天の海、月の舟〈二〉
落ち着いたピアノの音が控えめな音量で鳴る中、和風モダンな設えの店内には、心落ち着く茶葉の香りが馥郁と漂っていた。
壁に掛けられた竹製の一輪挿しには、深紫色の桔梗が星形の花弁を開きかけていた。
(教室の近くにこんな素敵なお店があったなんて…)
―もし良かったら、この後近くの茶寮でお話ししませんか。僕のお勧めの甘味があるんです―
もちろん先週のお礼も兼ねて、僕の奢りです、などと畳み掛けられ、思考がうまく働かないままに紗月はいつの間にか店内に誘われていたのであった。
(うわ、美味しい…!これはなかなかの逸品では…!…けど、これって、どういう状況?)
暁人のお勧めだという抹茶パフェをつつきながら、紗月の対面でにこやかにこちらを見つめる和装の紳士に目をやる。
「どうです?美味しいでしょ。」
自身は抹茶あんみつを頬張りながら、自信ありげに紗月の評価を尋ねる。
「はい!とっても。こちらは先生の行きつけのお店なんですか?」
「そうなんです。教室の帰りにこの辺りを歩いていて、お茶の良い香りに誘われて入ってみたらこれが大当たりで。それ以来、煮詰まった時とかによく来るようになったんです。」
ここ、かき氷もお勧めなんですよ、などと嬉しそうに説明しながら、会話の合間にあんみつを嚥み下す暁人の喉仏の動きに、紗月は束の間目を奪われた。
(なんだかよく分からないけど、不思議と落ち着く…かも…)
空間を占める茶葉の香りの効果なのか、それとも目の前に座る御仁の人畜無害そうな雰囲気がそうさせるのか、最初こそ緊張していた紗月だったが、この場を少し楽しむ余裕が出てきていた――ところだったの、だが…
「あ、ついてますよ。」
徐に手を伸ばしてきたかと思うと、暁人の綺麗な人差し指が、紗月の口の端を捉えた。甘いな、などと言いながら指の背についたクリームを舐めとる暁人を、しばし呆然と眺め、我に返った紗月は耳まで真っ赤に染まった。
「〜〜〜!!…それ、素でやる人初めて見ました。」
突然の接触で一気に心拍数が上昇した紗月は、手元のおしぼりで口元を拭いながら、恨めしそうに暁人を睨め付けた。
(……前言撤回!!ほんとにこれってどういう状況!?)
自身の右手に置いてある冷たい煎茶を一口含んで、顔の熱を誤魔化す。
「ごめんごめん、軽率でした。……ほんと、何やってんだ、僕…」
自分でも思いがけない行動に驚いた様子で、暁人は両手を挙げて弁解していたが、こほん、とひとつ咳払いをして、居住まいを正しながら強引に話を変えた。
「先週は、興味深いお話をありがとうございました。普段はあまり読み物の話で誰かと盛り上がることはないのですが、神谷さんと話しているととても楽しくて。…考え方が似ているのかもしれないな、と。頭の中が、読めるのかって言われたじゃないですか。それ、僕も貴女に対してちょっと思っちゃったんですよね。」
そう言われて紗月は、先週自分が選んだ和歌に纏わる暁人とのやり取りを思い出し、心が温かくなるのを感じた。
「先生も、あの歌が一番お好きだと仰ってましたよね。…私あの時、すごく嬉しくて。今日の七夕の歌も、二つとも感動して、すぐに大好きになりました。…確かに、好みが似通ってるのかも…」
「それは、講師冥利に尽きますね。それに、貴女に同意してもらえると、僕も嬉しい。」
これまでは師と弟子として、どこか遠くの存在と感じていた暁人との、特別な繋がりができた気がして、紗月はじわじわと彼に惹かれる気持ちに気づき始めていた。
「神谷さんも空や天体に興味がおありですか?僕も昔から空の色の移り変わりや雲の様子、月の満ち欠けや宇宙の星々に思いを馳せることが好きで…」
「分かります。私、実家が結構田舎なんですけど、自然をすごく身近に感じられて。ふとした瞬間に、目を奪われることがあって…。本当は、絵を描いたり写真に収めたりできたら良かったんですけど、生憎どっちもできなくて。でも忘れたくないから、必死で目に焼き付けようとしました。」
忙しさの中で、いつの間にか手放していたあの頃の強い思いと共に、懐かしい情景が眼裏に浮かぶ。
(今度、実家に帰ろうかな…)
紗月は郷愁に駆られながら、さらに数往復、暁人と言葉を交える。打てば響くような会話に、紗月の心が弾んだ。気づけばパフェのグラスも底が見えてきている。もう少しこの時間を楽しみたい、そんな気持ちで自然とスプーンの運びが遅くなった。
「七夕と言えば、神谷さんはもし何か願い事をするなら、どんなことを願いますか?」
ふと卓上にある可愛らしい和紙でできた笹飾りに目をやり、急に思いついたといった感じで、興味深そうに彼は訊いてきた。手元のガラス鉢はもうほとんど空になっている。
「願い事、ですか…。」
ちょっと仕掛ける暁人笑。
月の舟で天の川を渡ろうとしています。
ここでは茶寮は茶舗併設の喫茶室という意味合いで使用しています。