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子不語堂志怪録 星なき夜に影は踊る  作者: 悠井すみれ
第二章 樹精に恋した娘、あるいは
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3.妹の真意は?

「わたくしが樹精に魅入られた――などとは、まったくの嘘偽りでございます。父が寧妃様に頼るよう、ひいては貴方様を我が家へお招きするために打った布石でしたの」


 令嬢は、皓君こうくんと名乗った。白く輝く月を思わせる、彼女に似合いの名ではあっただろう。とはいえ彼女の内面も同様に曇りなく美しいのかどうか、辰蘭しんらんは目を細めて見極めようとした。


「なぜ、このような真似を?」

寧妃ねいひ様からお聞き及びではないのですか?」


 彼らは、桂花の大樹の傍にしつらえられた石の腰掛けに座していた。


 令嬢が部屋を抜け出したのに、侍女なりが捜しに来る気配はない。

 それは、樹精がいるという桂花の木が恐れられているからか、それとも降り注ぐ金の小花と芳香が紗の役を果たしているのか。あるいは、澄ました顔で従者の演技を貫いている鏈瑣が、何らかの術を施しているのか――答えの分からぬことに思考を割くことなく、辰蘭は皓君の言動に注視することにした。


「詳しくは伺っておりません。ご本人から聞くのが良いと思われたのかもしれません」


 本当のところ、詳しく、どころか何ひとつ話を聞いていなかったのだが。

 襤褸ぼろを出さぬように慎重に言葉を選んだ辰蘭に、皓君は疑った様子もなく、無邪気にそうですか、と微笑んで頷いた。


「父が調えた縁談は、りゅう家にとっては申し分ないものとは承知しております。ですが、わたくしは嫌でした。わたくしには――すでに心に決めた御方がいるのです」


 深窓の令嬢が、さも重大な秘密であるかのように打ち明けたことは、それ自体はさほど驚くべきことではなかった。辰蘭としてはやはり、とさえ思ったくらいだ。


(問題は、その相手の男は何者なのか。そして、梓媚はどう介入しようとしているか、だが――)


 辰蘭の期待に反して、皓君はそこに踏み込むつもりはないようだった。誰とも知れない恋人を想っているのだろうか。初々しく愛らしく頬を染めて、桂花の花よりなお甘い溜息を零しつつ、娘はうっとりとした口調で続けた。


「お話があったのは、わたくしが後宮にお仕えしている時分でございました。憂い顔のわたくしを、寧妃様はとても気にかけてくださって――」

梓媚しびは――寧妃様は、貴女様をたしなめなかったのですか。私は、お父上のお悩みを解くように、と仰せつかってきたのですが」


 辰蘭はどうもおかしい、と思い始めていた。皓君の態度からして、梓媚はこの娘に縁談を強いたいわけではないらしい。だが、いっぽうで劉大人もまた梓媚経由で辰蘭に頼ってきた。娘を樹精から引き剥がすように、と。


(どちらにも良い顔をしようとしている? だが、どこかで破綻するだろうに……!)


 そもそも、彼の知る妹らしくない行動だった。命じられるまま婚約者を捨て、望まれるまま後宮に入れられた梓媚なら、皓君にも同じことを言い聞かせても良いだろうに。劉家を自身の手駒にするため、父親の機嫌を取ることに専念しても良いだろうに。


あいつは、何を考えている……!?)


 眉を寄せた辰蘭に、皓君はどこか得意げに微笑んだ。


「いいえ! 父が申し上げたことは、計画の一部、上辺として必要なことに過ぎません」


 彼女が、彼の評判をどこまで知っているかは分からない。だが、年上の男に何かしらを教える、ということは気分が良いものなのだろう。しかも、その内容によって相手を驚かせることができると分かっているのなら。


「寧妃様は素晴らしい御方です。父の望みを叶えつつ――もちろん劉家の面目を保ちつつ、わたくしの想いを叶える策を授けてくださいましたの……!」


      * * *


 劉大人は、辰蘭と鏈瑣を龍淵の城内に送るために馬車を出してくれた。桂花の樹精はなかなか手強い相手ゆえ、いったん戻って策を練る――と、辰蘭が背を冷や汗で濡らしながら並べた嘘八百を、信じ込んでくれたからこそだ。


 土埃とも疲労とも無縁の、快適な道のりではあった。だが、子不語しふご堂に帰り着いても、辰蘭は寛ぐ気になれなかった。近いうちに劉家を再訪しなければならないと思うと、肉体よりも心が重いのだ。

 人とは違う身体をしているであろう鏈瑣れんさも、直立していられないようで、長榻にしどけなく寝そべっている。身動みじろぎするたびにじゃらり、と聞こえる鎖の音さえ、どこか怠惰な響きがあった。


 頭を取り外して膝に載せているのは、そのほうが肩が凝らないからなのかどうか。疲れによって、重く鈍い痛みを訴える額を押さえる辰蘭には少々羨ましい。


 喉も肺もない、頭だけの姿の癖に。鏈瑣の整った唇が、錆びを擦り落とすようなざらざらとした声を紡ぐ。


「で――どうするのだ、先生」

「どうするも何も――やるしかないだろう。そういうお前はできるのか?」


 鏈瑣よりはいくらか礼節を保って卓に頬杖を突きながら、辰蘭は反問した。

 彼は鏈瑣のように人間離れした美貌など持ち合わせていないが、彼らはふたりして疲れ切ってうんざりとした顔を突き合わせていることだろう。鏈瑣が応える声には、不毛の地に吹く風を思わせる荒涼とした風情があった。


