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朧月夜

 数年と離れたところで、生まれた邑での暮らしが元に戻るのは早かった。元がそこまで馴染んでいなかったから、とファイは自分で笑う。戻ってきて、もう三月が経とうとしていた。

 日が暮れれば、窯の火を消せぬ鍛治(かぬち)達以外はみな、家に帰っていく。そうなれば、邑の社もその日の役目を終える。その日もファイは、社司様と並んで天に今日の無事への感謝をささげ、明日の安寧を祈った。天の座から見えるこの世が(あまね)く平和であるように、と。

 冬が過ぎ、初春の頃。ファイの家からも社からも離れた邑の端に、今日は篝火が灯されている。リュウの子が生まれるのだ。昼間、二人目とはいえ緊張した顔のリュウに、武具をつけるのを手伝った。そして、野の獣が出ないようにと、その周りに封を張ったのだった。だから、今日はその分念を入れて祈り、明日の祝いを願った。

 社に住みこんでいる社司様とそれを世話するティエとに挨拶をして、ファイは帰路に着いた。いくら雪の降らぬ地方といっても、夜になればまだまだ冷える。薄い毛織を重ねた上着をしっかり着こみ、川の土手を足早に家へと向かう。

 冴えて澄んだ冬の空はこれから水気を含んだ春の空に変わるが、今夜は月だけが一足早く、涙ぐむような朧に霞んでいた。

「やはりここを通るか」

 聞き馴染んだ声に、ファイは顔を上げる。邑長だ。

「待っていた」

「私を?」

 頷き、そうだ、と答えた口元の周りに白く呼気が揺れる。どのくらいここにいたのだろう、土手を吹く風は春の気配を知らない。

「前にもここでお前と会ったな。覚えているだろう」

「十年ほど前に。……私を養子に、とおっしゃいました」

 その話なら、と口を開こうとして、邑長が先を制して首を振った。

「そのことではない。その時にお前は私を(なじ)った。ひどい人だ、と言ってな」

「それは。……そう思い、言ったのは確かですが、子供の時のことです。気にされていたなら謝ります」

 そう言ったが、邑長はまたゆるりと首を振る。そして、しばしの沈黙を置いて、彼は口を開く。

「――お前が、俺が父親だと知ったのはあのときか?」

 ファイは顔をあげる。驚いたのは、その言葉のせいではなかった。それを乗せた声にもこちらを見る目にも、悲しい色が見えたからだ。

「いいえ。母の記憶を見ました。生まれた時のことも、その前のことも」

 “自分”を認識するころには既に、当たり前のように存在していた記憶。自分のものではないと気付くのに、時間がかかったのを覚えている。誰もが知ることだと思っていたせいか、そうでないとわかった頃まで誰にも言わずに済んだ。

「生まれたばかりのとき、邑長さまは私に触れました。もう、どれが誰の記憶かはわかりません。でも、きっとあなたのものもあったのだと思います」

「知っていて、誰にも言わなかったのか」

 それは質問というよりは、確認だった。何を言っても、やはり、と返ってくるような。ファイは目を伏す。

「母が私に言わなかったように――私が知っていると気付いていても言わなかったように、私も黙っているべきだと思ったのです。言えば、誰かが傷つきます」

 そう応えて、再び彼の表情を窺う。彼は微笑んでいた。悲しい色をつけたままで。

「誰か、ではない。俺が、だろう」

「いいえ、誰もが。誰かが傷ついたことに、傷つく誰かもいますから」

 その応えが返るまで、しばらくかかった。水の減った川は眠ったように穏やかで、星のうたもそれを起こさぬようにごく小さく、とぎれとぎれに聞こえていた。

「――ヨウもショウも、いつも俺を守ろうとしていた。親も、誰も彼も、きっと俺がその方が幸せでいてくれるだろうと思ったのだろうな」

「あなたがそうなることで周りの人がそうなっていくと思うからです」

 誰の記憶を理由にしているのだろう。邑長の声に答えながら、ファイはよどみなく出てくる声が不思議でならなかった。

「すべて見たならわかるだろう。俺はそれが堪らなく鬱陶しかったのだ。誰かが描いた仕合わせに乗って、安寧を得ていくのが。俺は、俺の意志で描いて、俺の力で幸せを得たかった。学んできて、お前はどう思う。答えろ。誰かの――天の仕合わせた現在(いま)は、これは最良なのか?」

 たとえ、不幸せになろうとも自分のものが欲しかった。友も伴侶も地位も、何もかも。閉塞した世界を破る何かが欲しかった。ファイはかつてあったはずの皮肉がなくなったことに気付きながらも、首を横に振るしかなかった。

「私には、わかりません」

 そう応えるほかにない。常に傍にあると、いつも見ていると()われる天を、こちらは一度も見たことがないのだから。ただそこに(ましま)すと信じるしかないそれが、こちらをどうしようというかなど、どれほど学ぼうと知りようもない。ただし。

「それでも、天がどう(のり)を定めようと、今を作ってきたのは私たちではないでしょうか」

 ファイの中に取り込まれた記憶の“私たち”が、邑長の問いに応えて響く。その言葉に、ようやく邑長が挑戦的な笑みを浮かべた。

「お前が生まれたことも、そう言えるか。ただならぬ身で生まれたことは」

「――母とあなたとの間に生まれたことも」

 聞こえないほどの声でそっと呟いて、ファイは空を見る。満天の星という命、彼らは今どう思っているだろう。この先のことも知っているのだろうか。天の描いた道がどこに続くのかを。

