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朝の泉

 その後数日もたたないうちに、ファイと母はまた(むら)の端の小さな家で暮らすことになった。追い出されるように離れを出た日も母は文句ひとつなく、そこを出た。自分が泣いたと聞いたあの夜も、迎えに来た帰り道何か訊いたりしなかった。ただ、ぎゅっと手を握って、よく我慢したのね、と言った。こちらもただ、黙って頷いた。我慢することは、母から一番習ったことだから。

目の周りを真っ赤に腫らした次の朝、リュウも同じ顔をして、遊べないと言いに来た。理由はファイにはわかったが、リュウはまだ納得のいかない様子で、ひどく怒っていたのを覚えている。それでも、彼は辛いことは耐えなければいけないのだとわかっていた。すくなくとも、ファイにはそういう風に見えたのだ。

 それから五年。その間、同じ邑にいながら、リュウと顔を合わせることが殆どなかった。邑の祭り事のときに、互いの視線に気付いて、済まなそうに頷きあうだけだ。特に言われはしなくても、二人で会えば邑長(むらおさ)がそれを禁じるだろう。

母は砂鉄(さら)いの仕事をまたするようになって、わずかにでも食べるものを得られるようにしてくれた。もとより、母だけなら前から村にいた一人の娘だから、元の仲間うちに戻るのは誰の気持ちにも簡単なことなのだと思う。それに、追い出されたことを、憐れんでくれる人もいたから、助けもあって貧しくも充分暮らしていけた。

 それに。あのあと、ファイは邑の輪には入れないことを理解して受け入れた。だから、どことなくふっきれたような気持ちで、日中から分祀に通いはじめた。母の傍にいれば他の邑人が気を揉むだろうし、自分はきっと邑の仕事には関われないだろうと、わかっていたからだ。社司になろう。そう決めて、獣人としての在りようの他に、神官としての仕事を学んでいた。

「ファイ、祭りの準備は――」

「出来ています、ショウさん。これでいいかどうか見ていただいてもいいですか」

 社司の声に、ファイは祭壇を示して言う。一人前の男になることを祝う、成人の祭り。それは十五の歳に邑の男が行わなければならない儀礼だ。これは、邑長の子――リュウの為の。

 祭壇を見て、社司さまが大きく頷く。中央に据えられた常磐木(ときわぎ)の枝に、供物。どれも、深く森に入らなければ得られないものだ。木々の声を聞き、天から分けられたものだけを飾る。それが決まりで、これらはどれもファイが支度したものだ。

「もう君の方が、私よりうまく祓いが出来る気がするんだけれどね」

 苦笑を浮かべて、社司さまは言う。

「まだまだ僕は、未熟ですよ」

 応えて、ファイも苦笑を返す。未熟もそうだし、何より自分が成人の場にいることを邑長は嫌がるだろうから。リュウの祝いの席にいられないのは残念に思うが、会えないなら会えないで、この支度は完璧に仕上げようと思う。

 本当ならファイも成人なのだけれど。ほんのひと月ほど前、母はすまなそうにそう言って、ファイの頭を撫でた。まるでまだ小さい子にするように。この数年でやっと、流れ込む夢から身を守る方法を覚えたから、その時母が何を思っていたかは知らない。でも、わかっていた。祭壇の支度は森から戴くにしても、守り刀や服、祝いの品は高額だ。買うにしても借りるにしても、自分のところでは無理だろう。いいんです、と応え、ファイはただ微笑んで返した。

 日が落ちて、夜が来る。ファイは社の周りに篝火を灯して回った。火をともし終わると、ファイは社司に深く礼をして、その場を辞した。邑の中央は通らず、川の土手を走り、薄闇の中顔を伏せて家路を急ぐ。彼の成人を祝う、誰の目にもとまらないように。太鼓の音に顔をあげる。邑長の家の前から、松明(たいまつ)を持った人々が社へと向かっている。この儀を経たら、きっとリュウはよい大人になって、よい邑長になるだろう。紅の残る夜空に、星が眩しい。星もこれほど祝うなら、彼はきっと善い人になるだろう。きっと、きっと。