「できるはできるが、やりたくはない。空腹でただ働きなど怖気おぞけが走る。が、あの女の命令となれば従わねばならぬ」

「そういうものなのか」


 鏈瑣が吐き捨てるような口調で言及したあの女、とは辰蘭の妹の梓媚のことだ。彼は妹から仮にこの化物をゆだねられているだけで、鏈瑣の主――というか何というか――として鎖を握っているのは、やはり梓媚であるらしい。


「そういうものなのだ」


 何か忌まわしい記憶を振り払おうとでもいうのだろうか。自身の首を、鞠のように膝の上で転がす鏈瑣は、どこをどう見ても化物だったが――


(どうもこの者は憎めないな)


 要は、駄々を捏ねる子供のようなものだ。嫌だやりたくない、美味いものが喰いたいとぶつぶつ唸る鏈瑣の様子は、どこか可愛らしい、とさえ思ってしまう。


 化物相手に油断してしまうのは、仲間意識のようなものが芽生えているから、だろうか。わけが分からぬままに面倒ごとに巻き込まれた者同士で、相哀れむかのような。


 辰蘭も鏈瑣も、結局のところ梓媚の掌中で操られていた。今日の遠出の収穫は、結局のところその事実が判明しただけのようなものだったのだ。


「とにかく――俺は黙っているだけで良い。あの娘も、まあ上手くやるのだろう。先生が一番の難役ではないのか? 本当に大丈夫か?」


 鏈瑣――の、頭は、芋虫のように自らの首に這い上がっていた。まともな貴公子然とした姿に戻ったところで、美貌の化物は優美に眉を寄せて辰蘭を覗き込む。鏈瑣のあらゆる所作に、じゃらり、という鎖の音がついて回った。


「ああ……」


 辰蘭の唇から漏れたのは頷きではなく、意味のない喘ぎのようなものだった。実のない答えに鏈瑣の眉がいっそう寄ったから、よほど上の空に見えるのだろうか。


(難役、か。そういうことに、なるのか……)


 改めて言われれば、化物にさえ心配されるのも道理、辰蘭が果たすべき責任は重い。そして、恥ずかしい。引き受けておいてなお、今しばらくは考えたくないと思ってしまうほどに。


 それに、辰蘭の心をまた別の懸念が占めている。彼が思っていた妹の人柄というか性質は、果たして真実なのか否か――今さらになって分からなくなってきたのだ。


「梓媚は――お前の能力をよく知っているのだな。お前たちの関わりも知らなかったし、まして『あれ』が、人助けをするなどとは。思ってもみなかった……」


 意に染まない縁談から皓君を助けたい、ということなら喜んで力を貸そう。役どころについては目を瞑っても良い。


 だが――梓媚のやることなら絶対に裏があるはずだ、とも思ってしまう。何か良からぬこと、関わりたくもない権力争いに加担させられようとしているなら、何とか違う方法を探りたい。


 皓君が梓媚の善意を疑っていないようだったのは、欺かれているだけなのか。それとも傍近くに仕えた者のほうが、今の妹の心を知っているのか。


(化物に人間の心証を尋ねるのもおかしなことだが――)


 覚悟を決めかねて、よりによって鏈瑣の表情を窺うとは。自分自身に驚き呆れて、辰蘭の口元に苦い笑みが浮かんだ。いっぽうの鏈瑣も、嫌そうに顔を顰めて応じる。


「最初に叩き起こされた時に、何ができるかはこと細かに教えたからな」

「ほう」


 梓媚と鏈瑣は、何か主従のような結びつきがあるらしい。人間の小娘に使役されるのは、化物にとっては不本意なことなのだろうか。そう、辰蘭は納得しかけたのだが――


「敵を陥れるのにも便利だと売り込んだのだ。が、自分でできるから要らぬ、とねつけられた。妃嬪や宮女を腹いっぱい喰えると思ったのに……!」

「なるほど……」


 いかにも鏈瑣らしい発想で、いかにも梓媚らしい答えだった。あまりに清々しく冷酷だから、いっそ安心するほどだ。辰蘭が苦笑しかけた時――鏈瑣は、音もなく前触れもなく、姿を変えた。


「たとえばほら、こんなこともできるのだぞ!?」


 鎖を四肢に絡ませた美貌の貴公子は、もうそこにはいなかった。

 先ほどまで鏈瑣が寝そべっていた長榻にいるのは、いかにも怜悧な印象の青年だった。やや太い眉は意志の強さを窺わせ、若々しく瑞々しい頬と裏腹に、切れ長の目にはすでに深い叡智が湛えられている。


 辰蘭は、呆然としてその若者の名を呼んだ。


「……桂磊けいらい


 それは、梓媚の婚約者の名だった。同時に、辰蘭の婚約者であった芳霞ほうかの兄の名でもあって――つまり、彼ら四人は、兄妹同士で将来を誓うほどに近しく結ばれていたのだ。


 とはいえ、それもすべて過去の話だ。桂磊も芳霞も、もうこの世にいないのだから。

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