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子不語堂志怪録 星なき夜に影は踊る  作者: 悠井すみれ
第三章 閉ざされた貢院に渦巻く蟲毒
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2.すり替えられた答案

 長く込み入った話になるのを察して、辰蘭しんらんはさすがに庁堂の扉を閉めた。筆や硯も片付け、卓の上に手ずから茶器を並べる。


「茶に、干し柿か。また腹に溜まらぬ詰まらぬものを」

「腹を満たすためのものでも、お前のためのものでもない。黙っているが良い」


 長榻にもたれて茶化す鏈瑣れんさのだらしない姿に、鼓膜を擦る悪声に。りん浩雨こううはまず目を剥き、ついで心配そうに言った。


「見目良い従者を囲っているという噂は本当だったのか。お前が前を向く気になれたなら良いことかもしれぬが……」

「口を慎め。根も葉もない流言だ。私はそれほど悪趣味ではない」


 辰蘭は憤然として旧友のひどい思い違いを正した。


 芳霞ほうかを忘れるために男色に走ったなどと思われるのは不本意極まりない。何より芳霞は淑やかで優しく、容姿だけでなく心ばえも美しく清らかだった。悪食の化物と引き比べるなど、彼女への侮辱にもほどがある。


 それは、さておき――茶の香りと柿の甘味で気を落ち着けたところで、林浩雨は子不語堂を訪ねた本題を切り出した。


「今回、浩季こうきが――弟が受験していてな。つい先日も、龍淵の貢院こういん郷試きょうしに臨んだのだが」

「ほう。若いのに大したものだ」


 郷試とは、科挙の第一関門だ。合格するのは狭き門だし、次に控える会試かいしはさらなる難関とはいえ、そもそも受験できる機会は三年に一度、それも一握りの秀才に限られる。人生を勉学に捧げ、それでもなお郷試に挑めるかどうか、という者も少なくないのだから、林浩雨の弟は兄に劣らぬ俊才のようだ。


「まあ、受かるとは思っていなかった。ただ、貢院の空気に触れさせておこうというだけで。提出した答案を書き出させてみたが、やはり出来が甘かった。お前や桂磊けいらいのようには、なかなか行かぬ……」


 心から称賛したつもりだったのに、浩雨は軽く顔を顰めて首を振った。また嫌みだな、と思われていそうな気配を感じて、辰蘭は首を竦める。


「……一度で合格する必要もあるまい。まだ若いのだから」


 これもまた、何とも傲慢に聞こえる言い分ではあっただろう。


 彼と桂磊は、最初の受験で会試にまで進んでいた。まあ合格はしていないのだが、それも答案の不出来によるものではなかった。そう、それに葉司獄も言っていた。


状元じょうげんも夢ではないとの評判をほしいままにしておいて――』


 縊鬼いき騒ぎのあった夏は、受験に臨む学生たちが各地から続々と龍淵りょうえんに集まる時期だった。都の治安を預かるあの厳格な御仁は、当然それを承知の上で苦言を呈していたのだ。


 受験を放棄した者からの気休めなどさぞ癇に障るだろう。浩雨からはまた棘のある言葉が返されるのだろう、と。辰蘭は肩を強張らせて待った。だが、浩雨は声を荒らげることなく、眉を寄せて声を低めた。


「それが、次の機会が得られぬかも、という事態になっているのだ」

「何……?」


 意味深かつ不穏な物言いに、辰蘭も思わず声を潜める。


「……不合格で心が折れた、ということはないのだろうな?」

「ああ。そのように思い上がれるほどの逸材ではないからな」


 林浩雨のもの言いには、やはり僻みのような険があった。


 合格そのものは当然、あとは状元になれるかどうか、と取り沙汰されていたお前とは違うのだ、と聞こえた気がして、辰蘭は口を閉ざした。旧友の態度に傷ついたのもあるが、それよりも不審が勝った。

 前途有望な若者は、「普通なら」科挙及第へ熱意を燃やすもの。親類縁者も一致団結して応援するものだ。国としても優秀な人材を求めるのは言うまでもない。


 にも関わらず、受験できない事情があるとしたら。辰蘭自身のような例外を除けば――


(不正による受験資格の剥奪、か? だが、浩雨の弟ともあろう者が……?)


 不躾な疑問を、辰蘭はあえて口にしなかった。だが、目の色で分かったのだろう。林浩雨は小さく頷いた。そして、忌々しげに吐き捨てる。


「試験後に、提出した答案の写しを書かせられるだろう。間違いなく本人が書いたものだと証明するために。だが、それらに大きな齟齬があった――すなわち、浩季自らが書いたのではなく、替え玉に受験させたのではないか、との疑義が呈されたのだ」

「それは――」


 絶句する辰蘭に、林浩雨は冷ややかに嗤った。理不尽な疑いに笑うしかない、とでもいうかのようだった。


「最初は、私が弟の代わりに受験したと疑われたぞ。幸い、人と会っていたので潔白を証明できたが。だが、答案の齟齬については説明できておらぬ」


 林浩雨の焦った様子も刺々しい態度も、ようやく腑に落ちた。科挙における不正は重罪で、一族にも累が及ぶもの。兄のほうも、前回の合格は本当に実力だったのかと痛くもない腹を探られることになるのだろう。


 林家が窮地にあること、それ自体は理解できるが――


(なぜ私を訪ねた? 桂磊がどう関わるというのだ?)


