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子不語堂志怪録 星なき夜に影は踊る  作者: 悠井すみれ
第一章 縊鬼になった夫
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3.司獄司にて

 翌日、辰蘭しんらん司獄司しごくしを訪ねた。龍淵りょうえんの都の治安を預かる役所である。


 ひとりで出向いたのは、公に属する場に、鏈瑣れんさのような化物は似つかわしくないからだ。たとえ正体が露見しなくても、あの美貌も無作法な言動も目立ってしかたないだろう。無用の騒動を避けるためにも、鏈瑣にはより適当な役目を与えている。


 辰蘭が取次ぎを頼むと、胥吏しょりはあっさりと刑部けいぶ司獄しごくの執務室に通してくれた。妹の栄達のお陰で、実家の殷家は今や飛ぶ鳥を落とす勢いなのだ。


「殷家の若君はお暇なようだ。まことに羨ましい」


 恭しく揖礼した辰蘭を、刑部司獄はひどく苦いものを呑んだような渋面で迎えた。実家の威光も、司獄司の長官には通用しないということだ。


 烏紗帽うしゃぼうを戴き、黄鳥の補子ほしを胸に飾った刑部司獄は、姓をしょうという。年のころは五十手前だろうか。顔つきは厳めしく背筋正しく、地位にふさわしい謹厳な人柄が佇まいにもよく滲んでいる。


「市井の暮らしを知るのは、後々のためにも必要なことと考えております。これも修養の一環かと」


 子不語堂を構えて以来、辰蘭はたびたびこの御仁と会っている。あやしのことならお任せあれ、とかいう大言壮語のいくらかは、何のことはない、実家の人脈で役所に伝手があることに由来している。


「ずいぶん長く()()なさっているようだ。今回は受験されていないとか。鋭気を養っておられるということか」


 刑部司獄たる者が修養と休養を聞き違えるはずもない。良いご身分だな、という嫌味をあえて指摘する無粋は犯さず、辰蘭は受け流す。


「ええ、無知と無力を思い知らされるばかりの日々で――奮起しようにも、なかなか」


 辰蘭は科挙の勉強に疲れて隠遁の生活を送っている、というのが世間向けの説明だ。


 それが蓋を開けてみれば、鬼や精怪を追いかける怪しげな商売に手を染めているのだ。まともな官なら嫌味や苦言のひとつも言いたくなるだろう。実家の権勢に遠慮して追従しないだけ、辰蘭は葉司獄の実直さを好ましく思っている。


状元じょうげん(主席)も夢ではないとの評判をほしいままにしておいて、言うものだ。で――今日は何の用件でこの私の邪魔をしようというのだ」


 それに、相手のほうも、多少は辰蘭を買ってくれているのではないか、という気がする。無礼な若造を追い返すどころか、席を勧めてくれるのだから。


 鏈瑣のことはもちろん紹介していないが、何かしら役人の視点では気付かぬことに目が届くこともあるようだ、ていどには思わってくれているのではないだろうか。


 葉司獄の寛容に甘えて図々しく腰を下ろしながら、辰蘭は切り出した。


「近ごろ、龍淵に縊鬼が出ると仄聞したのですが――」


 借金を抱えて姿を消したてい氏の夫、ちょう某のこと。夫を信じる妻をして心を揺るがせる縊鬼の噂。


 語るうちに、ただでさえ強面の葉司獄はますます険しい顔つきになって眉を顰めた。怪しげな流言を聞かされたから、だけではないだろう。司獄司の長は無能では務まらないのだから、当然、辰蘭と同じ考えに至るはず。つまり――


(縊鬼などそうそう出るものか。だが、民や捕吏は信じるかもしれない。縊鬼を恐れるあまり、ろくに遺体に触れず、調査どころか巫覡ふげきのお祓いに頼るかも――)


 果たして、辰蘭が語り終えるや否や、葉司獄は豊かな髭を震わせて怒鳴った。


「直近の――この三月で良い、縊死いしの調書をここへ持て!」


 上官の剣幕に怖れをなしたのだろう、居心地悪く座る辰蘭の前を胥吏が右往左往していった。そして、ほどなくして積み上がった調書を一読して、葉司獄は再び怒声を上げる。


「なんと粗雑な検屍か! 踏み台の有無さえ記していないではないか!」

「そ、それは――縊鬼の仕業であれば、不自然な状況もあり得ると思われたのかと……」


 怒髪天を突く勢いの葉司獄に口答えした胥吏の蛮勇は、貫かんばかりの鋭い視線で報いられた。


「縊鬼などいるはずがない。不自然な状況があったとすれば、人が為したものに相違ない。怪しげな風聞を真に受けた愚か者には杖刑を。そして、検屍も捜査もすべてやり直せ!」

