時が運ぶ赦し
前を見て歩いているときは、長い間歩いてきたと思うのだろう。果てもない旅路、出会う幾つもの歓喜も苦難も立ち向かっていく道ならば、鮮やかにそこに在る。しかし、それが過去になり、歩み続けねばならない道で立ち止まり、振り返った時、それらが驚くほど僅か道のりでのことだったと気付いてしまう。まるで一夜の夢のような、一呼吸の間にうつろうものに。
「社司さまぁ」
幼子の声にファイは振り返る。誰の子だったろう。咄嗟に思い出せず、声をかけるのに戸惑ってしまった。邑の子ならば大概覚えていると思っていたが。
「あのね、じいじがね」
「こら、ウー。ご挨拶が先だ、ほら」
言われて、幼子は慌てて頭を下げる。親を見てようやく子が誰なのかわかった。リュウの子と、そして孫。彼はもうじき、リュウから邑長の座を継ぐことになっている。
「こんにちは、イーシャオ。ウー。御用ですか?」
「父があなたをお呼びするようにと。それと、文が」
少し茶けた薄紙にうっすら見えるのは見慣れた手だ。ここしばらくぶりに届いた自分への手紙。
「ツェイは今、どの辺りにいるんでしょうね」
頷き、丁寧に畳まれた文を開く。
「今は、東都を出て南都へ向けて旅をしている、と。陽山の裏側を初めて見た、と書いていますよ」
「相変わらずですね、ツェイは。……赤の国の人は、向こうが表だって思ってるはずなのに」
イーシャオの言葉にファイはその通り、と笑う。
ツェイは娘だ。数年前に、社司になるのだと母親――ティエと激論の末に旅に出た。自分がいつかでようかとしていた社司への旅も親の立場になると当然ながら心配なものだ。ファイは手紙の上をふわりと撫でた。文に残った娘の記憶に、ほっと安堵する。少し前に息災だと来た手紙には、旅先での流行り病に苦心した姿を見た。誰に似たのか心配をかけまいとするから、ファイに輪をかけて心配しているティエには話さずにいたのだったか。
南都が近いならば、白の国にも近づいたということだ。もうすぐ帰るだろう、自分とは異なる獣性を得て、ぐっと成長した姿で。
「リュウが呼んでいるのでしたね」
立ち上がり、首を傾げている幼子の手を取る。娘が旅立った後に生まれたこの子は、誰のことやらわからないことだろう。
「じいじがまってるよう」
手を引いて駆けだす子をなだめながら、イーシャオに頷いてみせる。彼がその父に連れられ、丘の上で蝶を追っていたのはもう二十年も昔のことだ。邑人も自分も、姿の変わらないことにはもう慣れてしまった。当然、変わらないものには慣れるものだ。それなのに落ち着かない気分になるのは――。息をつき、ファイはゆるりと首を振った。
炭作りの邑の男衆が木を割る音と、仕事歌が聞こえている。邑長の屋敷で、ファイは長である義弟に迎えられた。そもそも兄弟であることは既に彼とその父親、そしてファイの母しか知らないことだが、二人で並んでいるところ見たところでもはや兄弟だと思うものはいないだろう。灰色がかった口髭を笑みに揺らし、孫の頭を撫でる邑長の姿と、三十にもならない社司の姿を見れば、それが普通だ。
「ファイ、手紙はツェイちゃんからか?」
問われて、ファイは頷いた。
「もうすぐ帰ってくると思う。今、赤の国らしいから」
「ファイのもうすぐは長いからな。……陽山が噴火しそうだって話だ、もしそうなら数年は見ておかなきゃならんぞ」
「それは困った、引き継ぎの支度がいると思って、もういろいろ済ませてしまったのに」
気が早い、と彼は笑う。かけがえのない友であり、ただ一人の弟。
しばらく彼の膝の上にいた幼子が、退屈したのかどこかへ駆けていく。次いで母親の声が聞こえたが、それもそのうち邑の中の音にとけていってしまった。
「リュウ」
聞く者がいないことを確かめたうえで、ファイは名前で呼びかける。ただ、その先は口にすることができなかった。こちらを見返す彼の目を見れば、呼ばれた用などは言わずとも知れる。
