“普通の”子供
物心つく頃にはもう、自分が他とは違うことを知っていた。それは時折変じてしまう自分の獣の姿のおかげでもあって、常日頃、邑の人々から向けられる視線のおかげでもあった。
――これはきっと、得ない方が良かった力なんだ。
十になる頃には、自分がどういう者なのか、ファイはよく理解していたのだった。
「母さん、今かえりました」
「おかえり、ファイ。……坊ちゃまも。おかえりなさいませ」
自分と、その後ろについてきた少年を見止めて、母が繕い物から顔を上げた。邑長さまの家の離れ。邑長の子の乳母となった母、ヨウと自分に与えられた小さな小屋。自分たち親子に向けられる視線の割には、住みよい住居だ。
「かえったぞ、ヨウ。母上さまは?」
「母屋の方でおやすみでしょう、こちらにはいらっしゃいませんよ」
母は丁寧に後ろの少年に応え、針のささった服を脇へと寄せた。
「お顔を見せてらしたほうがいいですよ。さぁ、いってらっしゃいませ。その間におやつの支度をしていますから」
わかった、と少年は部屋から駆け出ていき、母は糸屑を払って立ち上がった。
「変わったことはなかった?」
母はファイの頭を撫でながら、やさしく問うた。
「何も。大丈夫です、母さん」
いつもどおりの視線以外は何も。大丈夫には違いなくて、ファイはそれだけ応えて、板間に腰を下ろした。
どうして邑の人は自分を好奇や畏怖の目で見るのだろう。既にファイはその答えも得ていた。触れるものを通して、夢を食べる――人の心や記憶を読む力が備わっていたからだ。それは獣の姿と同じように生まれつきのもので、触れさえすればいいのだから、こうして幾度となく触れる母の記憶は否応なしにファイの中に入り込んできた。だから、自分が生まれたとき何があったか、そして、おそらく誰もが知りたがっていることさえも。
「今日も社司さまのところへいく?」
問われて、ファイは頷いた。社司さまは文字や邑の外の色々なこと、自分に備わった獣の力のことを教えてくれる。ただ暮らすには余り、今のファイに必要なことを。日のあるうちにくればいい、と社司さまは言ったが、母を助けて仕事をするほうが、まだファイには重要で、当然のことのように思った。
“普通の”この邑の子ならば、日中は家の手伝いをする。ファイもなるべくそのようにありたかった。本当はもう、邑の鉄作りに関わって、火や木に向かう仕事をする年頃のはずなのに。鎚も斧も手にしたことがない。ついていくべき父もない。
でも、この境遇を生みだす何もかもを知ってしまっていると、それに声を上げることすらできなくなるのだった。怒りも悲しみも、言葉にしたら傷つく人がいる。
「ご飯を食べたら行こうね、片付けるまで待っててくれる?」
「いいんです、母さん。もう一人で行けます。邑の中ですから」
応えると母は少しばかり寂しそうな顔をした。それでも、何も言わずまたそっとこちらの頭を撫でる。もうやめようと思っているのに、母の想いはこちらが飲み込むよりも早く、押し寄せてくる。
もっと子供らしくていいのに。甘えていいのに。可愛がらせて。大人になるのが早すぎる。知りすぎている。いつまでも私の――守るべき“子”でいて。
「……じゃあ、気を付けてね。起きて待ってるから、あまり遅くならないように」
ファイは頷きながら、一方で必死になって母の心を飲み下していた。
母が菓子棚を開けていると、どたどたと先ほどの少年の足音が帰ってきた。自分の乳兄弟の少年のものだ。同じ年、ほんの数月違いに生まれたはずなのに、同い年に見えないと皆は言う。
他人の記憶を食べるうちに、その年も一緒に食べてしまったんだ、とファイは思う。人が時間をかけて得たものはきっと、食べない方がいいのに。消化するよりも早く夢はどんどん頭に入ってきて、ときどき胸やけしたような気分になった。
「ファイ、母上が桃をくれたぞ、一緒に食べよう」
声を掛けられて、ファイは物思いから顔を上げた。目の前につきだされた桃は真っ赤に熟れていて、いい香りがする。ファイはほっと息をつき微笑む。
「ありがとうございます、リュウさま」
「様はやめろと前も言ったぞ。ファイはおれの兄なのだから、呼び捨てでいいんだ」
「ありがとうご――ありがとう、リュウ」
応えるとリュウはにかっと嬉しそうに笑った。皮をむいてくれ、と母に言い、円座の上であぐらをかいてそれを見ている。
彼のようになれたら。“普通の子供”になれたら。母はきっと喜んでくれるだろう。
「……それで、父上はいつもおれに言うんだ」
桃の汁で口の周りを汚して、彼は腹を立てた様子で言う。
「お前はいずれ、長の座を継ぐ者だって」
わきまえろ、とはどういう意味だろう、と彼は口をとがらせる。
「おれだって、いろいろ考えてるのにさ」
そう怒りながらも桃を丸ごと一つ食べて、彼はふうと息をついた。ファイが窓の外をみると、もう日が暮れはじめている。邑長である彼の父は忙しい。そして、彼の母は病弱で母屋に籠りがちだったから、リュウはいつも日が落ちるまでこの小屋にいるのだ。
笑みを絶やさず話を聞いていた母が、その口を拭いてやろうとすると、彼はもう自分で出来る、と慌てて口を拭った。
「なあ、ファイ。どうやったら、ファイみたいになれるんだ? 大人っていうかさ」
リュウは心底困ったような顔をして、こちらを見る。力のせいとも、ただ知り過ぎたせい、とも言えなかった。そんな顔をしたいのは、ファイのほうだ。
