失われるものの先
初めの半年はあっという間だった。覚えなければいけないことの波に押し流されるように、毎日は飛ぶように過ぎていった。小さな邑から出てきたファイには、町で暮らすと言うことすら初めてのこと。おつかいに出ることすら、邑でのそれとはまったく勝手が違うのだ。
母にはひと月ごとに手紙を出していた。紙は高価だから、母からの返信はまずないと思って、手紙を渡したかどうかだけは、せめて確認した。お互いの消息だけは絶えず知っていなければ。頼りがなければ無事の証拠、ともいうが、それでもお互いを気にかけていることを知らせることが、繋がりを保つためのただ一つの方法だと思った。
元気で暮らしているということ。何かにつけお金が要る町での暮らし。神官として学ぶことの多さ。そして、世の中で獣人がどういう扱いを受けているかということ。そんなことを繰り返し、簡単な文章で書いて送った。
弟子として町の社で学びながら働くようになると、幻獣のもの珍しさに力を見せてほしいと頼まれることがままあった。ただ獣の姿を見せれば大概の人間は満足し、使える力について問う者もあえて自分の記憶を読ませようとはしなかった。ただ、彼らは素晴らしい、と繰り返しいうのだ。その度にファイは苦笑しながら返した。
この力が素晴らしいものだとは、一度も思ったことはありませんよ、と。
そんな勿体ない。そう彼らは首を傾げながら、言うのだった。
一年はまだ何もかもおぼつかぬまま過ぎ、二年目にはなんとか自分でいろいろと間に合うようになった。三年目には、未熟ながらも師であるハオズの代わりに簡単な講義をするようになった。祀りの手順、人々との接し方、ここ以外の国を含む世の中すべての動き、国の成り立ち。神官として必要なことは粗方学び終えたように思った。
ただ、ファイはまだ、来た頃にハオズの言った第一段階からその先に進めずにいたのだった。どうしてファイがこの師を紹介されたか。神官として学ぶため、と答えたら、ハオズはただ微笑みながらも首を横に振った。一年経ってもわからずにいるファイに、彼は一つ糸口を示してくれた。
それは獣人として一番大事なことで、本来ならだれもが先に身についているはずのこと。ここに来て五年が経とうとしている。それでもまだ、ファイにはわからなかった。
「おお、ファイ。来たか。まぁ、座りなさい」
ある日の夕刻。ハオズに呼ばれ、ファイは社司の部屋に入った。西日が眩しいからか、早々と雨戸が閉め切られていて、部屋の中は小さな明かり一つが照らしていた。この二三年で、彼は腰が曲がってしまったから、高いところの窓は誰かに閉めさせたのだろう。彼の老いがわかるように、ファイも今のところはまだ年の通りに成長している。背は伸びて、多少は体もしっかりしたように思う。
勧められた椅子を引き、彼の正面に座る。机の上には棗の実がいくつか転がっていて、茶受けとして彼が食べていたものだとわかる。どうされましたか、と問う前に向こうが先に口を開く。
「もう、お前さんが来て五年になるか」
「はい、あっという間でしたが」
「教えるべきことは、殆ど教えてしまったな」
ハオズは目を細めて笑う。ファイはいえ、と首を振る。
「まだ入り口にも立っていないと、この間もそう仰っていたではありませんか。獣人として、大事な部分が欠けているのだと」
それがわかるまでは、何が出来るようになっても未熟だと。
そうだな、と小さく頷き、ハオズは机の上に手をそっと出した。
「お前さんを呼んだのはな、ファイ。ひとつ、頼みたいことがあったからなのだ」
「何でしょう、僕に出来ることなら何でも」
「その前に聞きたいことがあるのだよ」
ファイが首を傾げると、老社司はにこりと笑う。
「お前さんが獏として夢を“食べる”というとき、よくよく聞いてみると、お前さんは他人の記憶を読むことをそう話しているように思ったが」
「はい。その人が考えていたこと、感じていたことまで、感じることが出来ますから。身の内に入ることはやっぱり、食べる、という感じに似ていると思います」