祭列と星に祈りをささげ、ファイは母の待っている家へと急いだ。


 翌日。誰かに呼ばれた気がして、ファイは目を覚ました。雨戸から指す陽はまだ蒼く、朝靄が淡い光を放っていた。

「ファイ」

 差し込む光に影が差し、ファイは窓を見やる。昨日成人したばかりの義兄弟の顔が、そこにあった。

「リュウ、どうしたの、何が――」

 しっ、と指を立てて、リュウが辺りを見回す。

「話があるんだ。森の、泉の方まで来てくれ。おれは先に行く」

 姿は見えなくなり、足音が遠ざかっていく。隣ではまだ母が眠っていた。もう少しすれば起きるだろうが、あえて起こさなかった。きっと急ぎの用で、秘密の用なのだ。音を立てぬように気をつけて、ファイは家を出た。森の泉は、昔二人で見つけた秘密の場所だ。開けていながら隠された、清水の湧く森の中心。邑から出てすぐ、ファイは駆けだした。

「リュウ!」

 泉の前に立つその姿に、ファイは息を切らしながら呼びかける。新しく仕立てただろう服に、(ぎょく)のついた短刀。昨日の祭りでのものだろう。久しぶりに見たその姿は、当然ながら前よりもぐっと大人びて見えた。

「ファイ」

 彼は一瞬その表情を緩めたが、すぐ何かを思い出したかのように(かぶり)を振った。森の鳥さえも声を潜めているような沈黙、白い泉がさらさらと音を立てていた。何か言いづらそうに黙り込んだリュウを見て、ファイのほうから口を開く。

「成人の儀、どうだった?」

 リュウがぱっと顔をあげ、ほんの少し、悲しそうな顔をした。

「何も、なかったよ。決まった通りに、決まった通りのことを言って、これを貰って」

 高価なものだろうに、リュウは指で短刀の柄を鬱陶しげに弾く。寄ってみると、リュウは随分と背が伸びたように思う。体つきも邑長に似て、がっしりとして。ただ、気の強そうにまっすぐな眉は変わらなかった。ファイ自身はどことなく線がやわらかいから、余計にそれが際立った。

「見に行けなくてごめん。でも、ちゃんとした式になるように、お祈りしたよ。星がきれいだったから、星に祈ったんだ」

 宵の始まりを告げる鐘と、祭りを告げる太鼓の音のうちに。祈るうちに、自分は彼に、得られない夢を託していることに気がついた。知ればリュウは不機嫌になるだろう、重荷に思うだろう。でも、そう思ってもなお、祈る気持ちは強くなった。彼は幸せにならなければならない。

