10 廊下に差す影
王立大学校の構内には、学生たちのざわめきが石造りの回廊にこだまし、春とは違う熱気を帯びていた。
高い窓から差し込む陽光は強く、白壁に反射して眩しい。外に出れば石畳は昼の熱を孕み、木陰を探す学生の姿も多い。衣装もすっかり軽やかになり、鮮やかな夏服が並んでいた。
そんな喧騒の中、クラリッサは静かに廊下を歩いていたが、ふと隣に男の気配を感じて足を止める。
「何かご用ですか?」
「いやぁ、釣れないな。クラリッサ嬢は」
艶やかな黒髪を撫でつけたコンラート・ホーエンベルクが、いつものように柔らかく笑ってみせた。均整の取れた体躯、どこか芝居がかった仕草。女学生たちの視線が、ちらちらとその背を追う。
「ついてこないでいただけませんか?」
「ねぇ、クラリッサ嬢、これからカフェでもどうです? 貴女と法学談義をしてみたくてね。幼い王弟殿下では相手にならないでしょう。僕が相手になりますよ」
「結構ですわ」
すれ違おうとした瞬間、コンラートが不意に肩へ手を回した。
クラリッサはギョッとして、その手を叩き落とす。
「不敬ですわよ!」
それでも彼は笑みを崩さず、むしろ力を込めようとした――その時。
「やぁ、クラリッサ嬢」
背後から響いた柔らかな声に、二人とも振り返る。
そこに立っていたのはカエリウスだった。
柔らかな金髪を日光に透かしながら、微笑んでいる。
クラリッサは一瞬きょとんとし、コンラートは気まずげに手を離した。
「まぁ、殿下。カエリウス殿下にご挨拶申し上げます」
クラリッサは慌ててカーテシーを取った。
「あぁ、いいんだ。学内ではもっと楽にしてくれて構わない」
カエリウスは目だけでコンラートを制した。声も態度も荒げない。ただ静かな威圧で場を支配する。
コンラートはその空気を読み取ると、苦笑いを浮かべて肩をすくめた。
「じゃあ、またね。クラリッサ嬢」
軽く言い残し、背を向けて去っていく。その後ろ姿を見送りながら、クラリッサは掴まれた肩をギュッと押さえた。
「貴女は護衛の一人もつけていないのか?」
カエリウスの問いに、クラリッサは視線を落とす。公爵令嬢として軽率だったのは自覚していた。
「……学内では、他の者と同じように学びたくて。わたくしの我儘ですわ」
カエリウスは少しだけ眉を寄せ、声を低くする。
「貴女は王弟の婚約者という特別な女性だ。侍女一人でもいいからつけなさい」
「……はい。申し訳ありません」
「怒っているわけではない。貴女を心配しているんだ」
俯いたままの彼女に、カエリウスは触れるか触れないかの距離でクラリッサの背に手を添え、歩くように促した。
二人は並んで歩き出す。すれ違う学生たちが振り返る中、カエリウスは穏やかな口調で続けた。
「ところで、ぜひ君の意見を聞かせてもらえないか。君はなかなかの才女だと聞いたよ」
クラリッサは少しだけ驚き、顔を上げる。
「殿下の専攻は宗教学でしたか。なぜ宗教学を?」
「我がセレスタの教会は開かれすぎていてね。あまり機能しているとは言えないんだ。兄上の治世を支えるためにも、もう少し信仰の形を整える必要があると思ってね」
言葉を選ぶようにして、彼は微笑んだ。
「宗教は、法や政治と切り離せない。信仰が人を動かし、人が国を動かす。君の研究とも交わるだろう? だから君と話したい」
クラリッサの灰青の瞳が、ふっと潤み、静かな光を宿す。
その様子を見て、カエリウスは柔らかく微笑んだ。
「貴女はその素直さを、アレクシス殿下にも見せてあげなさい」
「え!? なぜ今そのお話になるのです!?」
慌てるクラリッサの横で、カエリウスは小さく笑った。




