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子不語堂志怪録 星なき夜に影は踊る  作者: 悠井すみれ
第三章 閉ざされた貢院に渦巻く蟲毒
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3.辰蘭の過去

 桂磊けいらいは、いん家が才を見込んで引き取った孤児だった。何としても一族から出る進士――科挙合格者を絶やさぬため、将来有望な子を養子格として育てるのはよくあることだ。

 辰蘭しんらんと桂磊、そして梓媚しびと、桂磊の妹の芳霞ほうか。殷家の正嫡の兄妹とそれぞれ同じ年ごろの兄妹だったのも、遊び相手や側仕えとして都合が良いと思われたのだろう。


 四人は、殷家の大人たちの期待や思惑を越えて親しく近しく育った。


 辰蘭と桂磊は、揃って若くして進士及第当然、いずれが状元か榜眼ぼうげんか、との評判をほしいままにするようになった。

 梓媚と芳霞も実の姉妹同然に仲睦まじく、輝くばかりの美貌や華やかな笑い声で兄たちを和ませた。容姿だけでなく、兄たちが受ける授業を漏れ聞いた彼女たちは教養をも身に着け、殷家に双玉ありと謳われるまでになった。


 玲瓏玉のごとき声が奏でる詩歌だけでも聞きたいものと、何かと口実をつけては屋敷を訪ねる者が後を絶たなかった。辰蘭たちもその口実によく使われたものだ。たとえば林浩雨も、論戦を申し込んでおきながら、視線は屋敷の奥を窺っていた。


 桂磊の才と芳霞の美しさ淑やかさは殷家の重鎮にも認められ、正式に一族に迎えられることになった。辰蘭は芳霞と、桂磊は梓媚と、それぞれ結婚が許されたのだ。二組の兄妹、二組の夫婦は手を携えてますます一族を繁栄させるものと、誰もが信じていただろう。


 あまりに高まった「殷家の双玉」の評判が、皇宮にまで届くまでは。お忍びで殷家の行楽を垣間見た皇帝その人が、よりによって梓媚を見初めるまでは。

 特別に後宮へ招かれた梓媚を見送る時、桂磊の顔はひどく青褪め、強張っていた。


 それでも最初は、皇帝は一応は倫理や道徳というものを弁えてはいたのだ。梓媚には婚約者がいる、将来高官に至るであろう者の妻を奪うのはいかがなものか、という重臣からの諫言をれるていどには。

 梓媚を家に帰す際、皇帝は名残惜しげに述べたという。


『これほど美しく賢い婦人を娶る男は幸いである。本人もさぞ才に恵まれているのであろう。殿試でんしまみえるのが楽しみなことだ』


 綸言りんげん汗の如し、という。

 帝王たる者の発する言葉は流れる汗のように取り返しがつかない、ゆえに軽率な発言は慎むべし、という意味だ。


 その点、皇帝が梓媚と桂磊について漏らした言葉はあまりにも無配慮だった、と辰蘭は思う。たとえ悪気のない心からの感想だったとしても、臣下たる者たちはその裏を読まずにはいられないものだろうに。

 少なくとも、桂磊は皇帝の言葉を脅しだと認識した。朕が目をかけた女を譲るからには、よほどの成績を収めなければ許さない、と。


 あるいは、辰蘭たちの父の溜息のほうが桂磊を追い詰めただろうか。婚約者がいる娘を後宮に入れることはできない、と――裏を返せば、桂磊さえいなければ、と聞こえただろうから。


 桂磊は、梓媚を得るためには最初の受験で、それも際立った成績で及第しなければ、と思い詰めた。そうして、寝食を忘れて勉学に打ち込んだ。


 科挙の受験会場である貢院は、過酷な環境だ。受験生は、蜂の巣のように連なった窓も扉もない小部屋にこもって答案を練り上げる。その日程は三日がかりの試験を連続で三回、合計十日近くに及ぶ。

 人生を賭けた試験とあって夜もろくに眠ることができず、食べ物も喉を通らない。答案を汚せないいっぽうで、風雨は容赦なく吹き込む。隣からは競争相手の学生たちが呻吟する声が伝わってきて慄かせる。

