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石の一投

 ただ一つ、小さな油の灯りの下で、母と夕食を取る。母屋で働く者と同じ食事がここにも届けられるのだ。終われば洗って、食器を母屋へ返しに行く。使用人のためのものだとしても、他の家のものよりはよほど良いものだとファイは知っている。

「母さん、食器は僕が持っていきます。通り道だから」

「駄目よ、もう暗いもの。私も行くわ」

 うわぐすりの剥げかけた器をすすぎながら、母は首を振る。

「でも、分祀までだってもう一人でいけるんです。もう送り迎えだって大丈夫、お使いだと思って」

ファイは器を端切れで拭き、食い下がる。もう小さい子ではないし、歩いたとしたって邑を囲う板壁と堀の中だ。それに。

 今日は外で星が見たい。夕暮れの明星を見て、きっとそうしようと思ったのだ。

「終わったら、走って帰ってきますから」

 それでも母はしばらく渋っていて、全部拭き終わってファイが簡単に身支度するまで、母もついて行くつもりで雨戸を閉めたりしていた。

「大丈夫です!」

 そう何回か繰り返してようやく、母が折れて、一人で行けることになった。甘やかしはしないが、それでも母は自分をなるだけ手の届くところに置いておこうとする。その理由は、生まれた時の一件があるからだと思う。誰かに取りあげられる恐怖を、母はずっと抱いている。

「行ってきます。なるだけ月があるうちにちゃんと帰ってきますから」

「うん。気をつけて。転ぶと危ないから、走らなくていいわ。社司さまによろしくね」

 群青の夜へと歩き出し、火の灯りが充分遠くなったころ、ファイは顔をあげた。満天の星空。水気の多い夏の空でも、星の光はまっすぐこちらへ降るようで。食器を抱えたまま、しばらく足を止めてそれを眺めた。

 ファイにとって、星は夜の暗幕に開いた穴でも、振り撒かれた(ぎょく)や金銀の粒でもなかった。星はそれぞれに(うた)(うた)い、こちらに言葉を投げかける命そのものだ。ささやかに、でも、強く確かに、天から遠い自分にまで命そのものを語りかけてくる。命というもののありようを教えてくれる、師や友に近しいもの。声や記憶のように堰を切って押し寄せたりしない、とても、とても優しい詩だ。

 青い風が首筋を撫でる。伸びた髪が襟足や耳を撫で、ため息をひとつつく。ファイは再び歩き出した。地上に目を落とすと、母屋の灯りは近い。自然と息を潜ませ、裏手の方に回って(くりや)の勝手戸を叩いた。

「ファイです。食器を返しに来ました」

 声をかけたが、返答はしばらくなかった。

「……ファイ?」

 返事を返すと、わずかに戸があいて厨のおかみさんの、顔半分だけが覗いた。厨が明るいから表情までわからなくても、その目には小さな怯えが瞬いている。

「食器を」

 器を差しあげて見せると、ああ、とおかみさんは思い出したように返事をした。ファイの上から下まで眺めてから、隙間からのぞく片方の目が下を向く。

「そこに置いておいてくれるかい、今手が離せなくてねぇ」

 ファイはそっと足元に器を置くと、離れて頭を下げた。言葉を返してくれたのは、自分の姿がまっとうな人の形だったから。そして、手渡しを拒んだのは、それでもこちらをまっとうな人だと思っていないから。ファイは拳を握りしめ、(きびす)を返す。こちらが背を向けたのを見てか、おかみさんが口を開く。

「ああ、そうだ、川の傍へは」

 そんな心配の声も聞いていられなくなって、ファイは駆けだした。もう、瀬に足を取られるような子供でもない。よそよそしい態度に気付かないほど子供でもない。でも、それをさっと流してしまえるほど、大人になってもいなかった。ファイは逃げるように、村はずれに駆けだした。

 川の土手は(やしろ)に向かう一番の近道だ。村で最も上流にあるのが社で、一番清い水は、社の為のものなのだ。川をさかのぼれば、社が見えてくる。ファイは増水に備えて土が盛られた土手を駆けあがる。下を向かないよう、星をじっと見つめながら。

「誰だ」

 厳めしい誰何(すいか)の声に、ファイは星灯りに目を凝らした。しっかりした体格の、大人の男の影。川を見る向こうがこちらを知るより早く、ファイはその声の主がわかった。

