4.貪虚星君
林浩雨が乗ってきた馬車に、辰蘭は鏈瑣と共に無理やりに乗り込んだ。男三人で膝をつき合わせるのは、ずいぶん息苦しく窮屈だった。
馬車が一路目指すのは、貢院だ。
龍淵の都の一画を占めるその建物で、桂磊は三年前に息絶え、そしてつい先日は林浩雨の弟が試験に臨んだ。
古来、数知れぬ受験生の悲喜こもごもが繰り広げられた場所でもある。先人たちの、心身を削る執念や研鑽の重みをよく知る辰蘭と林浩雨は、緊張を禁じ得ないのだが――三人目の同乗者は、鼻歌を歌い出しそうな上機嫌だった。
「とても楽しみだ。あそこも何やら欲と怨みが渦巻いて美味そうだと思っていたからな」
蕩けるような美しい笑みと裏腹に、鏈瑣の声は錆びついたようにざらついて聞く者の鼓膜を擦り下ろす。しかもその内容がやけに不穏で卑しいものだから、林浩雨は気味悪げに顔を顰めて辰蘭に囁いた。
「『これ』は何者なのだ、いったい」
「助手というか何というか……あやしのことなら頼りになるのだ、一応」
言葉を濁しながら、辰蘭は鏈瑣の言葉の裏に思いを馳せずにはいられない。
狭い車内で、いっそ優雅に脚を組んで、鏈瑣は窓の外を流れる都の風景を眺めている。緩く弧を描く唇はやはりどこまでも整って、傾国の佳人の風情さえ漂わせる。その食い意地をよく知る辰蘭でさえ、うっかり見蕩れそうになるほどの麗しさ、なのだが――
(貢院も、か。後宮も、お前にとっては良い狩場だったのだろうな?)
この化物の来歴を思うと、今さらながらに冷気のような不安が彼の肌を粟立たせる。
広寒府――月の宮殿に仕えるという若者と見えたあの夜以来、彼は古い伝説を紐解いていた。まさか、とは思いつつも、そうせずにはいられなかった。
貪虚星君。
虚空を食い尽くすほどの貪欲さ、あるいは虚空のごとくに尽きせぬ貪欲さを持つ輝かしい凶星の名だ。しばしば犬や狼の姿で描かれ、天帝の命によって悪鬼悪神を喰らう、天の番犬であるはずだった。
それが、天命に背いて無辜の民を喰らい始めたため、見かねた極の太祖によって封じられた――伝承の通りならば、二百年も前のことだ。
もっともらしく考えるなら、眩い流星や彗星が現れたのを初代皇帝の権威に絡めて記録したのだ、となるのだろうが。
(天命に背いた、というか。単に腹が減ったのだろうなあ)
鏈瑣の食い意地を御するのに苦労している身としては、伝承の本当のところ、の想像がつくような気がしてならない。貪婪を極めた眩い凶星は、墜とされてなお悔い改めはしなかったのだろう。そうだ、桂花の事件でも喚いていた。
『妃嬪や宮女を腹いっぱい喰えると思ったのに……!』
それはただの願望なのか、梓媚に見出される以前に実際あったことなのか――いずれにしても、この化物の手綱を握る役は、思っていた以上に重いものなのかもしれない。
(人を襲わせないよう、心しておかなければ……!)
