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子不語堂志怪録 星なき夜に影は踊る  作者: 悠井すみれ
第三章 閉ざされた貢院に渦巻く蟲毒
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1.旧友の来訪

 秋が深まるにつれて、風は日に日に冷たくなってきている。子不語しふご堂の庁堂にて、書写をする辰蘭しんらんの手もとや足もとに舞い落ちるのも、散った花弁から赤や黄色に色づいた落ち葉に取って代わった。


 冷え込む日も増えているが、幸か不幸か子不語堂は繁盛している。縊鬼いき騒ぎに加えて、りゅう家での一件が喧伝されたためだ。


 樹精を退治して魅入られた令嬢を救い出した、と――子不語堂の、ひいては辰蘭の評判が高まってしまったことで、人には言えない不可解な悩みを抱えて訪ねる者も増えた。彼ら彼女らの不安や躊躇いを少しでも和らげるためにも、今しばらくは扉は開け放しておいたほうが良いのだろう。


 筆を執る前に、辰蘭は指先を炭を熾した火鉢の上で温めた。書写のほうの仕事も溜まっているのだ。


 なお、鏈瑣れんさ長榻ながいすに寝転がってうたた寝をしている。人でない者に睡眠が必要なのかは分からないが、とにかく目を閉じているということだ。そうすると、整った容姿はいっそう彫刻めいて、中身の残念さを窺わせない。


(静かなのは良いことだな)


 近ごろ子不語堂に持ち込まれた依頼の中には、本物の怪力乱神が関わるものもいくつかあった。大食かつ悪食の化物の空腹もそれなりに満たされて、陽だまりの猫さながらにだらけているところらしい。


 人も化物も食うに困らず、充実した日々を過ごしている――かというと、そうとも言い切れない。


 後宮の梓媚しびに送った手紙の返事が、来ないのだ。


 子不語堂の扁額の下を、いつ後宮からの遣いが潜るのか、と。ちらちらと気配を窺いながら筆を揮うものだから、書写は今ひとつ捗らない。今もまた、余白に墨の染みを作ってしまったことに気付いて、辰蘭は溜息と共に反故を脇に除けた。


 科挙及第を目指していたころならば、このような些末な失態は決して犯さなかった。提出する答案には、誤字脱字はおろか、一点の汚れもあってはならないのだから。


(心が乱れているのか、緩んでいるのか――)


 いずれにしても情けないことだ。辰蘭はいったん筆を置いて深く呼吸した。そうしながら、後宮に送った書簡を思い返し、それを読んだ妹の心中に思いを馳せる。


(無礼な申し出ではある。困る、というか……怒るか、呆れたのかもしれないが)


 皓君こうくんの顛末については、無事に相応しい相手に嫁いだようで良かった、とだけ記した。梓媚ならば、それで質の悪い男や怪異ではなかったのだと察するだろう。


 問題は、その後だ。久しぶりに話がしたいから後宮に招いて欲しい、と突然言い出した兄のことを、彼女はいったいどのように受け取っただろう。


 むろん、たとえ親族でも男がそう簡単に後宮に入れないのは承知している。


(適当な機会にかこつけて皇帝に強請る機を窺っている、といったところか。それならそれでひと言返事をくれても良いだろうに)


 梓媚なら、分かっているなら黙って待て、と一喝しそうだ。そもそも、この三年に渡って辰蘭は妹とろくなやり取りをしていない。ひと月やそこら焦らされたとしても、意趣返しとしてはささやかなものなのだろうが。皓君が月に上る前に、後宮での妹の様子を聞いておけば、とも思うが、もう遅い。


 だからやはり、黙って待つしかないのだ。


 心はまったく落ち着いていなかったが、辰蘭は改めて書写の続きに取り掛かろうとした。だが、できなかった。鏈瑣がぼそり、ぎしりと呼び掛けたのだ。


「先生。客だぞ」


 何十年も閉ざされていた扉を強引に押し開けたような声に言われて顔を上げると、確かに照壁に人の形の影が落ちている。


 とはいえ鏈瑣は寝そべったままだから、客とやらは怪力乱神に憑かれてはいないのだろう。もしもそうなら、この化物はいそいそと起き上がって不慣れな手つきで茶を淹れようとするものだ。そして茶器を割る。片付けるのは、むろん辰蘭だ。


(ちょうど良い。気分転換になるかもしれぬ)