「親父は、おそらくもう長くない」
ファイも息をつき、それに応えた。かつての邑長でリュウの父親であり、ファイの父親でもあるその人。
「殆ど寝ているんだけどな……時々、お前や、ヨウさんのことを呼ぶんだ」
リュウはゆるゆるとかぶりを振る。
「会ってくれないか、ファイ。こんなことを言えば、お前がどんな気持ちになるかもわかる、それでも」
「会うよ、リュウ。僕も会いたい。それに、ただ呼んでいるんじゃないんだよね?」
「ファイ……すまん、頼む」
俯いた彼の目から涙が落ちる。喉の辺りが熱くなって、ファイも深く息をつく。
「僕も年かな」
涙声に気付かれぬよう笑ってみせると、リュウが困ったように笑った。
「ライ様。ファイです、入ります」
寝台に横たえられたその人は、虚ろな目に微かに驚きを映してこちらを見た。幼き日に見たあの大きな姿は今、乾いてしまったように小さく見える。
「……お前だけは、変わらないままだな」
かすかな声に、ファイはぐっと近くまで寄る。
「リュウから、お呼びと聞きました。私に出来ることであれば、何なりと――父さん」
人がいないのを知って、本来呼ぶべき方で彼に声をかけた。殆ど使うことのなかった彼に対する言葉。
「父、か。俺にはそんな若い息子はいなかったはずだ、ましてや立派な社司殿などにはな」
彼は咳きこむように笑い、かつてのようなに皮肉を言ったが、そのどちらにも今は力がない。
「ファイ。俺はもうこんなにも弱った。今ならば、どんな恨みも晴らす事ができるぞ」
「その為に呼ばれたのですか」
彼は応えず、肉が落ち骨の目立つ手をこちらへ差し出した。
「お前は俺を罰するべきだ」
ファイは手を取り、かつて何度も見た記憶を読む。今はもうそれらの強い光にも動じることはないのだが。
「何ゆえに、私があなたを罰しなければならないのでしょう」
ファイは微かに笑む。
「俺がそう思うのだ。他でもないお前がそうしなければ、俺は今まで生きてきたと言えん。お前が出来る一番酷なやり方でな」
「私が貴方を責めることで、貴方は」
「ああ、それでようやく死ねる気がしたのだ」
ファイは視線を逸らし、別室にいるはずのリュウを思った。そして、その子やその先の子を。
ならん。彼は、ひと際はっきりした声でそう告げた。
「リュウには言うな。俺はお前の父親でいられなかった。あいつが望む父親でいられたかもわからん。だが、これだけは伝えてくれるな」
「私だけに負えと。貴方はなんて」
「ひどい人間だろう、だからこそ……頼む」
そう言い、老父は目を閉じた。
彼は自分に、幕を引けというのだ。これは彼が望み、受け入れようと願うことだ。罰されれば、罪はそこで区切りをつけられる。彼は許しではない区切りを得ようというのだ。
「俺が父として、お前に願うのはそれだけだ」
「私が、貴方に出来る、最後の」
ファイは深瀬のような自分の心から、本当の言葉を探した。慰めの言葉も何でも引き出そうと思えば出てくるが。
「……私は貴方を恨んでいます。母を傷つけたことも、私へしたことも許すことはできません。されど、どの気持ちも受け入れていこうとこれまで生きてきました。それは、貴方の為ではなく、貴方を思う人々の気持ちを汲むが故です」
彼の手を取る自分の両手に力が入る。老いた体にその力は強すぎたかもしれない、痛むはずなのに、彼は満足気に笑んでいた。
「今、貴方への報復が許されるならば、ずっと考えてきたことが一つだけあります」
ファイは目を閉じ、獏の力を引き出した。
姿を変えずとも良かったかもしれない。それでも、変じておこうと思った。ファイが生まれたとき、彼は誰よりもこの姿に怯えていたのだから。そして、今でもこの姿を自分の罪の証だと思っているのだから。
「死出の道へ行こうとする貴方に、この夢をお渡しします。これが私からの呪詛と思ってください」
