない人間から見れば、この黒目のことは珍しい瞳、という程度の感想しか抱かせないのだろう。
きっと汽車の親子だってこういう態度だったはずだ……。
一歩外の世界へ出れば、この黒目は隠さずとも堂々と歩けるのだ。
わかっていたはずなのに。
自分はまだ……。
この瞳を恥じているわけではない。
この黒目に愛着こそ湧いた経験はないが、それでも私にとっては両親からの大切な授かりものだから。
視線に耐えきれなくなったサファイアは、無意識にタッキーへ目を移した。
それを、彼は受け止めてくれた。
「……善呪師殿は、お疲れのご様子だ。明朝改めてご訪問をお願いしたい。そちらも代償を用意しているのだろうが、我らはその程度の金銭では動く気はありませんので」
タッキーは、彼らの後ろに積まれた大量の麻袋を横目で見ながら言った。
おそらく、なかにはぎっしりと金貨が詰め込まれているのだろう。
「……わかりました。明日までに別の代償を用意いたしましょう」
それでは、と言い侯爵は王子を伴って部屋を退出した。
パタンッ――。
扉の閉まる音とともにサファイアはその場にへたり込んだ。
「死ぬかと思った」
「阿呆め。たかが王子と侯爵。しかもまだ子供だろう。腰を抜かすほどの者か」
「たかがって」
サファイアは恨めしそうな瞳を向けた。
「なんだ?」
「……受ける気なんだ。彼らの望み」
「……」
また、沈黙という名の肯定だった。
サファイアは、余計に落ち込んだ。
「理由を教えて。彼らが王家と貴族で代償が高額だから?それとも、私の望みってそんなにどうしようもない望みなの……?」
「……ハァ。仕方ないな」
タッキーは椅子にまた深く腰掛け直した。
「さっきあいつらが言ってただろう。俺を善呪師って」
「うん。そういえば〝善〟ってどういう意味なの?」
「本来、呪師っていうのは望みをなんでも叶えられる存在ってわけじゃないんだよ」
「え、そうなの?」
サファイアは驚いて、訊き返した。
一国の王子が依頼に来る存在。
当然、なんでもできる者と思っても仕方ない。
「長い年月を経て色々噂に尾ひれがついてそういう存在だと誤植が伝わったんだよ。ったくいい迷惑だぜ」
タッキーは耳のあたりを掻き毟ってから、語りだした。
「善っていうのは、呪師の種類みたいなもんで、その呪師は二種類在る。『善呪師』と『悪呪師』だ。この二種類には各々叶えられる望みが異なるんだ」
「えっ、同じ呪師なのに?」
サファイアは驚いた。
種類など、考えたこともなかったからだ。
そんな種類が生まれるほど、神の如き力を秘めた者は複数存在するのだろうか。
それは、ある意味恐怖だった。
「ああ。善呪師は、人間にとって幸いを齎すと判断できる望みしか叶えられない。逆に悪呪師は、人間にとって災いを齎すと判断できる望みしか叶えられない」
「幸いと災い……」
「あいつらの望みは、その幸いと容易に判断できる。ダイヤモンドの涙はもともとあの王子のもので、現在は神に献上された崇高な宝石。盗まれたとすれば、取り返すのは当然。その上、宝石を取り返すということは、建国祭で一般公開が可能となり、それは民衆の望みでもある。多くの幸いのために必要な望みと言っていい。……だがお前の望みはどうだ?」
タッキーがこちらを睨んだ。
「お前の最終目的は確かに姉の結婚、つまり幸せを望んでのことかもしれない。しかし、そのためにお前は自分に関わった人間すべての記憶を操作し消そうとしている。どう考えても幸いをもたらす望みとは言えない。記憶も人にとっては一種の財産だ。お前はそれを身勝手に奪おうとしている。もし、お前の姉さんが本当にお前を愛してるなら、その愛した妹の記憶を奪うのはその姉にとって災いを齎したと言っていい」
嫌な汗が肌を伝うのを感じた。
だんだんと先を聴くのが恐ろしくなった。
それでも、彼は最後まで詞を告げた。
サファイアも、耳を塞がず、それを聴いた。
「――俺はお前の望みを叶えないんじゃない。叶えられないと判断したんだ」
愕然とした。
全身から力が抜けるのを感じた。
災いを齎す望み。
そんな風に考えたことはなかった。
自分は姉のために、できる限りのことをしようと決意した。
自分の望みは当然〝幸い〟を齎す望みだと思っていた。
それがすべて単なる驕りだったと気づかされたのだ。
サファイアは、恥ずかしさで顔を上げられなかった。
望みを叶えられないと言われた時、激しく憤った自分がなんと浅ましいことをしたのかと思い起こされるからだ。
タッキーが阿呆小娘と呼ぶのも今なら肯定できる。
「……ご、ごめん……なさい」
一言謝ると、サファイアは茫然となりながら踵を返して扉へ向かった。
「おい、どこへ行く?」
タッキーの質問が、どこか遠くで聞こえた。
どこ?
