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子不語堂志怪録 星なき夜に影は踊る  作者: 悠井すみれ
第二章 樹精に恋した娘、あるいは
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2.良家の縁談

 りゅう家の庭園の奥に植えられた桂花けいかは、確かに空を翳らせんばかりに枝葉を茂らせる大樹だった。


 風によって落ちた花が、地面を金色に染める。見上げれば、艶やかな緑の葉を背景に、金色の小さな花が身を寄せ合って咲いている。夜空に無数の星が煌めく様を思わせる、美しい光景だった。


 陽光に輝く花の色は眩く、目を射らんばかり。花の香りはますます強く、呼吸をするごとに肺に染み入って酔わせるかのよう。


 劉家の令嬢は、昼となく夜となくこの大樹に寄り添っては空を見上げ、切なげに溜息を吐くのだという。あまつさえ、もの言わぬ樹に語り掛けるのを使用人たちが見て案じているとか。話を聞けば、確かに樹精に憑かれたという説明がしっくりくるようにも思えるのだが――


「ただの樹だな。何もらぬ」


 視覚と嗅覚を圧倒する威容を前に、けれど鏈瑣れんさはつまらなそうに吐き捨てた。

 常に腹を空かせた化物にとっては、「食事」になり得る精怪がいるか否かが最重要事項なのだ。舞い落ちる金の小花が白皙の頬を彩る様は、実に絵になるというのに、惜しいというべきなのかどうか。


「そうか」

「驚かぬのだな」


 さらりと頷いた辰蘭しんらんに、鏈瑣は意外そうに目を瞠り、首を傾げた。桂花の香りがふわりとこちらに漂う心地がするほどの優美な所作だが、例によって罅割れた悪声が、どうにも典雅な絵をぶち壊す。


 ともあれ、それはわざわざ口に出す必要もない、いつものことだ。辰蘭は、考えを纏めながら鏈瑣の疑問に応えた。


「世の娘が皆、親に命じられた縁談を喜ぶはずもないだろう。嫁ぐのを引き延ばす口実に、いもしない樹精を使うのは、ありそうなことだ」


 ふたりは、調査というか樹精退治の名目で、本来ならば家人しか立ち入れぬはずの奥庭に入れてもらっていた。


 いったい何をどう調べるのかと興味津々の表情を隠さない劉大人に、余人に漏らすことができぬ秘術だから云々と、恥ずかしくなるような言い訳を並べて外してもらったのがつい先ほどのこと。もちろん、鏈瑣が樹精を引きずり出し貪り食う姿など見せられないから、というのが実際のところなのは言うまでもない。


 人の目だけではなく耳もないから、化物は歯に衣を着せない。


「小娘の虚言に踊らされたというわけか? 大人と呼ばれる者が間の抜けたことだ」


 ぬか喜びさせられた、と言いたげに鏈瑣は吐き捨てた。不満と不機嫌のこもったぎいぎいという声は、死肉をあさる鴉が騒ぐのを思わせる。そして、人の心の機微に疎いあたり、この化物の心性はやはり人よりも鳥獣のそれに近いようだ。存外、素直で可愛いといえなくもない。

「劉家にとっては良縁なのだろう。だから、令嬢が不満を持っているなどとは想像が及ばないのだ」


 化物の無知ではなく人の浅ましさを嘲って、辰蘭は冷ややかに嗤った。


「劉大人は、ご息女に感謝されるものと信じて疑っていないのだろう。だから、縁談を妨げるものがあるとすれば邪悪な樹精だ、という考えになるのだ」


 彼自身の父も似たようなものだから、よく分かる。


(否――父だけでなく皆、そうだったな)


 梓媚しびが皇帝に見初められた時、母も使用人も親類縁者も、こぞって寿ぎ狂喜した。貞節が美徳であることを知らぬはずもないだろうに、婚約者を捨てさせるのを良しとして、しかも辰蘭にも同じことを命じようとした。


 「皇帝の寵姫の兄」に娘を嫁がせたい権門は多いから。栄達した妹を支えるためには、相応の妻を迎えるべきだから――まるで、「彼女」が殷家の嫁として不適格ででもあるかのようなもの言いだった。


 辰蘭の胸に込み上げる苦々しい思いは、桂花の甘い香りでも覆い隠すことはできなかった。表情も、それなりに険しいものになっていただろうが――気付いていないのか気にしていないのか、鏈瑣は無邪気な笑みで揶揄ってくる。


「先日は縊鬼いきに殺されかけた癖に、先生は現実的だ。怪力乱神を信じぬのなら、なぜ子不語しふご堂を構えるのだ?」

「とりたてて怪力乱神を信じるわけではないが、いるなら会ってみたいものだとは思っている。それと――私は、君子でありたくないから」


 怨みを抱いて死んだ者は鬼になってさ迷い出る、などと。賢明な君子たるもの一笑に付すべき夢物語だ。死者を葬った後は心囚われることなく、理を重んじ現世の法に従って生きる――それがあるべき姿だというなら、背きたかった。呪われようと祟られようと、「彼女」とまた会いたかった。


 蜘蛛の糸よりなお細い、儚い希望だと分かってはいる。鏈瑣が皮肉った通り、今のところ辰蘭がお目にかかったのは縊鬼の見せた幻だけ。だから、やはり実家への当てつけの意味のほうが大きいだろうか。


