38 闘いの刻
控え室の空気はひどく静かで、外の喧騒が遠い幻のように思えた。
アレクシスは椅子に浅く腰掛け、胸当ての革を軽く指先で叩きながら、一定の呼吸で己を鎮めていた。
木剣を握る掌は温かく、わずかに汗ばんでいる。緊張と高揚がせめぎ合っていた。
控えめなノックの音。
振り返った先にいたのは、結い上げた金の髪と灰青の瞳を持つ女性――クラリッサだった。
深い群青のドレスが静かな光を受けて波打ち、裾は足元でゆるやかに弧を描く。
腰のラインに沿って滑らかに落ちる布地は、彼女の成熟した輪郭を際立たせていた。
胸元には明るい琥珀の飾り石がいくつも散らされ、灯を含んだようにかすかに輝く。
立ち上がったアレクシスは一瞬、息を呑んだ。
少年の頃から憧れ続けた女性が、まるで夜明けの女神のようにそこにいた。
「殿下……」
クラリッサが歩み寄り、そっと手を差し出す。
その仕草に導かれるように、アレクシスは両手で彼女の指を包み込んだ。
シルクの手袋越しでも確かな温もりが伝わる。琥珀の瞳がやわらかく揺れた。
「手が……震えているわ」
覗き込む灰青の瞳に、アレクシスは微かに笑みを浮かべた。
「これは、武者震いだよ」
彼女の指先に唇を寄せる。白い布越しの感触が胸の奥を熱くする。
「クラリッサ……」
「はい」
「勝ったら、今度こそ“アレク”って呼んでくれる?」
「そんなの、勝たなくても呼んで差し上げますわ」
「そう言って、ずっと呼んでくれないじゃないか」
「そうでしたか?」
「そうだよ」
「……アレク」
たった一言が、すべてを揺らした。
胸の鼓動が早鐘のように響き、思わず問いかける。
「……抱きしめてもいい?」
「えぇ」
彼女を腕の中に閉じ込めた瞬間、香り立つ髪の匂いが胸いっぱいに広がった。
鎧の金具がかすかに触れ、きらりと光を弾く。
「勝ったら……何かご褒美が欲しい」
「貴方が望めば、なんでも差し上げますわ」
驚いて彼女の肩をつかみ、距離を取る。
「な! “なんでも”はダメだよ!」
しかしクラリッサは静かに首を振った。
「アレクになら、なんでも差し上げます。……わたくしは、貴方をお慕いしております」
その灰青の瞳がまっすぐに射抜く。
光を宿した琥珀が、揺らぎ、溶ける。
「……ず、ずるいよ……」
「そうですか?」
くすくすと笑う声に、アレクシスは降参するように息を吐き、再び彼女を抱きしめた。
その時――
「アレクシス殿下。お時間です」
扉の向こうから声が響いた。
二人は向かい合い、指を強く絡め合う。
「行ってくる」
「はい。どうか、ご無事に戻ってらして」
手を放し、瞼を閉じる。
そして再び瞳を開いた時――そこにあったのは柔らかな光を宿した少年の眼差しではない。
戦場を見据える、深く沈んだ琥珀の瞳だった。
クラリッサはその変化を受け止め、凛とした微笑みで応えた。
「ご武運を」
「あぁ」
――静寂を裂くように、決闘の刻が始まろうとしていた。




