1.秀才と化け物
極国は龍淵の都の陋巷に、古びた屋敷が佇んでいる。
広い敷地が擁する建物もその奥に広がるであろう庭園も、高い塀によって下町の住人の好奇の目から隠されている。門を彩る磚の細やかな彫刻と合わせれば、かつては貴人か富商が妾を囲う別邸だったのだろうか、という風情だろう。
かつては、というのは、今は佳人を奥深くに隠しているようにはとても見えないからだ。
塀のそこここには罅が入り、灰色の瓦もところどころ落ちて欠けている。何より、それなりの地位や立場や裕福さを持つ者が住まうにしてはあるまじきことに、門は大きく開け放たれている。入ってすぐのところに照壁が設けられ、奥を覗くことはできないようになってはいるが、その照壁に施された装飾もまた苔むしている。
出入りする人の気配もなく、青石の石畳の間からは無遠慮に草が伸びて――その屋敷が廃屋ではないと示すのは、門上に掲げられた扁額だけだろう。
半ば朽ちかけた屋敷には不釣り合いなほどの達筆で、墨痕も鮮やかに号して曰く――子不語堂。
その四文字だけが、屋敷は無人ではなく、しかも何かしらの生業を営んでいるのだと道行く者に教えていた。
* * *
「――とはいえ号しただけでは何の店かは知れぬであろう。もっと愛想良く、呼び込みでもしたらどうだ? 庶民は無知無学なものだろう? 子不語、などと言われても分からぬのでは?」
錆びた金属を思わせる掠れた声が嗤うのを聞いて、殷辰蘭は書写する手を止めた。
目を上げれば、扉を開け放した庁堂の前に広がるのはささやかな中庭。屋敷の内外を隔てる照壁のこちら側には、池も造られている。かつて水面を彩った蓮はとうに枯れているが、湛えられた水はいまだ澄んで、暑気を和らげてくれる。
夏の日は長く、暗くなるまでにはまだ間がありそうだった。今少し書写を続けるべく筆を取りながら、辰蘭は短く答えた。
「食うには困っておらぬ。物見高い客が押し寄せるようでは、迷惑だ」
この作業も、仕事のひとつではあるのだ。
若くして進士及第間違いなしと謳われたこともある彼の手跡に、価値を見出す者は結構多い。学生向けには論文や教本、好事家向けには詩文など。何かしら写して書けば、生活が成り立つていどの稼ぎにはなる。
嫡子が売文で身を立てるなど、殷家の一族はさぞ頭を抱えているだろうし、辰蘭自身としても書写を本業にするつもりはないのだが。それはそれ、というやつだ。
何文字かを綴ったところで、辰蘭はふと顔を顰めた。錆びた声の主に言うべきことがまだあったのを、思い出したのだ。
「――人目がないからとだらしのないことだ。もう夕刻だろう。さっさと髪を結え」
「この姿を見て言うのがそれか……?」
辰蘭の小言に、油を差していない蝶番を無理にこじ開ける音を思わせる笑い声が応じた。神経に障る悪声なのに、なぜか耳を傾けてしまう――妖しい声の主の名を、鏈瑣という。
笑い声につれて、乱れた髪が黒々と艶々と流れ落ちる。
極上の絹糸を思わせる射干玉の黒髪との対比で、白い肌はいっそう白く、いっそ透けて見える。細い月のような眉に、心地良さげに閉じた目蓋も鼻梁も、名匠による画さながらに完璧な美を描いている。笑んだ唇は朱も刷いていないだろうに紅く妖しく色づいて――錆びた声とは裏腹に、鏈瑣はたいそう美しい男だった。
もっとも、鏈瑣は辰蘭に美を愛でる心がない、と詰ったのではない。
何しろ、芸術品のような鏈瑣の頭は、彼自身の膝の上だ。自身の頭を大事に抱えて、鏈瑣はこれもまた美姫もかくやの繊手で髪を梳いている。目線を上げれば、白い首はすっぱりと断ち斬られて黒々とした断面を覗かせている。
人間ならばあるべき骨や神経が見えぬばかりか、血の一滴も滴ることがない。そもそも、首だけの姿で鏈瑣は平然と笑い喋っているし、身体のほうもきちんと直立している。
どこからどう見ても人でもなければ尋常の存在でもない。並みの者なら悲鳴を上げて逃げ出すか、失神してもおかしくなかった。
「子不語堂などと掲げておいて、そのていどで動じてはいられない」
そのような繊細さは、あいにく辰蘭には無縁のものだったが。
子不語怪力乱神――君子たるものは不可思議なもの、理の外のものを口にしないものだ、という。分を弁え賢明で、節度ある教えではあるのだろう。
だが、辰蘭は君子を目指そうとはもう考えていない。
優秀な成績で科挙に合格し、名家の妻を娶る。皇帝に仕えて階位を進め、栄達して家を富ませる――そのような輝かしい道が真っ当で満ち足りたものだとは思えなくなったのだ。