「ですが、とうに埋葬した死体も――」

「掘り返せ。蛆も腐臭も怠惰への罰である。捕らえるべき罪人を見逃した可能性を心せよ」

「は、はは……っ」


 恐らくは、検屍をした本人ではなかったのだろうに。哀れな胥吏が転がるように退出したのを見届けて、辰蘭はさりげなく口を挟んだ。


「ついでと言っては何ですが。身元不明の死体の中に、捜している者に似た風体のものがいないかどうか――調べさせていただいてもよろしいでしょうか?」


 葉司獄は、先ほどにも増して苦り切った表情を見せた。


 司獄司の長が把握できていなかった、市井の噂を知らせたことへの情報料。かつ、公の捜査が行き届いていなかったことを吹聴しないための口止め料。その両方を要求されたことに気付いたのだろう。


      * * *


 司獄司が把握している死体の中に、鄭氏の夫と年齢体格や顔つきが一致するものはなかった。むろん、だからといって死んでいないと断言することはできないのだが、ひとつの収穫とは言えるだろう。


(怪力乱神を知るには、盲信も禁物だ。縊鬼の存在を信じたがゆえに、検屍の官は職務を疎かにし、鄭氏は夫の死を恐れた――ほかの可能性も、考えるべきだっただろうに)


 聞いておいた鄭氏の住まいに足を向けながら、辰蘭は考えを巡らせる。思考に没頭するあまり、時に道行く民にぶつかってしまうのだが、いかにも良家の子弟な彼の装いの前に、概ね舌打ちていどで許してもらえている。


 調書を漁りながら胥吏や捕吏のやり取りに耳を澄ませたところ、確かにこの数か月というもの、縊死が多いということではあった。だからこそ縊鬼が狙ってさ迷っている、などという噂が出るのだろうが――


(縊鬼がいるから死体が出るのか。死体が出るから縊鬼がいる「ことになる」のか。どちらだろうな?)


 鏈瑣という化物と身近に接している辰蘭は、葉司獄とは違って縊鬼などいないと断言するつもりはない。だが、庶民が恐れるほどに鬼の類が多くないのも知っている。


 非業の死を遂げた者が皆、生者に仇なすとは限らないのだ。辰蘭がまだ生きているのがその良い証拠だ。


 いっぽうで、子不語堂を営んでいれば嫌でも分かる。鄭氏が紫姑神に頼ったように、庶民の多くは素朴に迷信じみた怪異を信じ、崇め、恐れている。その感情を知る者なら、利用してやろうと思いつくこともあるだろう。


(たとえば――強盗に入った先で、家人を絞殺して吊るす。その上で縊鬼の噂を流す。捕吏にも噂が届けば、捜査の手は緩むかも。そもそも遺族も騒ぎ立てないかもしれぬし……)


 まあまああり得なくもないことだ。そして、もしもそうであれば、葉司獄が事態に気付いて再捜査を命じたからには、かような手口が長くまかり通ることはないだろう。


(だが、張とやらは博打を好むとはいえ強盗の一味ではないのだろう。それなら借金に追われることもないはずで……)


 だから、張の失踪は縊鬼騒ぎとは無縁に起きている、のだろうか。ならば――生死はさておき――彼が見つかるか否かは鏈瑣の仕事ぶりにかかっている。


 鏈瑣とは、鄭氏の住まいの辺りで落ち合うことになっている。あちらの首尾が良ければそれで済むが、張が見つかっていない時は、また捜しに出てもらわねばならない。怪異で腹を満たせないとなると、あの化物のやる気は大いに削がれるだろう。


「さて、どう言い包めるか――」


 思わず零れた辰蘭の呟きは、女の高い悲鳴によって掻き消された。女の――聞き覚えのある声。


(――鄭氏!?)


 目的としていた、依頼人の住まいの界隈に至っていたことに気付いて、辰蘭は慌てて走り出した。

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