「ふうん」


 辰蘭の言葉を、そこに宿った機微を、鏈瑣は理解しなかっただろう。気のない相槌を打ったかと思うと耳障りな声を軋らせた。


「娘が縁談を嫌がっているなら――ほかに好きな男でもいるのかな? その相手を喰えば諦めるのでは?」

「ならぬ。そもそも、恋人がいるかどうかも分からぬのだぞ。深窓の令嬢が、そうそう若い男と出会えるものか」


 食べることで頭がいっぱいらしい鏈瑣を、辰蘭は厳しくたしなめた。同時に、依頼を解決することの難しさに気付いて腕組みをする。


 樹精退治は、劉大人にとっては手段であって目的ではない。彼の本当の望みは、娘がつつがなく嫁いで家に利益をもたらすこと、のはずだ。


 令嬢が樹精に誑かされていたなら、話は簡単だったのだが。さて、桂花の大樹に樹精が「いない」となると、彼女の「病」はいったいどうすれば癒えるのだろう。


「では、喰うのは縁談の相手のほうになるか? 単純に、実家を離れたくないということならば」

「喰うことからいったん離れよ。第一、そのようなことをすれば梓媚が怒るであろう。劉家に恩を売りたいのだろうから」


 後宮に封じられていたという鏈瑣を解き放ったのは、ほかならぬ梓媚だ。妹の気丈さ強かさは、化物をも恐れさせるらしく、鏈瑣は麗しい顔を顰めて呻いた。


「む、そうか……」


 鏈瑣を黙らせた隙に、辰蘭は妹の心中にも思いを馳せる。劉家の令嬢は、後宮で梓媚に仕えていたこともあるという。ならば、密かな想い人がいるとしたら、打ち明けられたことがあっても良いはずなのだが。


あれは、どう解決せよというのだろうな。父と娘と、どちらの味方なのか……劉家を取り込むためなら、令嬢の想いは踏み躙っても良いとでも……?)


 かつての辰蘭なら、妹はそんな女ではない、と言えたはずだ。勝気ではあっても、決して冷酷な質ではない、と。だが、今となっては梓媚が何を考えているか見当もつかない。

 辰蘭は深々と息を吐き、そして大きく吸い込んだ。鼻腔を満たす桂花の甘い香りは、懐かしく郷愁を誘う。


(花の香りは――いつでも、どこでも変わらぬな……)


 これほど見事な大樹ではなかったが、殷家の庭にも桂花が香る一角があったのだ。干して茶に入れるため、砂糖漬けにするため。小さな金色の花を両手いっぱいに集める妹「たち」を、「彼ら」は書を読みながら眺めたものだ。


『芳しいかすみに包まれるようです。桂花は、わたくしの花ですわね』


 星のような花が降る中で、彼女は――芳霞は笑っていたのに。

 もう届かない面影に触れるかのように、辰蘭は桂花の大樹に手を差し伸べた。指先に、花を受け止めようとした時――


「『我が君』に手を触れないでくださいませ……!」


 甲高い声に責められて、辰蘭は小さく跳ねた。慌てて声のしたほうを振り向けば、華奢な人影がひとつ、こちらへ駆けてきている。


 地に積もった桂花の花を散らし、裙の裾を乱して近づいてくるのは、十六、七と見える娘だった。


 髪に挿した簪は金に瑪瑙が施された豪奢なもの。香薫を纏った風が揺らす領巾は軽やかな薄絹。日焼けを知らない白い肌といい品の良い言葉遣いといい、良家の令嬢という言葉の体現のような可憐な姿だった。


「貴女は――劉家の?」

「お父様に言われて来た方たちでしょう!? この木を切り倒したりなんて、させませんから……!」


 辰蘭の問いに、娘は直接には答えなかった。ただ、劉大人を父と呼んだからには彼の推測は間違っていないのだろう。


(桂花の樹に魅入られているという話だったが……?)


 娘の言葉は、劉大人から聞いた話を裏付けるものだった。初々しい頬も赤く染まっている。だが、それは恋人が退治されることへの怒りというよりは、羞恥が理由であるように思えた。羞恥――つまりは、荒唐無稽なことを口にして騒ぎ立てることへの。


 辰蘭が訝しみ、目を凝らすうちに、娘は彼と鏈瑣の目の前に辿り着いていた。


 弾む息で桂花の香りを掻き立てながら。彼女は背伸びして、男ふたりに顔を寄せるようにして、抑えた声で囁いた。


寧妃ねいひ様の兄君様でいらっしゃいますね。お待ちしておりました。助けてくださると、伺っております……!」

 少女は吐息までも芳しく、辰蘭に深窓の令嬢の顔を直視する非礼を思い出させた。

「これは、失礼――」

 慌てて目を逸らし、距離を取ろうとする彼に、けれど彼女は嫣然と微笑んだ。

「人が来たら、樹精をはらうための祈祷をしていた、とでも仰れば良いのです。頼った御方に姦通の疑いをかけるほど、父も恥知らずではございませんわ」

 楚々として淑やかな風情と裏腹な大胆なもの言いに、辰蘭は嫌でも思い出した。この少女が劉家の令嬢なら、後宮で梓媚に仕えていたことがあるはずだ。

 妹の薫陶くんとうなのか、後宮で鍛えられたのか、あるいは生来の気質なのかは分からないが――なかなかの強かさを持っているのは、確かなようだ。

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