邑長(むらおさ)、さま。……ファイです」

 体を走る怯えに、ファイは足を止めた。邑長さまは、ここで何をしていたのだろう。自分と同じように星を見ていたのだろうか。彼らの優しい詩を聞こうとしたのだろうか。

 いや、違う。きっと違う。

「ヨウの子か。こんな時間に何をしている」

「社に、社司さまに獣人としての心得を教わりに行くんです」

 短い鼻息は、笑いだったのだろうか。そうか、と短い応答のあと、彼がこちらを見る。

「あれも獣人だというからな。社司になるものは、獣人になるときく」

 はい、とだけ応え、ファイはその向こう、川の上流を見た。すぐにでもこの場を辞して、横を駆け抜けて行きたい。母がかつて感じた恐怖は、今ファイの中にも深く根ざしているのだ。

「ならば」

 邑長さまがこちらを見る。月の灯りに、その目がきらりと光った気がした。

「生まれつき獣人だと言うお前も、やはり社司になるのか?」

 その顔はどこか皮肉っぽくて、冷笑にも似ていて。邑長さまと社司さまの仲が悪いことはファイも知っている。ならば、この笑みは、長の庇護を受けながら社司を慕うことへの咎めだろうか。どう答えれば、彼の笑みを怒りに変えずに済むだろう。ファイは沈黙を答えにされないよう、慌てて口を開いた。

「なるかもしれません。でも、今すぐそうだというんじゃないんです。僕は母を手伝いたいし、できることなら……(むら)の仕事も学びたい。もう、十になりましたから」

「まだ、十なのだ。選ばれた者だろうがなんだろうが、お前はまだ子供だ」

 ファイは俯き、小さく返事をした。

「だが、それもいいだろう。まだ選べるということだ。お前は聡い。邑の為に生きるとも、天への道を目指すとも、それは邑の(ほまれ)になる」

 邑の為、邑の誉。ファイは顔をあげた。邑の為になることも、自分に許されるのか。普通の邑人(むらびと)と同じように、木を切り出し、鉄を打てるのか。ファイは微かな星灯りに、じっと彼の目を見つめた。わずかな沈黙に川の音が高い。

「どうあれ、導く者が必要だろう。社司になる為にあの男がいるように」

「……どういうことですか」

 訊ねても答えはすぐ返ってこなかった。こちらを見返していた視線がそらされ、どこか遠くを見るようなものに変わる。

「リュウも共に学ぶ人間がいたほうが、意気が出るだろう。兄弟なら、尚更だ」

 それに、と視線がまたこちらに戻る。でも、その目はまだファイを見てはいなかった。

「それにもう乳母の要る年でもない。傍にいるには理由がいるだろう?」

 ファイはじわじわ這い寄る予感に、小さく首を振った。これから続く言葉は、聞かない方がいい。きっと星のない夜のように、圧倒的に身を包んで行く恐ろしいものだ。閉じることもできない唇が、夜気に震えていく。

「邑長さま、何を……?」

「俺の養子になればよい。そうすれば、ヨウとお前と、今の暮らしも保てる」

 空から降る歌が、一時に止まった気がした。養子。この人は、自分の父になろうという。ファイに、子になれという。瞬間的に、母の記憶と昼間のリュウとが頭の中で瞬く。

《お願い、やめて! 誰か》

《父上だって、おれじゃなくて、ファイが自分の子だったらって》

 今目の前につき出されるファイがずっと得たかったものは、今大事にしたいものを捨てないと手に入らないものになってしまった。母の愛と覚悟を、リュウの誇りと友情を、一切に裏切って手に入れるものに。

