4.夫の行方
彼が地を蹴って急ぐ間にも、悲鳴と怒号、そして物を壊すような音が聞こえてくる。
もめごとの気配から遠ざかろうとする者と、見物に向かう者。人の流れがぶつかり合うのを掻き分けて掻い潜って、辰蘭はどうにか騒動の源に辿り着いた――と思った瞬間、ひと際大きな怒鳴り声が彼の耳を殴る。
「亭主を匿ってるのは分かってるんだ! いったいどこに隠したんだ!?」
辰蘭の目と鼻の先で、陶器が砕ける音が鋭く宙を裂いた。
身軽な胡服姿の男たちが、ある民家の軒先に置いてあった水瓶を蹴り倒したのだ。瓶を満たしていた水が零れ、周囲の地面を泥濘に変える。そこに倒れ伏すのは、辰蘭の依頼人の鄭氏だ。考えるまでもない、彼女の夫に貸しがある者たちが詰め寄っているのだろう。
跳ねた泥で頬を汚し、男たちを見上げて訴える鄭氏の目は潤み、声は震えていた。
「わ、私も知らないのです。良人がどこにいるのか――」
「嘘を吐け。龍淵の城門はすべて見張らせている。張が城内にいるのは分かってるんだ!」
助けを求めるように顔を巡らせた鄭氏の視界に入らぬよう、辰蘭はそっと野次馬の壁の後ろに身体を隠した。女人が甚振られるのを看過するつもりはないが、はっきり言って彼は荒事には役に立たない。無理に前に出るよりは、耳をそばだて考えを巡らせたほうが得るものが多いはずだった。
(これだけ人目があるのだし……殴る蹴るはしないだろう……!)
祈るように自分に言い聞かせながら、辰蘭はことの推移を窺った。鄭氏の悲鳴のような訴えは、彼の耳にも胸にも突き刺さる。
「本当です。もうひと月も会っていなくて……! あの、私が織った布です。せめて利子の分として納めていただければ――」
「じゃあ、帰るまで待たせてもらおうか。女房の顔を見に戻ることもあるだろう。いや――悲鳴を聞けば慌てて現れるかな!?」
鄭氏が差し出した布帛を払いのけ、親玉格と思しき男が拳を振り上げるのを見て、辰蘭はさすがに人垣から進み出た。男はずいぶんと興奮しているように見えたし――いくつか、気になることも聞いたから質したかった。
「待て。乱暴は止めよ」
怒号でも悲鳴でもない平坦な声は、かえってよく響いた。
わざわざ集まった野次馬も、恐る恐る様子を窺う体の近所の住人も、借金取りたちも。裙を泥に浸した格好で、身体を竦ませていた鄭氏でさえ。その場の誰もがあっけに取られて固まる隙をついて、辰蘭は親玉格の男と対峙した。
「ご婦人は本当に何も知らぬのだ。何しろ紫姑神に縋ってご夫君の行方を捜そうとしたくらいなのだから」
「あ? なんだ、てめえは。どこの公子様だ。この女の間男か?」
「違う。こちらの婦人から人捜しを請け負った者だ。子不語堂という――店? を、構えている」
いったい自身は何者なのか。自分でも計りかねて、辰蘭は曖昧に言葉を濁した。胡散臭い肩書に、ますます険を帯びる借金取りの表情に目を凝らしながら、考える。
(この者たちも、本気で張という男を捜しているようだな)
それは、当たり前のこと――では、ない。この者たちがすでに張を殺すなり手中に収めるなりしている可能性も考えて、辰蘭はしばらく様子を窺っていたのだ。
夫が借金を踏み倒したなら、妻がその責を負うものなのかどうか――あいにく辰蘭には実務の知識がないのだが。とにかく、「そういうこと」として暴力で脅されれば、鄭氏は逆らえないだろう。そうして婦女子を売り飛ばす手口もあり得るのではないか、と考えていたのだが。そういうことでは、ないらしい。
(そして、見逃していないのなら、張はまだ龍淵の市内に留まっている、と……)
借金で首が回らなくなった債務者は逃げ出すものだ、というのが玄人の見解だということも分かった。夫が自分を見捨てるはずがない、という鄭氏の主張と、はたしてどちらが的を射ているだろう。
沈思する辰蘭の姿は、借金取りを苛立たせたようだった。
「人捜しだと? 人を雇う金を隠していたのか。それとも、口裏合わせて知らねえ振りをしようってのか!?」
「違う。子不語堂は――私は怪力乱神に触れたいだけ、ゆえに金子での報酬は求めない」
倒れた鄭氏と借金取りたちの間に割って入り、彼女と彼らに等しく視線を配りながら、辰蘭は言葉を選んだ。水面に小石を投げ込んで、起きる波紋の形を見定める思いだった。
「張は縊鬼になったかもしれぬ、との訴えを受けたのだ。縊鬼の噂は知っているか?」
「……まさか。あの野郎が首を括るほど殊勝なタマかよ」