なら、とハオズは転がっていた棗を一つ、ぽいと口の中に放り込む。
「私は今、棗の実を食べたな。そうすると、棗は私の中にあり、机の上には無くなったろう」
「身の内に取り込むだけでは、食べた、ということにならないと?」
「自分の血肉にしていくことも確かに食べるということだが、それは食べる側の見方ではないかな?」
「食べられる側から見れば、かつて在った場所から無くなるということ。……夢もそうすることができるのではないか、ということですか」
老社司はただ微笑を浮かべてこちらを見ていた。
「僕が夢を食べて、食べられた人はそれを失う。忘れる。社司様、それは」
とても恐ろしいことではないか。その人だけに預けられた記憶を、完全に奪ってしまうのだ。
「悪用すれば、の。ともあれ、きっとそれもできるのではないか、ファイ、お前さんならば」
社司様の目がじっとファイを見る。その視線は師弟ではない、一己の人間を見せる色をしていて。
「師父、あなたは」
「私はどうしても、忘れたいことがあった。忙しくしていれば、そのうち消えるだろうと今までずっと放ってきたのだが」
節くれ立ってかさかさになった手が、こちらへと伸びる。何十年も時間を溜めこんだその掌を、ファイはそっととった。目を閉じて俯くと、星の光をずっと強めたような、ちかちかとした瞬きが心の中を駆けていく。ひとつひとつが、彼の胸の中にあった夢で、彼だけが得られたもの、彼だけが負わなければならなかったもの。ひと際眩しく刺すような強い光を感じて、ファイは顔を上げた。
「師父、どうして」
「もう語ることすらできんのだよ、ファイ。きっと私はもう、死が近い。そのせいか、昔のことが本をめくるように蘇っての。だが」
強い光の中で見た青年の顔が目の前の老人の顔と重なる。深い深い後悔だった。消そうとしてかすれ、美化しようとして塗り直されて、なおもくっきりと残った彼の夢。
「これを持って、天のお傍には行けんと思ったのだ。のう、ファイ」
「でも、師父。これは」
「いいのだよ。空を飛ぶ鳥の荷は少ない、そうだの?」
ハオズがこちらの手をぎゅっと握った。
「……はい」
本当に、いいのでしょうか。喉まで出た問いを飲み込んで、ファイは頷いた。悲しい思い出だ。辛い記憶だ。でも、とても大事なものも含んだ、美しい夢だったのだ。
「すみません。では」
彼の中のひと際強い光を胸の中に吸いこんで、ファイは深く息をついた。これは彼の夢だったから、ファイの中にあってはやがて消えていってしまうだろう。
「荷が下りるとは、こういう感じなのだろうの。……何故、泣く?」
問われて、ファイはようやく自分の状態に気がついた。これは一体、“誰”の涙だろう。どこまで辿ったら、出どころの泣き声に行きあたるだろう。
もし、これが僕のものだとすれば。
「僕はきっと、とてもいけないことをしたのだと思います」
彼に忘れられた夢は一体どこへ行くのだろう。人は、景色は、ファイの中でどれだけ生きていけるのだろうか。
「それだ。お前さんは力を使うことに対して、常に後ろめたいものを感じている」
「それは」
ファイはハオズの手を離し、ゆるりと首を振った。
「夢は、その人のものです。僕が盗み見ていいものでも、こうして――奪ってしまっていいものでもないはずです」
「では、私はどうして、お前さんを呼んだと思うかな」
引いた手をさすりながら、ハオズは優しくまっすぐな目でこちらを見る。
「確かに、今お前さんに食べてもらった記憶は、私のものだった。私一人が負っていかねばならない、重荷でな。誰にもいうことが出来ず、かといって、引きずったまま死ぬことはできないと思うようなものだった。今、それがあった場所にはな、ファイ。お前さんへの感謝しかないのだよ」
「僕は、何も出来ませんでした。見ても、何も」
「過去のことの解決など、誰にも出来はせんよ、ファイ。それでも、今私はな、信頼できる弟子と気持ちを分かち、時間よりもやさしい力でそれを忘れることができた。これはお前さんだったからできたことだ。他でもない、獏の獣人であるファイ、お前さんだからだよ」