 中には、緊張のあまり精神に異常を来たして泣き喚いたり、頭を壁に打ち付けたりする者もいる。老齢の受験者が、精魂尽き果てて息絶えることさえ珍しくない。


 しかも、残暑の残る秋に行われる郷試と違って会試の開催は初春だ。夜の冷え込みはなお厳しい。

 だから、試験に臨む前から憔悴しきっていた桂磊には耐えきれぬのではないかと、辰蘭たちは恐れていた。梓媚はもちろん、辰蘭も実の妹の芳霞も止めようとした。だが、桂磊にとっては次の機会を待つことなど考えられなかったのだ。


 桂磊と共に貢院に入った辰蘭は、妹たちからくれぐれも彼を頼む、と言われていた。自身の答案に取り組みながらも、頭の片隅では常に兄弟同然の友のことを考えていた。桂磊が、多少の重ね着では防ぐことのできない寒気に晒されていると思うと気が気ではなくて。


 とはいえ、受験生が安易に自室を離れることもまた、不正と見做されかねなかった。不審な動きを許すまいと、役人は常に見回っている。

 強い雨が降ったのを幸いに、闇に乗じて辰蘭が桂磊の部屋を訪ねることができたのは、やっと最終日の夜のことだった。


 みぞれ交じりの雨がもたらした寒気は桂磊にとっては命取りとなった。書きかけの答案を遺して桂磊は息絶えていた。友の亡骸に寄り添っていた辰蘭も答案を仕上げることができず、ふたりとも不合格の扱いになった。


 桂磊の死を、皇帝は僥倖と捉えたらしい。これで梓媚を後宮に召す障害はなくなった、と。せめて服喪の期間を置くべきだという辰蘭の主張は誰にも顧みられず、まるで桂磊など初めからいなかったかのように、梓媚は慌ただしく後宮に呑み込まれていった。


 殷家は、さらに芳霞までもいなかったことにしようとした。

 辰蘭と、とある名家の令嬢との縁談が持ち上がっていることを知った彼女は、身を引くために、と言い残して自ら命を絶った。


 それが三年前に起きたことで、辰蘭が科挙を放棄し実家を捨て、妹と距離を置いた理由だった。


      * * *


 りん浩雨こううに肩を揺さぶられて、辰蘭は追憶に深く沈んでいたことに気付いた。目の前に迫った旧友の顔には、焦りと不安と恐怖が混ざり合って浮かんでいる。


「桂磊が無事に答案を書きあげていれば、私など合格していなかっただろう。その怨みを訴えるために、奴は浩季の答案を隠したに違いない……!」


 貢院には怪談話がつきものではある。故郷で騙した相手や捨てた女の鬼が現れて祟るだとか。合格できずに狂死した者がいまださ迷っているとか。

 怪力乱神を語らぬはずの学徒をして恐れさせるほどに、貢院に渦巻く嫉妬や欲望、怨嗟の情念は濃く深いのだ。だが――


「桂磊がそのようなことをするものか」


 辰蘭は躊躇いなく断言すると、襟元を掴む林浩雨の手を払いのけた。


 桂磊は、ひたすら自らを追い詰めるだけで、皇帝への不満も怨みも漏らさなかった。殷家にも思うところがあっただろうに、辰蘭に見せる笑みは最後まで曇らなかった。


「お前も筋違いだと言ったではないか。お前を怨むことさえあり得ないのに、まして、無関係の弟御に仇を為すはずがない」

「だが――」


 言い募ろうというのか、口を開こうとする林浩雨は、よほど動転しているのだろう。鬼も祟りも、普段ならば信じる男ではないだろうに。


(弟に関することだから――それに、桂磊だから、なのだろうが)


 非業の天才の逸話は、科挙に関わる者の胸に深く刻まれているのだろう。合格した者に後ろめたさを覚えさせるほどに。礼部の高官をして、優れた答案と聞いただけで思い起こさせるほどに。

 友として誇らしいいっぽうで、けれど生きている間に桂磊の才が認められなかったのが口惜しかった。それに、何より。亡き友が誰彼構わず祟りを為すような悪霊だと思われるのは我慢ならない。


 林浩雨が聞くに堪えない邪推を口にする前に、辰蘭は素早く立ち上がった。


「だから、私が調べよう。答案の入れ違いということでもなく、弟御のものだけが紛失されたのは、確かに不思議なこと。この子不語堂が扱うに相応しい」


 桂磊の霊ではあり得ない。ならば、その名を騙って何らかの悪事を為そうとしている者がいるのかもしれない。


 ならば放ってはおけない。相手が人だろうと怪異だろうと、卑劣な謀は暴いてやらねばならない。

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