横を向いた唾を吐いた親玉格の男の顔に、強く野卑な言葉とは裏腹の怯えが一瞬影を落とした。が、手下に対する強がりなのか何なのか、すぐにまた声を荒げる。
「だいたい……っ、縊鬼に殺されたから縊鬼になる、って順番だろうが。死体も出てねえのに信じるか。お前らやっぱりぐるなんだろう!」
「なるほど。もっともなことだ」
婦女子を脅す借金取りの言い分は、怪力乱神の存在を認めない、という点では意外にも葉司獄のそれに似ている。
(陋巷にも君子がいるということか。興味深いな)
思わず辰蘭の頬に浮かんだ微笑は、親玉格には何か別の意味に捉えられたようだった。縊鬼、と聞いて青褪めていた男の頬に、瞬く間に血の赤が上る。
「何がおかしい、舐めやがって!」
またも振り上げられた拳が起こす風が、辰蘭の頬に当たる。が、痛みや衝撃に身構える必要はなかった。
彼に届く前に、親玉格の男の腕は何者かに掴まれて宙で止まっていた。白く細い癖に、大柄な男の動きをいともたやすく封じてしまった、その指の主は。
「うちの先生に乱暴するのは止めてもらえるか」
罅割れた悪声が、鼓膜にやすりをかけるようだった。辰蘭の肌をざわつかせる耳障りさと裏腹に、囁く唇はどこまでも美しく艶めいている。鏈瑣が、あらかじめ決めていた通りに姿を見せたのだ。
「あ――」
見た目には華奢な優男にあしらわれたのだ。化物の本性など知らぬ男は、激昂して良いはずだった。だが、鏈瑣の美貌に見蕩れたわけでもないだろうに、親玉格は呆けたように目と口を開いて脱力してしまう。鏈瑣の唇が耳元に寄っても、振り払うことさえしない。
「目当ての者はいなかったのだな? ならばさっさと去れ。役人が来ると厄介だろう?」
「ああ……そうだ。帰る……」
錆びた釘を擦り合わせるような声に命じられて、借金取りの親玉は曖昧に頷いた。その目は宙を泳いで焦点を結ばず、足取りは雲を踏むように頼りなく。
「あ、兄貴……?」
「お前ら、覚えてろよ」
言われるがままに鄭氏に背を向けたその男の背を追って、手下どもも勢いのない捨て台詞を吐いて去っていった。ひとまず切り抜けたと思って良いだろう。
安堵の息を吐き、肩から力を抜きながら、辰蘭は鏈瑣を睨めつけた。
美貌の化物は、満足げな表情で紅い唇を舐めている。精気というか血気というか、借金取りの親玉は何かを食われて意気消沈したに違いなかった。
「生身の人間に悪さをするな」
「少し舐めただけだ。齧ったわけでもなし、目くじら立てるな」
羹に指を突っ込んで味見しても、見た目には分からないから良いだろう、とでも言いたげな、たいへん行儀が悪い言い分だった。
涼しい顔の鏈瑣に説教する無為は、もうよく知っている。辰蘭はもうひとつ溜息を吐くだけで済ませてから、短く問う。化物の本性に関わることだけに、鄭氏や野次馬には聞かれぬように声量は落としている。
「で、首尾は」
「何も。都中の鼠、蛇、虫やら蜥蜴やらの精を脅したが、尋ねたような死体を喰った覚えはない、と」
人に聞かせられない内容なのはさすがに分かっているのだろう。色気を湛えた悪声が、辰蘭の耳元で軋んだ。
(なるほど。となると――)
何が考えられるか、何をすべきか。頭蓋の中では思考を巡らせつつ、辰蘭は鏈瑣に小さく頷いた。そして、いまだ地にうずくまったままの鄭氏に手を差し伸べる。
「――お怪我はないか」
「は、はい。お陰様で……」
泥に塗れた姿を恥じてか、鄭氏は俯いてしまった。このような場合にかけるべき言葉など知らないから、辰蘭は用件を伝えることしかできない。きっと、冷たく情が薄いと取られることだろう。
「その……術で見たのだが。ご夫君の遺体は見つからなかった。ひとまず安心するが良い」
「そう、ですか……」
辰蘭を見上げる鄭氏の目が、涙で潤んだ。告げた通りに安心できたのか、あるいは不安を募らせただけなのか、彼には分からない。分からないから、やはり口に出すのは端的な――ともすれば詰問に取られかねないことになってしまう。
「貴女は何を望んでいるのだろうか。夫に生きていて欲しいのか。それとも、縊鬼になっていたほうが良いのか。そのほうが……何というか、気は楽なのか?」
鄭氏の頬が青褪め、身体が震え出すのを、辰蘭は手を拱いて眺めた。他人の妻を抱き寄せて慰める、などとできはしない。何より、彼女の反応をあまさず見届けなければならなかった。
辰蘭が見つめる真意を知ってか知らずか、鄭氏はしばらくの間、唇をわななかせていた。が、やがて俯き肩を落として呟いた。
「私は……夫を信じたいのですわ」