ぽろぽろと零れていた涙を拭い、ファイはでも、でも、と繰り返した。
「最初、お前さんが来た時、若いのにとても謙遜する子だと思った。でも、それは謙遜ではない、お前さんは……その力が、自分が嫌いだったのだ」
ハオズがこちらを見つめ、ファイはそれから逃れるように俯いた。
「……僕には、何もできませんから」
「いい加減にせんか!」
静かだが強い叱責。
「ファイ、今目の前にいる老体はな、お前さんが獣人として確かに救った初めての人間だ。それはもう、揺るがんのだ」
びりりとしびれるような声の勢いに、ファイは言葉につまる。
「師父、僕は……」
じわり、とわいた涙はわかるほどに熱くて、幾筋も流れた。
「獏というものは、悪夢を食べる獣だ。人々の抱えきれぬ想いを分かち、下ろしてくれる仁の心だ」
膝の上においた手のひらに、ぱたぱたと涙が零れ落ちた。この力は何も自分を助けてはくれなかったから、だから、人を助けられなくて当然だと思った。また、その逆も。ハオズは笑み、続ける。
「人の心を過去から未来へとつなぐ、優しい力だ。そうは、思わんかね?」
自分がもし、今まで一度でもこの力をよいものだと思っていたら。この力を、大事にすることができていたら。
「そう、思ってみても良いのではないかね?」
目の前の人を助けられたのなら、この力はまた誰かを助けることができるだろうか。
「師父、僕はこの力を――僕自身を、誰かの為に生かすことはできますか……?」
この力を認めることができたなら――力は、僕を助けてくれるだろうか。
「それは、お前さん次第だ。獣人としての矜持を、力を持つことの喜びを、使うことへの覚悟を持っていれば」
ファイは顔をあげ、目の前の師を見つめ返す。邑の社司さまも、師父も。どこかこの人たちが凛として見えるのは、きっとそれを知っていたからだ。
「力に選ばれているから善い人間なのではないのだ。善い人間だから、天や土地が力を貸してくれた。お前さんが生まれたときから、獣性を持って生まれているならば、そうだ。お前さんがそうあろうと思ったように、お前さんはそうあることができるだろうよ」
ファイは涙をぬぐい、師を見返す。
「はい……!」
好い好い、とハオズは笑んだ。
「本当は、教えずともいつか気づくと思ったのだがのう。だが、発破かけても何してもお前さんときたらおっとりと構えておるから、言わずにおれなくなったよ」
「落ち着きすぎだ、と友になじられたことがあります」
そうだろう、と声をあげて、ハオズは笑う。
「下手をすると、私よりもだ。……お前さんはこれから、私以上に様々な思いに出会うだろう。だが、今教えたことを忘れなければ、きっと。お前さんは善い者でいられるはずだ」
「はい!」
「まぁ、少しくらいぐれたほうが、実になるかもしれんぞ?」
茶目っ気にハオズはこちらに目配せしてみせる。ファイも、かもしれません、と応えて笑った。
「お互いに、いつかここを離れるときがくるだろう。そのときは、この私の最後の弟子であったこと、忘れないでいておくれな」
そんな、とファイは立ち上がる。
「約束をしておるのだろう、その友と。ならば、早く帰ってあげなさい。私のあとはちゃんと、今のうちに手を回しておくからの」
「師父……」
夕飯の支度だ、とハオズは立ち上がる。横を通り過ぎる、すっかり小さくなってしまった師の姿。この人は、最後の最後も自分に教えてくれようとしてくれているのだ。
「ありがとうございます……!」
涙がこぼれそうになるのを今度こそこらえ、ファイは深く頭を下げた。
師父が亡くなったのは、同年の秋も深まったころ。ハオズは臨終の床にファイを呼び、微かに笑みを浮かべて言った。
「すべて伝えた。そして、“これ”はお前さんが乗り越えていく試練の第一歩」と。
彼は最後の最後まで、師のままでいてくれた。この師に導いてもらえた理由と喜び、そして、それと別れる悲しみが体の中に満ちていく。ファイは目頭が熱くなるのを感じながら、ただただもう一度、感謝の言葉を送った。