そんなことわからない。
一つ確実に言えることは、ブラオへ、姉の元へはもう帰れないということだ。
なにも訊かずに送り出してくれた姉。
その気持ちを私はあっという間に水の泡にした。
本当に、最低の妹だったんだ――。
「わかりません。でも、もうここには居られないので、失礼します」
サファイアは扉に手を掛けた。
「……待て」
「え?」
後ろを振り向くとタッキーはそっぽを向いたまま腕組みをしていた。
「まぁ、なんだ。お前には借りがある。だから記憶を消す以外の方法をなにか講じてやろう」
「借り?」
タッキーはこちらを向き直り、椅子から降りてこちらへ近づいてきた。
「俺は善呪師。だから他人の記憶を操作することはできない。だからこうして普段から客が訪れても人型で身を窶してる。正体がバレても俺は力で記憶や命を奪うことはできないからな」
その詞に、サファイアは瞬きをした。
(そうか!他人だけじゃなく、自分の望みも叶えられないんだ)
その事実を理解してしまったから。
「だから、正直あいつらがここを訪れた瞬間、お前がいてくれて助かった。いくら俺でも宝石眼になにかしたとあっては国を追われるほどの大罪人になりかねんからな」
ツァール国において、最も大罪とされるのは王家に連なる者及び宝石眼殺しだ。
それを行ったものの末路は口にするの悍ましい。
特に、宝石眼に至っては故意に傷を与えるだけで死罪とされている。
「お前のお蔭で俺は、レッサーパンダとして初めて客の前に堂々と立てた。……心から礼を言う」
「タッキー……」
「いい加減、その名前やめろ」
それでも、そこは赦せないらしい。
サファイアは、思わず笑った。
まさか、自分が未だ笑顔を作れることに驚きながら。
「でも、自分でも名乗ってたじゃない」
「あれは!……あれは、あの場で名前がないと怪しまれるからだ。しかし、咄嗟に私に見合うだけの名が浮かばなかったんだ。すべては人間世界の語彙の少なさが原因だ。だから、あんなずんぐりむっくりの短縮形を……」
タッキーは心底厭そうな顔をした。
「私は、好きだよ。タッキーって名前」
サファイアが笑顔で言うと、フンっとタッキーはまたそっぽを向いた。
「私も、他人の前で黒目をあんなに長時間晒したのは初めてだったわ。成り行きだったけど、嬉しかった。でもさすがに、その一発目があのダイヤモンドの瞳じゃ、気後れして思わずサングラスかけちゃったけど……って、私ダイヤモンドの宝石眼に逢ってしまったんだわ!しかも、御自ら自己紹介までさせてしまった。どうしよう、タッキー。私もしかして死罪確定?」
今更ながらのサファイアの慌てぶりにタッキーは厭きれ返った。
「本当に、お前は阿呆小娘だな。呪師に名がないことくらい、あいつらはわかってるはずだ。なにしろ王宮の書庫といえば、ツァール国の歴史書だけでも、この部屋を埋め尽くすより大量に在ると云われるほどの宝庫らしいからな」
「そうなんだ。よかった」
サファイアは安堵した。
「それより問題は、ダイヤモンドの涙の在りかだ」
「はっ!そうよ。国宝級の代物がなくなったのよ。大事件だわ!すっかり忘れてた」
(忘れられるお前の頭の方が大事件だ)
タッキーは心のなかだけで呟きながら一つ溜息を吐いた。