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子不語堂志怪録 星なき夜に影は踊る  作者: 悠井すみれ
第一章 縊鬼になった夫
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6.帰ってきた夫

 首を絞める帯にかかったてい氏の指は、まだ力を失っていないようだった。


(間に合ったか)


 とはいえ、油断するのはまだ早い。帯を手にした男が我に返る前に、辰蘭しんらんは短く命じた。


鏈瑣れんさ。頼んだ」

「……承知」


 ざらつく声に、不承不承の響きはあった。が、四肢に絡んだ鎖をしゃらり、と鳴らしながら、美貌の化物は辰蘭の横を風のように駆け抜けた。


「ひ、ば、化けも――」


 男は帯を放り出して逃げようとした。だが、狭い屋内の寝台の上に逃げ場などなく、借金取りの拳を指先だけで止めた鏈瑣を相手に、その動きはいかにも鈍い。


「ぎゃあっ」


 瞬きひとつする間に、その男は床に這いつくばっていた。面倒そうな表情の鏈瑣が男を抑えたのを確かめて、辰蘭は寝台に歩み寄る。そこでは、鄭氏が首を抑えて咳き込み、喘いでいる。


「――大丈夫か。婦人に触れることはできないが、助けは要るか?」


 できるだけ目を逸らしながら尋ねると、最初は荒い呼吸の音だけが応えた。待つことしばし、鄭氏が寝間着を整える衣擦れが聞こえたかと思うと、ようやく言葉での答えが返る。


「い、いえ……だ、大丈夫です……」

「そうか」


 寝ているところを首を絞められ、しかも数度会っただけの男どもが寝室に押しかけている状況だ。さぞ恐ろしく心細く、訳の分からないことだろう。掠れて引き攣った声を哀れみながら、それでも辰蘭は言葉をつづけた。


「なるべく手短に済ませたいのだが。――この男が貴女の夫で間違いないか?」


 燭台を掲げると、狭い寝室がほの明るく照らされた。寝台の上の女を直視することは相変わらず憚られたし、抑えつけられた男も光を恐れるように顔を伏せようとするが――鄭氏が息を呑む音が、辰蘭の問いかけへの答えは是、であると教えていた。


(やはり、そうだったか。……こうなってしまったか)


 悲しく納得の溜息を吐く辰蘭に、鏈瑣は例の耳障りな声で喚いた。


「どういうことだ。夫が戻らないから捜せという話だっただろう。戻らないのは妻を捨てたからではなかったのか。追われる身の癖に、どうしてわざわざ戻った。しかもなぜ妻をくびろうとする!?」


 耳元で金属の板を釘で引っ掻くような声が高まるにつれて、鄭氏も抑えつけられた男――張も身を竦ませた。鏈瑣の悪声だけが理由ではないだろう。企みごとを暴かれるのは、きっと居心地が悪く居たたまれないものだ。


(自ら語れ、というのも酷な話か。まあ、間違っていたら指摘してくれよう)


 燭台を持っていないほうの手で鏈瑣を宥めてから、辰蘭はわずかな視線の動きで鄭氏を示した。


「この方は、夫を捜して欲しいとは言わなかった。我らが勝手にそうと考えただけで。夫が縊鬼になってしまったかもしれない、ならば弔わなければ、と言ったのだ。縊鬼の噂があったとはいえ、信じ込むには少々突飛な考えではなかったか?」


 整った眉をぎゅっと寄せた鏈瑣は、人間の女の言葉などいちいち覚えていなかったのかもしれない。だが、問いかけておいて何だが、辰蘭ははっきりと覚えている。


 彼が挑んでいた科挙では、四書五経四十三万余字の暗記が大前提、さらにその数倍に及ぶ注釈を読みこなし、さらに実際の法令や時事問題にも精通しなければならない。その世界で、辰蘭は状元じょうげん(主席)合格にも手が届くと謳われた秀才だった。だからまあ、良くも悪くも記憶力には不自由していないのだ。


 だから――ここまでは本人に確かめるまでもないこと、大事なのはここから先の推測だ。


子不語しふご堂、などとふざけた号を掲げるからには、怪しげな術やでたらめの託宣で人を惑わす類の商売だと思っていた――期待していたのだろう。夫が消えた、などと話せば縊鬼になったことにしてくれると考えたのでは?」


 縊鬼の噂が流れ始めたのは、この数か月。いっぽう、借金に追われた張が姿を消したのは一か月前。つまりは、張が失踪した段階で、鄭氏は縊鬼のせいにするつもりだった。あるいは、借金取りどもにそう言い訳するよう、夫に言い含められていたのだろう。