決意を新たにした辰蘭に、精怪の予感に浮かれる鏈瑣に。林浩雨は、もちろん弟への嫌疑が晴れるか否かで気が気ではないだろう。
* * *
三者三様の思惑を乗せて馬車はひた走り、辰蘭と林浩雨にとっては色々な意味で思い出深い貢院の門前に至った。
朱塗りの柱が支える牌坊が戴く瓦屋根の上には龍の彫刻が鎮座し、その四隅は屹立として天を指す。その先の門扉は厚く、見るからに重たげで。中に入った後でそれが閉ざされた時は恐怖にも似た緊張を感じたものだった。
極の前の王朝から、数百年に渡って受験生の汗と涙を呑み込んだ建物だという。三年やそこらで大きな変化が起きるはずもないのだが――
「科挙の時以外の貢院がどうなっているか、そういえば気にしたことがなかったな」
辺りを見渡しても、彼ら三人と乗ってきた馬車、林浩雨の従者のほかには動く影がない。
辰蘭の記憶では、貢院前のこの広場には無数とも思える受験生や、見送りの親類縁者が黒蟻のようにひしめいていた。万の単位の受験生を呑み込める空間に誰もいない、というのはどうも落ち着かない静けさだった。
辰蘭と同じ不気味さを感じているのだろう、林浩雨も、しきりに寒そうに二の腕を擦っている。
「私もだ。人がおらぬと、何とも廃墟のような風情だな」
今回の郷試はすでに終わり、次の関門である会試が行われるのは来年の早春だ。人気がないのは、まあ当然ではある。
(とはいえ、管理する役人くらいはいるだろうと何となく考えていたのだがな……)
固く閉ざされた門を前にすると、見込みが甘かったのかと少々不安になってくる。
「勝手に入っては、さすがに拙い、だろうな……」
「当然だ。我が家にこれ以上の嫌疑をかけてくれるな」
林浩雨は将来の高官候補の進士だし、辰蘭の実家の殷家も、妹のお陰で飛ぶ鳥落とす権勢を誇っている。馬鹿正直に調査などとは言えないにしても、散歩とか見学とか試験の思い出話とか――そんな口実で貢院に入り込むことはできるだろうと踏んでいたのだが。
(さて、どうしたものか……)
人間ふたりが顔を見合わせて沈思するいっぽう――化物が、軋んでいる癖に弾んだ声を上げた。
「いや――人は、いるようだぞ? 中がずいぶん騒がしい」
「何?」
辰蘭が耳を澄ませても、聞こえるのは風に揺れる野草の葉擦れの音くらいだった。怪訝そうに眉を寄せた表情からして、林浩雨も同様だろう。だが、人間の鈍さを嗤うように、鏈瑣は鎖をじゃらじゃらと鳴らしながら貢院の門へと軽やかに駆けた。
美姫のごとき繊手が、無骨な門に添えられた――かと思うと、それこそ鏈瑣の声のように耳障りな軋みを上げながら、ゆっくりと扉が開いてしまう。
「ほら。錠も下りておらぬ!」
「こら、鏈瑣。止めぬか」
眩しい笑みが扉の間に消えたところで、辰蘭はようやく我に返った。
(しっかりと鎖を握っておけば良かった……!)
躾のなっていない犬に対するような慨嘆であった。化物に勝手はさせぬと決意したばかりなのに、情けない。歯噛みをしながら彼も貢院の門を潜る。背後に聞こえる足音からして、林浩雨も続いたらしい。
鏈瑣の背を追って、辰蘭は貢院の中心を貫く甬道と呼ばれる大路を駆ける。左右に別れる細い通路は、受験生が押し込められる小部屋が連なる号舎へと続くが、鏈瑣が脇に逸れる様子はない。ただひたすら真っ直ぐに、門からは霞んで見えるほどの距離にある、試験官や監督官が詰める殿舎を目指しているようだ。
慣れない、そしてかつてない距離の駆け足に、辰蘭の息は弾み肺は痛み、額からは秋だというのに汗が滴る。肉体の疲弊によって、頭の中の思考もぼやけて焦点を結ばない。
(採点も、とうに終わっているのではないのか? この時季の騒ぎとは……?)
鏈瑣の人ならざる感覚、あるいは食べることに関する執念は疑うべくもない。だが、廃墟めいて閑散とした貢院に、季節外れの人の気配というのは――いったい、なぜ。
疑問への答えは、間もなく与えられた。
甬道の果てに、ようやく辿り着いたのだ。
受験生に割り当てられる独房めいた小部屋とは違って、役所らしい建物が聳え、その前庭に官服姿の者が幾人か見える。鏈瑣の言葉通り、確かに言い争う気配もする。彼自身の乱れた呼吸に混ざって、荒らげた声も聞こえる――その中に、聞き覚えがあるものがあるような。
(――なぜ、あの御仁がここに……?)
疑問がひとつ増えたところで、官たちの顔がこちらを向いた。足音高く駆けてくる彼らの姿を、こうも近づくまで気付かなかったのは、それほど激しくやり合っていたからだろうか。とにかく――
「殷家の若君か。何と間の悪いところにいらっしゃったものだ……!」
声から思い浮かべた名と姿に、間違いはなかった。
髪を乱し、汗だくになった辰蘭の姿を見て目を剥いたのは、龍淵の治安を預かる葉司獄その人だったのだ。




