過ぎ去りし思慕は甘く香る
桂磊と芳霞は、殷家の墓所に葬られている。それぞれ辰蘭と梓媚との婚姻は成立しなかったとはいえ、一族同然と見做されたから――ではなく、祟りを恐れて手厚く祀ったのだ。
実家の魂胆を嫌悪したから、辰蘭がこれまでふたりの墓に詣でたことはなかった。祟られるだけのことをしておいて、それを免れようなどと図々しい。ふたりが怨むのは当然のこと、鬼としてでも、取り殺される間際にでも再会できるなら本望だった。
だが、三年経っても、桂磊も芳霞も一向に姿を見せてくれない。さらに、一連の騒動の後で彼も考えを変えた。
皇后を告発して桂磊の仇を討ったのを冥府に報告したかったし――何より、彼のこれからについて、ふたりに伝えなければならない。
桂磊と芳霞を祀った廟に供物を捧げて香を焚き、紙銭を焼いて礼拝した後、立ち上る煙を眺めながら、辰蘭は口を開いた。
「次の科挙では必ず及第する。ずいぶん怠けてしまったが、状元とは言わずとも、なるべく良い成績を目指したい」
ひと息に宣言した後、ずいぶんと俗っぽい気がして、一瞬だけ言い淀む。お前だけ生き延びておいて、などとは決して言わないふたりだとは分かっていても、後ろめたさから完全に逃れるのは難しかった。
「栄達を目指すからといって、お前たちを忘れるわけではない。それだけは分かって――いや、分かってくれずとも良いが、言っておきたい」
言い訳がましさに気付いて、辰蘭は軽く首を振った。そうして迷いを振り払い、できる限り真っ直ぐに立つ。心に決めたことを、堂々と述べることができなくて何とする。
「梓媚と公主を守るためには、私自身にも力が必要だから。それに、民のため国のために何ができるか、桂磊と語ったことを無にしたくない。非才の身であれ、できることを為さなくてはならぬ。何より――」
揺れて震える声を整えるために、辰蘭は俯いた。食いしばった歯の間から絞り出すように、続ける。
「芳霞以外に妻を娶る気などない。だからこの道を進ませてくれ。……最初からそうだったのだと、もっとはっきりと伝えておけば良かった」
優秀な成績で及第した進士は、名家権門から縁談が殺到するものだ。辰蘭の場合は、妹が皇帝の目に留まったこともあって、会試の不合格の後でもその手の話が舞い込んだ。
父が何と言おうと、断るつもりだった。芳霞にも、そう言ってはいた。だが、足りなかったのだろう。
あるいは、彼は心の片隅で考えていたかもしれない。もしも芳霞を側室にすることになったとしても、最も愛するのは彼女なのだから問題ない、と。
芳霞は、彼の不実を感じ取って絶望したのではないか――この三年、辰蘭は常に胸を刺す後悔に苛まれてきた。
(それだけ芳霞を忘れていないということ。甘んじて受けよう)
生者の言葉に死者が応えてくれないのは、分かり切っていたこと。だから辰蘭は、香の煙が絶えるまで後悔が胸を刺すのに任せて佇んだ。
そして、漂う残り香を散らすように溜息を吐くと、踵を返し廟を後にした。――しようと、した。
「これは、どういう……?」
目を見開いて固まった辰蘭の鼻先を、桂花の甘い香りがくすぐる。死者に捧げた香の古びた香りは洗われたように消え去った。
香りだけではない、天に枝を張り巡らせる桂花の大樹から、金の星が降るように小さな花が数知れず舞い降りる。甘く芳しい霞はあたり一面に積もって池の水面や築山を染め上げる。――寂れた墓所などではない、美しく整えられたその景色は、殷家の本邸の奥庭に間違いなかった。
懐かしい光景を目の当たりにして、呆然としながら、辰蘭は胸中に呟いた。
(鬼打牆と、言ったか)
貢院の件で、鏈瑣から教えられたことだ。
幽鬼の類が操る技。幻を見せたり、空間を捻じ曲げたりして生者を誘うとか。ならば、彼をこの庭に招いた者は。
「辰蘭様――」
桂花の香りを纏ったそよ風さながらの、優しく柔らかい声が、呼び掛けた。この三年というもの、辰蘭が聞きたいと切望してきた声、けれど二度と聞くことはできないと思っていた声だった。
「芳、霞」
胸に込み上げる思いを溢れさせるようにその名を呼べば、「彼女」が大樹の幹の傍らに佇んでいる。これもまた辰蘭が毎夜のように夢に見た、美しくも控えめな微笑を浮かべて。
よろめくように、辰蘭は足を踏み出して芳霞へと駆け寄った。腕を伸ばして華奢な身体を抱き締めれば、震えるほどに冷たい。陽界と陰界の境はやはり越えがたいのだと突き付けられても、それでも、腕を緩められるものではない。
「芳霞、芳霞。なぜ」
「貪虚星君のお陰です。かの御方の眩さに、冥府も混乱しておりますの。だから少しだけ、抜け出すことができました」
少しだけ、と聞いて、辰蘭は絶望の表情を浮かべたのだろう。芳霞は困ったように微笑むと、白い――白すぎる指先で彼の身体の線をなぞった。宥めるように。そして同時に、彼女自身の名残惜しさも伝えてくれるかのように。
芳霞の額が、辰蘭の胸に押し当てられた。彼に項を見せる格好で、俯いたまま、囁く。
「わたくし、辰蘭様に謝りたくて。とても悲しまれると、分かっておりましたのに」
「謝るのは私のほうだ。桂磊を助けられず、お前を不安にさせた。覚悟も想いも、まるで足りなかった……!」
「いいえ、いいえ。違うのです」
辰蘭の抱擁から逃れようとするかのように、芳霞は激しくもがき、彼の胸を拳で叩いた。
