夢とその先
驚きと心配と、祝福をもってその祝言は迎えられた。
ファイ自身が心配している以上に、ティエの家族は不安そうだった。親世代はファイが常人でないのを知っているから、何が起こるかはわからなくても何か起こるだろうと心配なのだ。社司というものが善き人間の為すものだとわかっていたとして、ファイは一時にでも獣の子と疎まれた者だ。やはり複雑そうな顔をしていた。
ただ自分や周りの心配よりも、自分を一手に育ててくれた母や、張り切って支度を手伝ってくれた友、何よりティエ本人がとても嬉しそうにしていて。それで充分、ファイは幸せだった。
婚儀のあと、姿が見えなくなったティエを捜して、ファイはまっさきに天社に向かった。彼女の家とも思ったが、いるとすればやはりここのような気がしたのだ。
「ティエ」
昼間、天を前に婚儀を行ったその場所で、妻となったその人は礼をささげていた。呼びかけに応えて、彼女は振り返り微笑む。
祭壇の灯火に、紅をさした頬がなお赤く見えて。自分よりいくつも年下の彼女に、ファイはどぎまぎしながら、隣に並んだ。
「……天に、感謝をささげていました」
彼女は俯きながら、微笑んだ。
「どれだけ感謝しても足りない気がして」
「私もですよ。こうなることなんて、夢にも見ませんでしたから」
小さく頷き、ティエはしばらくの沈黙の後、口を開く。
「――ここにいれば、いらっしゃると思いました。少しだけ、お話があります」
「話?」
「お話、というより、お願いでしょうか」
そういって、彼女は顔をあげ、祭壇を振り仰いだ。
「ひとつ夢が叶うと、欲が出てしまうのですね」
誓うように大きく頷き、ティエがこちらを向く。
「ファイ様。婚儀も済んだばかりで、こんなことをいうのは、とても失礼なことだとわかっています。わたしがどんなにひどい女であるのかも」
「どうしたのです」
深い、何か決意するような呼吸。
「……わたしはやはり、神官になりたいのです」
「そう、言っていましたね。小さい頃からの夢なのだと」
応えると彼女は、心苦しげにその細い眉を寄せた。
「諦められると、思っていました。他の夢を叶えれば、忘れていられると思っていました。幸せであれば、脇目を振らずにいられると思っていました」
彼女の瞳に映る燭台の火が輝きを増して、金の雫がこぼれんばかりに膨らむ。
「どうしてでしょうか。神官になる道が簡単な訳がありません、満ち足りたものであるかどうかも。なのに、こんなに幸せな気持ちでいられる今、そればかりが頭をよぎるのは、どうしてなのでしょうか」
とうとう溢れだした涙が、紅をとかして頬を伝って落ちた。ひとつふたつ、と落ちていたそれは、次第に絶え間なくこぼれだした。そして、半ば泣き崩れるように、彼女は顔を覆う。
「あなたといられる幸せを……得られたこの身でどうしてっ!」
「ティエ」
ファイは、震える彼女を抱き寄せ、髪をそっと撫でた。胸のあたりがじわりと彼女の涙がしみていく。濡れて冷たいはずなのに、熱いと思った。
縁談をまとめるにあたって、彼女自身が示した二択。それは、今日の婚儀で一方に選ばれ、もう一方は無くなった。そのはずだった、のに。
夢は、消そうとしたときにこそはっきりと目の前で揺れた。
「天命は、圧倒的にその人に降りかかる――」
「え……?」
顔をあげたティエに、ファイは微笑んだ。
「私が、いつか師に教わったことです。私にもいつか、そういうものがくるのだと思っていましたが……。ティエ、貴女が今、自分の願いに反して、突き動かされる情動があるのなら、きっと」
「天命だとおっしゃるのですか。この思いは、天が賜ったものだというのですか」
こちらを見あげ、彼女は問い続ける。
「なら、この道を示すためだったのでしょうか、あなたを選んだのも――」
ファイはその言葉を制し、ゆるりと首を振った。すがるようにこちらを見つめる目を、どこかで見たことがある気がして、すぐに思い至る。かつて似たような問いを覚えて問うた、かつてのファイ自身のそれだった。
「天が与えてくれたのは、選択肢です。……私は、あなたがあなたの意志で選んでくれたのだと思っていますよ?」
笑んで返すと、彼女は泣いて赤くなった顔をさらに赤くして、俯いた。
「私は……他でもないあなただったからこそ、縁談を受けたのです」
どれだけ意を決しても、それ以上にはっきりした言葉は、まだファイには言えそうにもなかった。精一杯のその言葉に、彼女は微笑み、そして、しっかりとした眼差しをこちらに向けた。
「お願いがあります」
「何でしょう」
「記憶も夢ならば、私が今まで抱いてきた夢も、同じ夢であるはずです。それなら――」
叶わぬ夢は食べてほしい、と。
「なりません! 言ったでしょう、天命かもしれないと」
「構いません、天が選ぶことをお与えになられたなら、わたしは忘れることを望みます。どうか」