「この世にひとつ大きな流れがあるとするのなら、私もそれに翻弄されるひとりの人間です」

 それでも。ファイは自らに頷いてみせた。

「流されていくこともそれに抗うことも、きっと選べたのです。そうして続いてきた絶え間ない選択の中で、仕合わせるそれが最良であるように。たとえ、これが天の与えた宿世であっても、歩んできたのは私です」

 邑長は悲しげに眉じりを下げて、ひとつ息をついた。

「……受け入れる、ということか」

「自分で決めてきたことなら、そうしようと思います。ですが、それ以前、この力を得た者としてすべきことを私はまだ知りません。獣の姿で生まれたことの意味を知らないのです。受け入れるべきことすら、まだ私の前には現れていませんから」

 自分にしかできないことがあり、それゆえに受け入れなければならないことがある。定めは圧倒的に、それこそ逃れようのないように、その人に降りかかる。いつか気付くことになる。そう、師父は話してくれた。そして、世の人の為に、自分以外の誰かのために生きようと思えば、きっとその通りに出来るだろう、とファイに言った。それだけの力を持っていて、覚悟さえ出来たのなら、と。

「そうか。おまえは」

 邑長が小さく笑う。そして、目を伏せた。

「俺ができるのは、諦めることだけだった」

 そして、“今度”は自ら手を差し出してきた。触れよ、とばかりに。

「天が進ませようとした道を、俺は何度も外れようとしてきた。ショウとこの邑を出ようとした時も、ヨウにお前が出来たときも。今以外に至る道へと何度も踏み出した」

 ファイは伸べられた手にそっと触れる。この五年の記憶が、いつか見た記憶に足されていて。

「だが、駄目だった。全部無駄に終わってしまった」

 友は自分が邑を治める時、それを支える者でありたいと言い、求めた(ひと)は自分を長たる者にしようと、子の父親を胸の内に秘めた。そして、その子は天に見初められ、獣の姿で生まれてきた。

「俺は、諦めたのだ。俺が何をしようとも、天はすべて見ていて、道は容易く曲がりはしないのだと」

 諦めや無力感が彼の今までを灰色の幕で覆い、それが彼に今馴染まぬ違和を与えたのだ。ファイは手を離し、下ろした拳をぎゅっと握りしめた。

「お前が立派に育つのを、俺はどう思えばいいのだ。俺は何度もお前の前に立ちふさがって、言うとおりのひどい人間であったはずだ」

 愛そうと思ったが愛せなかった。ならば、愛さなければそれに応えて、子はいつか自分を罰してくれるだろう。記憶のそこに敷かれた本心が、旗のようにファイの心の中で翻る。

「私は」

ファイは睨むように、だが、半ば泣きたい気持ちで邑長の目を見据えた。

「私は――あなたの罪の証でも、咎めるために生まれてきたのでもありません。ただ、私は……」

 酒席に涙したリュウの姿がふっとよぎる。この人だって穏やかに、ただ人の子の親であれたはずなのだ。そして、この人がしたことは、また別の誰かだとして起こりえたことだ。

――仕合わせが悪かったんだ。

 そう、友を慰めた言葉を、自分を納得させるように繰り返した。起こっていくことも、起こったことも受け入れていくほかないじゃないか。いろんなものを押さえつけるように響く言葉が、ぽん、とひとつ弾きだした想い。

「私は、母さんとあなたの間に生まれた、ただの人の子で“いたかった”のです」

 それはもう過ぎたことで、ファイの中でもう十年も前に、しまいこまれてしまった願いだった。この願いはもう叶うことも、必要になることもない。

 彼が付いた深い息が白く雲のように湧いて、宵の風に消えた。返ってくる言葉も、彼の夢を見たファイにはもうわかっているから。

「何もかもがもう、取り返せんのだな」

 諦めることはできても、もう受け入れることはできないのだと。空寂しさはあれど、ファイはなんとか微笑むことができた。

「でも、これからのことは、まだ仕合わせていけることです。それぞれに、良い道はあるはずですから」

 邑長は何も答えず、ただ静かに川の行く先を見ていた。月の光が解けて、流れていく先を。

 不意に、邑の端の方から微かな泣き声が聞こえてきた。弾かれるようにそちらを見た邑長を見て、ファイは笑みを深める。

「私はこれで。社にはもう、明日の祝いの支度ができていますよ」

 返事を待たず、ファイは歩き出した。後ろになったそこからも駆けていく足音が聞こえる。これでいい。これでお互い、これからのことを受け入れていけるだろう。

 ファイは慌ただしく賑わいだした邑を背で感じながら、足をとめた。起きなかったことを悔やみ諦めて生きるより、起きたこと、これから起きることを受け入れて生きていきたい。同じことのようで、やはりそう思うほうが好く生きられる気がしたのだ。

 辛くはない。こうなることはわかっていたし、望んでいたはずだった。なのに。見あげた月が形のわからないほどに滲む。

 さあ、帰ろう。明日はお祝いだ。目を拭い、ファイは再び歩き出した。


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