彼を見上げる目は涙に濡れて美しく、けれど色のない頬が痛ましい。悲しげに切なげに嘆息する仕草をしながら、辰蘭の肌に吐息が触れることがないのも――どうしようもなく、彼女が死者であることを突き付けていた。
「御心は、ちゃんと分かっていました。その上で――怖かったのです。身分低いわたくしを娶って、いつか後悔なさるのではないか。ほかの御方を妻に迎えることはないか」
「そのようなことは――」
ない、と。辰蘭が言い切ることを許さず、芳霞はゆるゆると首を振った。
「わたくしは、梓媚のようにはなれません。ほかの御方と張り合うのも、捨てられぬように励むのも恐ろしかった。張り合うこと励むことそのものよりも、それが報われなかった時のことを思うと……!」
梓媚は、きっと姉同然の芳霞を励まし奮い立たせようとしたのだろう。あの妹なら、そうしたはずだ。自身が婚約者を喪ったばかりだからこそ、兄たちまでもが別離の辛酸を舐めることを望まなかったはず。
梓媚なら、夫や婚約者の心変わりなど許さない。そのようなことが起きぬようにあらゆる手段を尽くし、邪魔する者は蹴落とすだろう。そうすれば良いと、芳霞にも勧たところが目に浮かぶよう。
だが、ふたりの気性はまるで違った。梓媚の言葉は芳霞に届かなかったのだろう。
(そもそも、私が気付いて伝えるべきことだった)
姉のように慕った芳霞を救えなかった。そのこともまた、梓媚を傷つけたのだろうに。
後悔が、より深く鋭く胸を刺すのを感じながら、辰蘭は芳霞を抱き締めた。骨まで届く冷気に歯を鳴らしながら、それでも腕は緩めずに。このひと時は奇跡のようなもの、決して無駄にしてはならないものだと直感していたから。
「それでも、私は詫びねばならぬ。お前を信じさせることができなかったのだから」
「わたくしは、逃げたのです。そして――勝ったつもりでした。わたくし、が。死ねば……っ、辰蘭様は、一生囚われてくださる。忘れないで、いてくださると……思って――」
芳霞は確かに辰蘭に勝った。彼の心に消えない傷を残して、いまだ血が滴るそこに入り込んでいる。本懐を遂げておいて、涙で声を詰まらせるのは――いったいどうしたことだろう。芳霞のほうこそ、激しい後悔に苛まれているかのように、美しい顔を悲痛に歪めたりなどして。
「もう良いと、思いました。そう、お伝えするために参ったのです」
またも首を振って――芳霞は、ぎこちなく微笑んだ。氷のように冷たい手が、そっと辰蘭を押し退ける。
「もう十分に想っていただけました。どうかわたくしのことはお忘れになって。――幸せに、なってください」
「そのようなことは、できない」
「そう仰るのも分かっていました……!」
芳霞は数歩、滑るように退いた。そうして、生死の境に線を引いた。気付けば、桂花の花は降り止んで、甘い香りも消えかけている。
この奇跡のようなひと時は間もなく終わるのだ。そう悟って、辰蘭は必死に芳霞へと手を伸ばした。どういうわけか、彼我の距離が縮まることはなかったが。
芳霞の美しい笑みも、霞が晴れるように少しずつ透けて、ぼやけていく。
「死してなお、御心を縛ろうと躍起になる悪霊なのです、わたくし。だから、いつまでも憑かれていてはなりません。どうか忘れてくださいますように」
「……忘れるものか! 生涯、お前だけを想い続ける!」
届けられるのはもはや声だけだから、辰蘭は血を吐く思いで叫んだ。煙のように溶けて消えようとする芳霞が、それは嬉しそうに微笑むから、彼女の想いが分かる。
(お前も、本当は共に生きたかったのだろうに。違う道もあったのだろうに。なぜ……!)
頽れた辰蘭が膝をついたのは、廟が林立する墓所だった。冬の風は冷たく、桂花の香りも金の色も、どこにも残っていなかった。
* * *
頬に涙の痕をくっきりと残して子不語堂に帰った辰蘭を、鏈瑣は例の騒々しい悪声で迎えた。
「どうした先生、精怪か鬼にでも襲われたか? 虐められたか? 仇を取ってやろう! 喰って良いか?」
「ならぬ!」
芳霞が化物の餌食に、などと想像するだにおぞましい。反射的に一喝してから――きょとんと首を傾げる鏈瑣に、辰蘭は深く丁重に拝礼した。
「礼を言うぞ。お前のお陰で思いがけない人に会うことができた」
あの日、皇宮に輝いた貪虚星君の光は、冥府にまでも届いたらしい。芳霞が姿を見せてくれたのは、ならば紛れもなく鏈瑣のお陰だった。
「うん?」
「少しだけだが。話せて良かった……と、思う。ありがとう」
ゆっくりと顔を上げてみると、当の化物は怪訝そうに首を傾げていた。
(まあ、詳しく聞きたがる奴でも、話して理解する奴でもないが)
だから、礼を述べるのは自己満足に過ぎないのだろう。辰蘭が苦笑したところで、鏈瑣は何かしらの閃きを得たようだった。残念な中身と裏腹な美貌を輝かせて、身を乗り出す。
「よく分からぬが、礼というなら美味いものが喰いたい。何か依頼は来ていないのか?」
「ああ……そうだな。見てみるか」
子不語堂には、書簡の形でも依頼が届くのだ。化物が喜びそうな怪力乱神がいるかどうか――確かめるべく、辰蘭は積み上がった書簡に手を伸ばした。
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