忘れさせてくれないだろうか。諦めることができないのなら、なかったことにはできないだろうか。今以外に道はなかったのだと、思うことができないだろうか。
「きっと、覚えていれば今日の日のように、夢が芽をだそうと疼くときがくるでしょう。ならばいっそ」
そっと、ファイは伸べられた白い手をとった。獏の力をもってすれば、おそらくきっと彼女の夢を食べることはできるだろう。人生の岐路に立ちつくす彼女の前から、その分岐を消し去ることができるだろう。いつか、師の夢を食いきったその時のように。
親に手を引かれ初めて見た祭壇と麒麟の像。初めて聞いた建国の神話。それを語る、凛とした叔父の姿。その背を追う幼い娘。
重ねられた手が震えている。そう思ってすぐ、震えているのがどちらの手なのかわからなくなった。改めて、自分の力を恐ろしいと思った。師の夢は、もう手の届かない過去の光だったならば、今目の前にしているのは、彼女にこれから訪れ、差すであろう眩しい光。それを自分は、おそらくきっと食べつくすことができる。
言葉に出来ぬ思いがうるさいほどに響くその沈黙の中、ファイは静かに口を開いた。
「私が今見て、食べようとしている夢は、今のあなたそのものを作る夢です。これからのあなたを照らすかもしれない光。それが消えれば、あなたはきっと、あなたでなくなってしまうでしょう」
「構いません! わたしは」
「私が、おそろしくてたまらないのです、ティエ。……私は、私がその一生を愛そうと思ったあなたを、この手で変えてしまう」
意気地がないと思うかもしれませんが、と、ファイは差し出した手を握る。そうだ、自分はただ、目の前の人の一生を背負う覚悟がないだけなのかもしれない。それでも、自分は。ファイはそっと目を伏せ、続けた。
「どうか、あなたにはあなたのままでいてほしい」
再び訪れた静寂に、ファイは目を閉じた。細い指から、微かに伝う鼓動とぬくもりと。背負い、手を引く覚悟ができないのなら、せめて進むその背を押していく覚悟はできますように。
ふいに、その上からさらに肌の感触が重なった。そして、伝う雫。
「ファイさん。あなたはとても優しい人です。でも」
彼女の手を握るこちらの手に、寄せられた額。すがるように彼女が握り返す手に力が入る。
「とてもひどい人。叶わぬ夢に引きずられるくらいなら、わたしは、あなたに振り回してもらいたかったのに」
ひどい人。かつて自分が、自分を振り回そうとした人にそう放った言葉を、今、振り回してやれないがために、告げられている。
「私は結局、臆病な人間なのだと思います。あなたの望むような人間ではなかったのかもしれません。ならば――」
「言わないで! それ以上、何も言わないでください。わたしもひどい人間です。あなたが優しいのも知っていて、そして、こうして本当に真剣に悩んでくれるのも知っていて、本来わたしが決めるべきことをあなたに押し付けたのですから――」
ファイはそっと目を開けた。涙にうるむ瞳で、彼女はこちらを見つめている。問うべきことは、最初からひとつだったのだ。それは、今互いに同じものになった。
「本当に、私でいいのですか?」
どちらが発した言葉だったろう。どちらも発した言葉だったから、答えがなかったのかもしれない。ただ、互いに身を寄せて、祈るように抱きしめあうしかなかった。
今日結んだ互いの手。いつか、自分は失うことを恐れて、先に手を離すかもしれない。まだ訪れぬ天命が手を打つかもしれない。彼女も、いつか夢に手を引かれて、こちらの手を振りほどいていくかもしれない。
今日手をつないだことを悔やむ日がくるかもしれない。それでもファイは、この日のことを腕の中にいるその人のように、ただただ愛おしく思った。
すっかり夜は更け、月は雲で隠れていた。微かに青草の漂う闇の中を、ファイは小さな灯りを手に、ティエを家まで送り届けた。共にひとつ屋根で過ごす日までは、まだもう少し支度も時間もいるのだ。挨拶をすませ、ファイは帰路についた。何もかもが静まり返っていて、心ばかりがさらさらと風が草を撫でるような音を立てていた。
人並みの幸福、人と同じ歩みを今ようやく手に入れることが出来た。否、これから自分でそれを選んで作っていける。当たり前のように誰かの手を取り、歩を合わせ、同じものを見て進んでいくのだ。重荷となって背負われていた日々から、今は喜ばしいほどの重荷を自分が背負っていける。たとえそれが宿命というものと違っても、まっすぐ歩いていけると思えた。
星は雲の向こうでやさしく何かを語っていた。まどろみの中で、母の寝物語を聞くように、ほとんど音色だけが心の中に降ってくる。静かな至福。
食べて記憶を消せるのならば、逆に今、この想いだけはずっと残しておけないだろうか。思いもよらぬほどの長いこれからの生に、この幸福を携えていけるように。