ファイの内から溢れる光は手を通じて、彼に移っていく。そして、額の辺りで集まった光は、ひと際輝いて彼の中へと吸いこまれていった。
《ライ――お前は》
彼がぐっ、と息のつまるようなうめき声を上げる。
「ファイ、お前は……何故」
こちらが握っていた手を彼が握り返す。
「何故だ、何故、こんなものを見せる……!」
「貴方は本当にひどい人だ。これだけの人の記憶を、想いを全て私の恨みで塗りつぶそうとした」
ファイは目を開く。閉じたままでは、すぐに全てがこぼれてしまう。
邑を率い、興してきた長への。若い社司を認め、推してくれた友への。厳しくも慈しんでくれた、祖父そして父への。
彼がこれまで関わった人が、彼へと向けたすべての感謝。
「これは母と、私のものです」
愛情を伝えようと、何より苦しんできた人へ。
《愛そうと思ったが、愛せなかった――》
「たくさんの人に囲まれていながら寂しそうな顔をする人なのだと、母は言っていました。――一時にでも、愛そうと思ってくれたことが私にとって大切だったのですから」
「待て、俺は許しが欲しいのではない!」
「それを許しだと思うか責めだと思うかは、貴方がそれをどう思うかによるでしょう」
「俺には、俺にはこれは……」
言葉は途切れ、日に焼けて固く革のようになっている顔の上を涙が滑る。
「たとえ誰が貴方を許さなくても、貴方は貴方を許すべきです」
どうか、とファイは頭を下げた。それ以上の言葉は継げそうにもなかった。自分はこの人をどんなに恨んできたことだろう。それでも彼が自分に頼んだことはファイの食べてきた夢の誰もが望まないことで、ほかならぬ自分も望まないことだったから。
「ファイ」
はい、とファイは俯きながら応える。もしかすると、きちんと名前を呼ばれたのは今これが初めてかもしれなかった。
「すまなかったな」
その言葉に、ファイがはっと上げた頭を彼の手のひらが撫でる。手はすぐに離れてしまったが、その一言が、一挙がファイには何より堪えられなかった。大粒にこぼれた涙を見て、彼は小さく笑った。
「ヨウに似てよく泣く。だが、お前はあいつに似て良かったよ」
「父さん、私は」
「……少し休む、外してくれ。心配するな、すぐに死にはしない」
彼が目を閉じ、味わうように深く呼吸する。それがきちんと続くのを確かめてから、頭を下げ、部屋を出た。心配そうに待っていたリュウに、心配ないと告げる。
「少し話をしたんだよ、今まで出来なかった分を」
「泣くような話をか?」
拭ったはずの涙の跡を見咎められて、ファイは笑った。
「積もる話だったからね、大丈夫だ」
リュウもそれ以上は追及しなかった。また来ると告げて、ファイは邑長の家を後にした。晩秋の風が乾いた音を立て、火のにおいを連れてくる。木を割る音に、炉の低い響き。その上に流れる仕事歌も、女衆や子供たちの笑い声も、今ならきっと彼に届くだろう。
彼はこれから、自分の目の前からいなくなる。もう決して会うことのない、長い長い旅に出る。それはおそらく、今いるこの邑の誰もがファイより先になるだろう。いくつもいくつも、変わることのない自分の前をどんどん通り過ぎていく。見送ることになる。
人の命がいくら短いと言っても決して軽いわけではない。自分が生まれて彼と関わってきた時間も、彼に至るまで人が紡いできた時間も、過ぎ去ってしまってもこの胸にはずっと残り続けるのだから。
――耐えられるだろうか。
今ですら両の手では足りぬほど。いつかは恨んだ人のことですら、耐えられるとは思えなかった。
振り払うように振った頭に、誰かの声が届く。畑に出ていた若い娘たちだった。手を振って応えてやって、なんとか笑みを作る。
「これも、与えられた道なのでしょうか」
天を仰ぎ問うてみても、返る言葉がなければ独り言だ。ファイは歩みを早め、社へと急いだ。しばらくは落ち着けそうにもなかった。
報せがあったのは数日後のこと。星の降るような夜半過ぎのことだった。