だから彼は、朽ちかけていた殷家の別邸に棲みついて、例の扁額を掲げたのだ。君子があえて語らぬはずの怪しい暗がりに目を向けて、形なきものどもを相手にする――そんな商売を始めてやろう、と。
「ごもっとも」
不可思議の権化たる鏈瑣は、頭だけで器用に頷きながら髷を結っていく。手を普通の頭の高さに掲げるよりも、膝の上でのほうがやりやすいのは道理といえば道理だろうか。
鏈瑣が手を動かすたびに、しゃらしゃらという音がするのは、彼の全身に絡んだ鎖が奏でるものだ。鏈、瑣――いずれも鎖を意味する文字で構成された名は、この縛めに由来するのだろう。
(つまり、『鏈瑣』は本来の名ではない? 鎖で封じられるまでに、何があったのか――)
この鎖の音を聞くと、辰蘭はよく妹の声を思い出す。三年前――まだ彼が実家にいたころ、彼女は鏈瑣の鎖をぐいと引っ張り、この化物を押し付けてきたのだ。
『お兄様がいじけて何を始められようと、わたくしの知ったことではございませんが。殷家の嫡子が陋巷で飢え死にした、などということがあっては外聞が悪うございます』
梓媚の――妹の、呆れたようなうんざりしたような表情は、兄の暴挙が理解できない、と雄弁に語っていた。成功が約束されたも同然の人生をなぜ投げ捨てるのか、と。
(お前には理解できぬだろうさ)
親に命じられるまま、二十も歳の離れた男の何十番目かの妻として摘まれていった妹には。思うところは多々あれど、わざわざ口にしないのは、兄妹の情というものだった。
辰蘭が代わりに妹に尋ねたのは、もっと実際的なことだった。
『このようなモノをどこで見つけた。私にどうしろというのだ』
『蔵に眠っていたのを起こしましたの。わたくしには使い道はございませんが、お兄様がなさろうとしている商売だか何だかには役に立ちそうですから』
梓媚を見初めた男は、それはもう富貴かつ由緒ある家の者だから、鏈瑣のごとき怪しの存在のひとつやふたつ――というか百や二百、秘蔵していてもおかしくはない。その点については、辰蘭は疑わなかった。疑問があるとしたら、妹が兄への気遣いを見せたことについてだったが――
『わたくし、新参者ですからお姉様方を楽しませなければなりませんの。舐められてはいけない、とも申しますかしら。前途有望な兄、の話ができなくなった以上は、代わりの話題を提供してくださいますわね?』
女の世界は怖いということ、そして梓媚は怖気づくのではなく闘志満々であることを察して、納得した。
世の中には、怪異を志した志怪小説なるものもあるとか、人から聞く分には鬼だの祟りだのの話は面白いのだろう。
『お義姉様は、もういらっしゃいませんのに。今の有り様をご覧になったら、何と仰ることか……』
妹が去り際に漏らした説教じみた小言は、聞こえなかったことにして。そうして、辰蘭は化物とふたりで暮らしている。建物の寂れように使用人は居つかないので、辰蘭はこの間に多少の家事を覚え、鏈瑣はのびのびと人外の本性をさらけ出している。
「『先生』は米と肉で生きて行けるのだろうが、俺は人を喰いたい。喰わせてくれぬのは分かっているから、せめて鬼か精怪でも良い。腹が減った」
辰蘭が物思いに耽る間に、鏈瑣は髪を結い終えていた。髷に梔子を挿す優雅な手つきとは裏腹に、口にすることは血腥いことこの上ない。
飢えた犬を躾ける気分で、辰蘭は小さく溜息を吐いた。
「人と違って、しばらく喰わずとも死なぬのだろう。そう都合良く客がくるものでは――」
「あ、おやつだ」
小言は、けれど舌なめずりしていそうな嬉しげな呟きによって遮られた。
(何を……?)
彼が眉を顰めるのと、照壁の向こうから人影が覗くのは、ほぼ同時だった。
「あのう」
おずおずとした声が呼び掛けてくる。弱々しく揺れて震え、いかにも不安げな女の声だ。
「こちらでは……その、不可思議なことを扱っていただけると伺ったのですが」
「違いない」
女の声のか細さとは裏腹に、錆びた蝶番の耳障りな声は弾んでいた。しゃらん、と鳴る鎖の音さえ歌うように楽しげで。
辰蘭の鼻先を、梔子の甘い香りがくすぐっていく。いつの間にか、鏈瑣は頭をあるべき位置に戻していた。見目麗しい貴公子にしか見えない化物は、主であるはずの辰蘭を差し置いて艶然と微笑んだ。照壁の裏で躊躇っているらしい女に向けて、花の蕾が綻ぶように。
囁く唇も、甘く香る花弁のようだった。
「あやしのことなら、子不語堂にお任せあれ」
今日は書写どころではなくなるのを悟って、辰蘭は筆を置いた。