 縊鬼を隠れ蓑にしようとしたのは、賊だけではない。事態の全容を知らぬまま、張も自身が取り殺されたことにして姿をくらまそうとしていたのだ。


(だが、借金取りは信じなかったから――)


 鄭氏は、よりもっともらしい証言をしてくれそうな者を頼ったのだ。そこで選ばれたのが、荒れ果てた屋敷に怪しげな店を構える辰蘭だった、というわけだ。


「……どうやら期待に沿うことはできなかったようだが」


 申し訳なかった、と言うのも違う気がしたから、辰蘭は曖昧に言葉を途切れさせた。妻と夫を交互に見やれば、いずれも俯いて震えている。……幸か不幸か、彼が語ったことは大筋では間違いがないようだった。


 と、張が緩んだ髪をさらに振り乱して喚いた。


「お、俺は女房を迎えに来ただけだ! い、一緒に逃げようと――」

「首を絞めておいて何を白々しい」


 辰蘭の冷ややかな声と視線に、張の言い訳の語勢はみるみる弱まった。


「自分の女房を殺す理由がどこにある! そ、そんなことはしねえ……しませんから……」


 鄭氏からは目を逸らした張は、苦しい言い訳だと承知してはいるのだろう。未遂であっても殺人は重罪だ。だが、もちろん辰蘭は同情などしない。淡々と、そして容赦なく、その動機を暴くだけだ。


「お前は焦ったのであろう。城門は見張られて逃れることはできず、賊の手口も暴かれて縊鬼を騙ることもますます難しくなった。そこへ、縊鬼が怒っている、との新たな噂だ。縊鬼のせいにする最後の機会だ、と思ったのだろう」


 ちょうど、夜に出歩く者が減っているのも好都合だっただろう。いや、多少見られたとしても信憑性を出すための死に装束だろうか。


(もしも、我らが止めなければ――)


 翌朝か、それとも数日かかるだろうか。鄭氏が縊死しているのが見つかれば、見た者はおのずと考えるだろう。縊鬼になった――つまりはすでに死んでいた夫に取り殺されたのだ、と。


 借金取りでさえ、妻を痛めつければ夫が現れるかも、などと言っていたくらいだ。自分ひとりが逃げるために妻を殺すなど、普通なら思いつかない。


 ――そのような非道な策に縋るほどに、張は追い詰められていたのだ。


しょう司獄しごくが目を光らせている今、不審な遺体が見過ごされるはずはないのだが)


 検屍や捜査の術の実態を、庶民が知らぬのは致し方ない。どうせ早晩捕らえられるのだから、一線を越えるきわで犯行現場を抑えるのが、辰蘭に打てる最善の手だった。


「懐を探れば、それらしく見せるための仕掛けのひとつやふたつ、隠しているのではないか? 血に似せた朱墨で恨みを書き連ねるとか、香の匂いを焚いておくとか」


 恐らくは指摘の通りだったのだろう。張は身体を震わせてくずおれた――その頭を踏みつけるようにして、鏈瑣が辰蘭に喰ってかかる。騒々しくなる鎖の音が、その主の憤懣を雄弁に語っていた。


「つまり、先生は俺を騙したのだな!? 偽の縊鬼だと分かっていたのではないか!」

「生者を縊って、それを身代わりに助かろうとする――まさしく縊鬼であろうよ。むろん、司法に委ねなければならぬから、お前に喰わせるわけにはいかないが」


 鏈瑣が納得しないのは分かっているし、ぎいぎいと喚く声も耳障りだった。辰蘭がそっぽを向くと、鏈瑣が地団太を踏む気配が床の揺れとして伝わってくる。たぶん、張の身体の上でやっている。


「詭弁だ! なんと悪辣な……!」

「静かにせよ。そろそろ人が来るぞ」


 張を取り押さえた立ち回りに、鏈瑣の大声のせいで近隣の住民も夢から醒めるだろう。灯りを見れば、騒動の源もすぐに分かるだろう。


 女ひとりのはずの家に、男の声がするのはいかにも怪しい。縊鬼や賊の恐怖を越えて様子を見に来る者も、ひとりやふたりはいるだろう。


(あとは、夜が明け次第、司獄司に通報すれば良い)


 今度そ辰蘭が息を吐いたのとほぼ同時、鄭氏が声高く泣き始めた。小さな拳が寝具を叩く音も聞こえてくる。


 命が助かった安堵による涙ではないのは明らかだったから、辰蘭は彼女に何も言うことができなかった。

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