 蚊の鳴くような声で、ありがとう、と聞こえて、ファイはただ頷いた。

「あの祭壇、ファイが準備してくれたんだってな」

 続く言葉に、ファイは驚いた。社司さまには言わないでほしいと言っておいたのに。

「父上が――親父が気付いたんだ。供物が随分揃っているって。ファイが力を使って、森から得たんだろうって。社司さまは違うって言ってたけど、親父が引かなかった」

 ファイは深く呼吸した。森はリュウを思う自分に応えていろいろと授けてくれた。ファイの力、と言ってもそれはただ気持ちの上でだけのものだ。

「おれはすごく嬉しかった。ファイはまだ友達でいてくれたんだって。なのに」

 彼は口ごもり、拳をぎゅっと握りかためた。

「大事な式に、神官以外が関わったのが気にいらないんだって。ファイがあんなに立派に揃えてくれたのに、それを……」

 式の終わりに火に投げた、と。聞こえるかどうかの声にも、ずきり、と胸が痛んだ。

「社司さまに聞いたんだよ、ファイは獣人としても神官としてもずっと、強い力を持っているって。俺よりもずっと、立派な人間になるんだよ」

 泣きそうな顔と声に、ファイはなにも応えることができなかった。

「僕は、大丈夫だよ、リュウ。リュウが一時でも喜んでくれたのならそれで……」

「ファイ!」

 彼が上げた声に、ファイは口を閉ざした。

「なぁ、一緒に邑を出よう。どっか遠い、いっそ違う国で暮らすんだ。二人でなら、きっと大丈夫だって」

 すがるような目で、リュウはこちらを見る。その眼差しはあまりにも必死で。

「うんって、言ってくれよ。そうじゃないと――」

 成人の儀の時、何か他にもあったに違いない。ファイは躊躇いながらも、リュウの腕に触れ、昨夜の夢を食む。

「……僕がどこか、遠い町に行かなきゃいけないんだね」

 見えた断片を接いで、言葉にする。リュウの目が見開く。

「中途半端な状態でいるより、きちんと社司の勉強をした方がいい、そうだね?」

「違う! 親父はただ、ファイをどっかにやりたいだけだ!」

 ファイはゆるりと首を振る。邑長さまの目論見がそうだったとしても、きっといずれ訪れる旅立ちだ。

「いいんだ、リュウ。それに今回のことを考えれば、僕が社司になってしまえば、これからは何の問題もないわけだから」

 リュウがこちらの肩を掴み、声を張り上げた。

「よくない! 知ってるんだ、社司になるには、国中を回らなきゃいけないんだって。それには何年もかかるし、勉強するなら十年以上……!」

 体の良い追放だ。戻ってくる頃には自分に降りかかる厄介もない、と。ファイは不意に笑みがこぼれるのを感じた。どこかで聞いた様な――食べたような話だ。大丈夫、と呟いたが、リュウが首を振る。

「大丈夫じゃない、ファイは何にも悪いことをしてないだろ! ずっと、ヨウのためにもおれのためにも、必死で頑張っているのに。親父が何も見てないだけだ!」

 ファイはリュウの腕を下ろし、落ち着かせるように同じ言葉を繰り返した。

「大丈夫なんだよ、僕は。邑は出ないといけないかもしれない。でも、国を回る必要はない」

 リュウが怪訝そうに眉根を寄せる。

「邑長さまは忘れて……いや、きっと記憶がこんがらがっているんだと思う。僕は、獣人になる修行はいらないから」

 ファイは息を整える。いつか見せようと思っていたものが、こんなに遅くなってしまったけれど。

 軋むような音が体に響き、姿が変わったのがわかる。それまで静かに二人を映していた泉に、赤いものが映る。臙脂の和毛(にこげ)に大きな耳、長い鼻と牙。生まれたときそうだったという、獏の獣人としての姿。

リュウが息をのむ。瞳に映る怯えたような色。今まではそれをずっと恐れていた。でも、今はそれでもいいと思った。捨て鉢の気持ちが半分、そして、もう半分は。

「それが、ファイの力……?」

「うん、生まれた時もこうだったんだよ。今は好きな時に変われるけど。それに、これだけじゃないんだ」

 姿を元に戻し、ファイは息をつく。

「獏って聞いたことある?」

「あ、悪い夢を見たときに、母さんが絵を描いてくれた……枕の下にそれを入れたんだ。でも、朝が来て、親父が気付いて破って」

「獏は、夢を食べる獣なんだよ。悪い夢を食べるから、そうやってお札にして。僕はそれの獣人だから」

 子供の時のような表情で、リュウが頷く。

「邑長さまに嫌われるのは、それだからだと思う。今は加減できるけど、昔僕は邑長さまの思い出を全部見てしまったから。隠しておきたいことは、誰にも知られないようにするよね」

「親父の、隠しごと?」

 頷く代わりに、それ以上の言葉を拒んでゆるりと首を振った。

「だから、いいんだ。きっとすぐ戻ってくるよ。それに母さんを独りにしておくのも嫌だ。だから、なるべく急いで勉強して、邑に戻ってくるから」

 大丈夫、と繰り返して、ファイは微笑んだ。そろそろ皆が起きだすころだ。成人したばかりの子がいなければ、きっと騒ぎになるだろう。化生の子まで揃っていなければ尚更。

「邑に戻ろう、リュウ。そろそろ皆心配するよ。僕は、きっと上手くやるから」

 まだ飲みこめない様子で、それでも、リュウは頷いた。その背を押して泉を離れ、これ以上成長したらくぐれないだろう藪をくぐって、森の小道へ出る。

「なぁ、ファイ」

 前を歩いていたリュウが、不意に足を止める。

「さっき、獣人の姿を見せてくれた時に、お前すごく悲しそうな顔したよな。笑ってたけど、諦めたみたいな顔してた」

「そう、だった?」

「言っておくけどな!」

 リュウが振り返る。

「おれがあれくらいでお前のこと嫌いになると思ったら大間違いだからな。嫌われたほうが楽だって思ってたって、おれは嫌いになんかなってやらない」

 怒った顔が、いつか夕陽の下でみたそれと同じで。笑みと何かが、溢れて零れた。ああ、よかった、これならば。鶏の声聞こえてきて、時間が溶けたように朝へと動き出す。

 良かった。彼が、彼のままで良かった。叶った、もう半分の想いが、朝日に照らされてきらりと光った。

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