「きっと父上だって、おれじゃなくて、ファイが自分の子だったらって思ってるんだよ。きっとそうだ」
「リュウ……」
そんなことは、と言おうとして、ファイは言葉に詰まった。ただつむじを曲げている、と断じるには、この乳兄弟の顔はあまりに悲しかったのだ。
「みんな言ってるよ、ファイは特別だって。だから……」
リュウは俯いて、その先に言おうとした言葉を濁らせた。寂しくて、悔しくて、だから悲しくて。触れなかったのに、ファイにはそれがわかってしまった。そして、真反対にいる自分まで、同じ悲しさが湧いてくる。
「リュウ、そんなこと言わないでよ。そんなことを言ったら」
自分が夢見るものまで、悲しいものになってしまうじゃないか。
ファイは口ごもると、リュウも応えることなく黙り込んだ。こんな特別が欲しいなら、いくらでも。そうして、向かいあったまま黙り込んだ二人の間に母が茶碗を持って入る。
「そうですよ、そういうことをいうものじゃありません、お坊ちゃま。邑長さまは、本当に貴方を大事にしていらっしゃいます」
母がリュウにお茶をすすめて、言う。
「邑長さまがあなたに厳しいことをいうのは、あなたを思ってのことですよ。今、つらいと思うことを乗り越えていれば、それが大きな力になって、大人になってからの苦労をうんと減らしてくれるんですよ」
すん、とリュウが鼻を鳴らす。でも、と言わんばかりに彼の口はへの字のままだ。
「それに、大人になったらつらいことがあっても、泣けないんです。でも、今つらいことがあれば」
母はリュウの手をとって、にっこりと笑う。
「こうして、ヨウが坊ちゃまの話をきいてあげられます」
リュウが母の顔をじっと見て、やがてその口をゆるめた。
「そうだな」
リュウは一言応えて、大きくうん、と頷いた。彼が微笑むのを見て、ファイについていた悲しいものもやっとほどけてきた。
「リュウが遊んでくれないと、僕も困るよ。“そう”思っていても、遊んでくれるのはリュウだけだから」
特別を、おっかないものだと思わないのは彼だけだから。
小さな笑みがようやく満面の笑みになって、彼は湯のみをとった。
「そうだ、そういえば今日」
彼は一緒に行った森の話を始める。うさぎの子がいたこと。いちごがあったこと。
聞いているうちに、高く日の入りの鐘が響いてきた。高く澄んだ音。彼の話す、楽しげな明日が一打ちごとに近づいてくるような。
「ファイ、少し暗くなってきたから、坊ちゃまを母屋まで送ってあげて」
「ヨウ、おれとファイは同い年なんだぞ、おればっかりこども扱いするなよ」
少しばかりむっとした顔をした義弟の手をとり、ファイは立ち上がる。
「行こう、リュウ。明日、どこにいくのかは母さんには内緒、だよね?」
そうか、とリュウが悪戯っぽく笑い、立ち上がる。
「じゃあ、ヨウ。おやすみ」
リュウが母に挨拶をしている。先に出ていたファイは小屋の外を眺めて、それを待っていた。青草のにおいと、蛙の声。橙と紫が空を染めて、西の空に明星が光っていた。もう夏が近い。
母屋まで、百歩もないような距離を、引っこ抜いた藪の草を振りまわしながら、リュウが先を歩いている。
「リュウ」
呼び止めて、ファイはその隣に追いついて並ぶ。
「さっき、リュウはどうやったら僕みたいにって言ってたよね」
首を傾げながらも、リュウはうん、と頷く。
「僕はずっと、どうやったらリュウみたいになれるかって思ってた」
「なんで、おれを?」
どうしても、とファイは笑った。理由を言ったらきっと彼は怒るだろうし、何もかも、と思ってしまうと決まってどれ、とも言いにくかった。
「リュウは僕を特別って言っても、一緒にいてくれる。他の子みたいに、かくれんぼの間にどっかにいったりしない」
リュウがぷっと吹き出して笑う。そして、手に持った草をまたぶん、と振り回す。
「そんなの当ったり前じゃん。じゃあ、ファイはどうしておれといるのさ。ヨウがおれの世話をするから?」
考えるでもなく首を振る。ほら、とリュウは言う。そうしたら、きっと今自分が思った理由を彼も同じように思ってくれていたのだ。
「一緒にいたから一緒にいるんだよ、それだけじゃん」
「同じこと考えてたんだ」
顔を見合わせ、ふふっと笑う。また腕を振り振り歩き始めたリュウを見て、ファイはほっと息をつく。きっと、こうしていることだって、本当は当たり前のことじゃない。こうして母屋までの短い道を歩くことだって、リュウだったからできることだ。何でもない、当たり前、とこともなげに言ってくれる彼だから。
眩しいほどに羨ましくたって、近くに光があることのどんなに幸せなことだろう。
「リュウ。明日さ……」
言いかけて、ファイは母屋の入り口に立つ邑長さまに気がついた。その表情はいつだって厳しいから、何も悪いことをしていなくたって背筋は伸びる。リュウさま、と言い直すと、リュウもそれで気付いたらしかった。草をぽいと捨て、きちんとまっすぐ、でも重たげに歩く。
「では、リュウさま、また明日。お迎えに来ますね」
彼は、おう、と偉ぶった声で返事をした。母屋がもっと遠ければ、と思ったけれど、明日迎えにいくときはもっと近ければ、と思うのだ。
深く頭を下げているうちに、リュウも邑長さまも家の中に入っていってしまった。蛙に混じって虫が鳴き始めて、ファイは踵を返す。
そうだ。明日、もし勇気が出たら。
――自分の“特別”がどんなものか、リュウに見せてあげよう。
ファイは影ばかりになった道を、駆けるように家に帰った。