 辰蘭が内心で首を捻っていると、横からぎしぎしと軋むような声が上がった。


「ちょっと待て。答案の写しとはどういうことだ?」


 言いつけた通り黙っていたので忘れかけていたが、鏈瑣も話を聞いていたのだ。怪力乱神がどう絡むのか見えてこないので焦れたのだろうか。詰まらないもの、と言っていた癖に、ちゃっかりと干し柿を片手に確保している。


 熟れた果肉を頬張りながら、鏈瑣は言葉を紡ぐ。信じがたい行儀の悪さに林浩雨が顔を顰めるのもお構いなしだ。


「科挙の答案は、何やら厳重に取り扱われるのだとは知っているぞ。提出したのを取り返して見直すことなどできない……のだよな?」

「ああ――その通りだ。審査官ですら原本を手にすることはなく、専門の官による写本を見て吟味するのだ。筆跡で誰の答案だか分かってしまうかもしれないからな」


 科挙の手順になど一切の興味がないであろう化物の疑問は、状況の整理に役に立たないこともなかった。


 出自に問わず才ある人材を登用する制度である以上、また、合格者には多大なる名誉と成功が約束される以上、科挙における不正は重罪に問われる。また、そもそも不正が見過ごされぬよう、何重もの警戒と対策が敷かれている。

 たとえば、受験生は下着の中を探られ、持ち込んだ饅頭マントウを割られてまで身体検査されるし、貢院という試験会場に詰め込まれて、外部との一切の接触を禁じられる。答案の名前の部分は糊付けで封がされ、誰が書いたかによって採点が忖度されぬように配慮されている。


「ならば、その写しをどうやって書き出すのだ?」

「一言一句を覚えておくのだ」


 替え玉受験も警戒される不正のひとつ。その対策が、合否の発表前に受験生に答案の写しを作らせ、提出された内容と照合する、というものだ。


「は?」


 辰蘭と林浩雨にとっては、改めて説明するまでもない当たり前のことなのだが。説明を受けた鏈瑣は整った顔を引き攣らせ、悪声をますます軋らせた。居心地悪げな身動みじろぎが立てる鎖の音も、どこか不穏な響きが宿る。


「科挙の答案というものは……長いのではないか……?」

「たかだか数千字だぞ。韻や対句にも注意を払って練り上げるのだから、そうそう忘れられるものではない」


 辰蘭にとっては、彼自身の経験に照らしてもごく当たり前の感覚であり常識だった。だが、鏈瑣は納得していないようで、不服げにくちびるを尖らせる。


「内容がまったく違うのであれば、替え玉を疑われるのはまあ分かる。が、思い違いや書き間違いはあるだろう。一言一句、などとはあり得ない」

「科挙に臨む者はそうそう書き損じなどしない――してはならない。それでも、十字ていどの誤字は許容されるしな」

「十字!?」


 さらりと告げた辰蘭と、うんうんと頷く林浩雨を見比べて、鏈瑣は呻いた。


「……化物?」


 化物に言われたくない、という反論を、辰蘭は辛うじて呑み込んだ。客がいる前で言えることではないし、今はほかに話すべきことがあるのに気付いたのだ。


「己の答案を暗記することもできない者が、郷試に臨めるはずがない。――では、答案の入れ違いが起きたと考えられよう。そこのところの抗議はしたのか? ほかにも答案と写しが一致しない受験者がいたのではないか?」


 多少は前向きな問いかけのはずだった。だが、林浩雨は首を振った。


「当然、問い合わせた。が、答案が違っていたのは浩季だけだった。しかも、提出されたという答案は弟のものより遥かに出来が良かったのだ。礼部侍郎れいぶじろうがご興味を持って調べさせよ、と命じられるほどに、な……!」

「礼部侍郎? そこまでの話になっているのか?」


 礼部は六部のひとつで科挙を司る官署、侍郎はその次官だ。郷試での不正、それも疑惑の段階で、かような高官の耳に届くものなのだろうか。審査官の間で話題になるほどに、優れた答案だったということなのか。


(――まさか)


 目を見開き、顔を強張らせた辰蘭に、林浩雨は口元を苦く歪めて頷いた。何を思いついたか分かっているぞ、と言いたげに。


「そうだ。弟の答案は桂磊のものと入れ替わっていたのだ。奴が死の直前まで綴っていた、遺作とも呼ぶべき執念を込めたものと……!」

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