 鏈瑣が大人しいのを喜びながら、辰蘭は照壁越しに様子を窺っているらしい客に声をかけた。


「――構わぬから入られよ。子不語堂に何の用がおありだ?」


 荒れた門前を見て、入って良いものか躊躇っているのだろうと思ったのだが。応じた声は思いのほかに張りがあって堂々として、しかも聞き覚えのあるものだった。


「何が子不語堂だ。ふざけた額を掲げおって。よくも恥ずかしげもなく口に出せたな」


 辰蘭が目を瞠る間に、その人物は大股に中庭を横切って庁堂に入ってきた。


 質も仕立ても良い交領の長衣の裾が、室内に吹き込んだ落ち葉を軽く巻き上げる。そして、やや線の細い神経質そうな面が、写しかけの紙が広がる卓上を見て顰められる。


「『あの』殷辰蘭ともあろう者が、売文で糊口をしのぐとは。しかもこのような廃屋で。落ちぶれたものだな……!」


 罵倒めいた言葉は、けれど嘲りではなく心からの憤りによって発せられたもの。直截に思いの丈を吐き出せるのも、何だかんだで気が置けない仲だからだ。


 それが分かっているから、辰蘭は口元をほころばせた。そして、相手の名を呼ぶ。便服べんぷくを纏っていてなお、官めいた謹厳な風情を漂わせるこの青年は――


りん浩雨こううか。久しいな」


 三年前まで共に競い合い、学び合った相手だった。三十にもならない若さで科挙及第を本気で狙う者はごく珍しいから、互いに意識せずにはいられなかったものだ。


 かつては、国の未来について語らうことも多かったのだが、最近――というか、辰蘭が子不語堂を構えてからはそのような機会も絶えていた。


 夢や希望や大言壮語を肴に酒を酌み交わしたのは、もう何十年も前のことのようだ。青春を懐かしむ老人の思いを噛み締めながら、辰蘭は立ち上がり、旧友に歩み寄った。


「わざわざそのようなことを言うために来たのか? 暇なのか? 落魄の身を憐れみ慰めに来てくれたのか?」

「まったく嫌みな男だな。悠々自適の生活を自慢したいのか? 憐れまれるのはこちらのほうであろう。お前と桂磊が抜けたおかげで辛うじて及第した、などと……!」


 友人同士の軽口のようでいて、辰蘭をきっ、と睨む林浩雨の目には怒りや屈辱や卑屈さもたしかにちらついている。


(私はともかく、よくも桂磊にそのようなことが言えるな……?)


 何があったかは、林浩雨も知っているだろうに。思うところがないでもないが――立場が逆なら、彼自身も同じような目つきをしていたであろうことは、辰蘭にも分かっている。


「お前の及第は実力だ。誰が何と言おうと誇れば良いのだ」


 先ほど暇か、と尋ねたのは、実際にはそうでないのを知っていればこそ、だ。


 受験を放棄した辰蘭や、機会を永遠に失くした桂磊けいらいと違って、林浩雨は見事進士の栄誉を得た。龍淵の都にいるのも任地が決まるまでのこと、この男は若くして洋々たる官途が約束されている。


「本当に、そう思うか」


 辰蘭は素直に称えたつもりだったのに、林浩雨は疑り深げに目を細めた。


「ああ」

「桂磊は? 奴ならば何と言っただろうか」

「私と同じに決まっている」

「そうかな」

「そうだ。絶対に」


 しつこく食い下がられる苛立ちに、辰蘭はやや語気を強めた。


(お前も、桂磊のことは知っているだろうに……!)


 亡き友の人柄を貶めるのか、と。彼の態度が硬化したのを感じ取ったのだろう、林浩雨の顔が苦しげに歪んだ。過ぎた言葉を詫びてくれるのかと思ったのだが――


「……ならば、桂磊にもそう言ってくれ。奴はお前の言葉なら聞き入れるだろう」

「何を言っている?」


 訳の分からないことを言われて、辰蘭は眉を寄せた。桂磊と語れるものなら語りたい。けれど決して叶わないのは思い知っている。そもそも、林浩雨は突然の訪問の理由さえまだ告げていない。


 怒りや苛立ちを、不審が上回ったところで、林浩雨は拳を握って辰蘭に詰め寄った。


「桂磊は私を怨んでいるのだ。奴の死を踏み台にして及第したのだと。筋違いだと、お前から諭してくれ……!」


 辰蘭の視界の端で、鏈瑣がのっそりと起き上がったのが見えた。じゃらり、という鎖の音が化物の存在感を際立たせる。

 騒がしさに耐えかねたのか――それとも、怪異や鬼の気配を感じ取ったのだろうか。

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