――ひどい人だ。このひとは、本当にひどい人だ。

 ファイが知っている何もかもが、腹の底でふつふつと煮えだす。黙って寝かせておくべきだった色んな夢が、叫びに似た泡を立てて。

 黙り込むファイに、彼は優しげに笑んで見せる。

「すぐに決めずとも良い、そうすぐ大人になるものでもない。お前にその気があるのなら俺からヨウにも」

「……ひどい人だ」

 自分の中のふたが爆ぜたのを、ファイは確かに感じた。

「何?」

 怪訝そうに眉を寄せた彼に、ファイは歩み寄る。

「手を。お手をお出しください、邑長さま」

 彼が短く息をのむのが聞こえた。きっと、今自分は獣に変じている。身体も心も真っ赤に煮えている。ファイは間をつめ、彼の腕を取った。

 そして、ありったけの気で彼の夢を読んだ。

《本当は、こんなはずじゃなかった。どうして――》

 雷に打たれたような衝撃に、ファイは膝から崩れ落ちる。

見えたそれは殆ど慟哭だった。意識が焼き切れそうになるほどの困惑と怒り。

《すまない、ライ。私は社司になる。だから、しばらくこの村を出ようと思う――》

《お前に、長の座を譲ろう。引いては、隣町の娘との婚約を――》

《このことは、ずっと黙ってる。あなたは立派な長にならないといけないの――》

《獣の子は、俺への罰だ。保身ばかり考えた俺の――》

《取り戻したい。取り戻したい。今からでも――》

思うとおりにならなかった全てのことへの後悔。それを作り出してしまった自分の弱さへの苛立ち。あらゆる怒りの矛先は彼自身。ファイは息を切らせながら、読みとった何もかもを戻してしまわないよう、縮こまるように頭を抱えた。吐き出してしまえば、きっと楽になるだろう。でも、食べた夢はもう彼の夢であって、ファイ自身の記憶に刻まれていく。

「何をした……?」

 震える声で、目の前の一人の男が呟く。

「お前は今、何をしたのだ……っ」

 ファイは黙ったまま首を振る。煮えていた怒りは夢の中に掻き消えて、姿も人の姿に戻っていく。誰も彼も、堪えるしかなかった。堪えるしかないのだ。誰もかもが堪えていかなければいけないのだ。平穏を保つには、どうにもならないことを平然として、耐えていかなければいけなかったのだ。

 それを知った自分は、たとえ水面(みなも)に投げられた石だとしても、波紋を作ることはまかりならない。ただ、ゆっくりと底へと沈まねばならないのだ。

「答えろ! 何をした、何を見たのだ!」

 荒らげた声に、ファイはそちらを睨み返し、立ち上がる。

「何もかも!」

 悲鳴のようにファイは声を張り上げた。

「何もかもです……“父さん”!」

 彼が目を見開き、こちらの両肩を掴む。さっき見た夢の残響が、その掌から波のように伝っていく。熱くなった頬に雫がつたう。

「僕は、養子になどなりません。僕は――」

 ファイは腕を振り払うと涙を拭い、駆けだした。すべて捨てて逃げ出したくとも、やはり、足は社に向けるほかなかった。全てを捨てるには、まだ幼すぎるから。


 小さな来客のために、つけておいた灯りの油が減ってきた。いつもならとうに来ている頃合い、心配こそあったが邑の中であることとその子の性格を思って迎えにはいかなかった。まだ宵も浅い。社司は油を足そうと立ち上がった。

もっと教えてやらなければならない。知らず知らずに使う力は彼を年齢以上のものにするが、成長すると言うことは伸びるためにその分、傷んでいくということだ。

 油さしを取ったところで、けたたましい音を立てて、分祀の扉が開かれた。木の音が社の中を響き渡る。

「騒々しい、何ごとで……」

 そちらを覗いて、社司は言葉を詰まらせた。息を切らし、肩を震わせ、待っていた少年が立っていた。

「ファイ、どうしたのです」

応える言葉なく、懐めがけて、彼は飛び込んでくる。弾みで油さしが転がり、中の油が床板に広がる。普段なら絶対に、こんなことをしない子なのに。どうしたのか、と再び問うと、彼はゆっくりと顔をあげた。

「社司、さまっ」

 彼は泣いていた。泣いているところを初めて見るし、ひょっとすると彼も今まで他人にそんな姿を見せなかったのかもしれない。それが、拭うのが間に合わないほどに、言葉を発することが困難なほどに、体を震わせ泣いていた。

「何が……」

「どうして、僕は、どうして……っ! こんな力っ」

 聞きとれた言葉に、社司はおおよそのことを察した。

「どうして、こんな力をっ 持たなければいけなかったのですか……っ! 要らない、要らないんです、こんな力なんて……知る以上に、何も出来ないのに!」

 社司はただ、この体をぎゅっと抱きしめた。彼は、社司も知らないことを、本来誰にも知りえないことを知ってしまったのだ、背負ってしまったのだ。

「教えてください……! どうやったら、どうやったら普通に生きられますか、社司さま……」

 彼はしゃくりあげながらも、言葉を続ける。

「何のためにっ、僕はこんな力を持たされたんですか。何のために……」

 少年がこちらの服をぎゅっと掴む。

「何のために、僕は……っ、生きなければならないんですか!」

 声の限りに叫び、彼は今度こそ声を上げ泣き始めた。社司はただ、彼が泣きやむまで、その頭を撫で、抱いていてやった。

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