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天の海、月の舟〈一〉

 待望の最新話供給があったその週の、金曜の夜にも一話更新があり、作者の安否確認もできて一安心した紗月は、明けて土曜日、ご機嫌なリズムで墨を磨っていた。先月からの長雨も小康状態で、教室の窓枠に切り取られた、夏の色を濃くした蒼穹に、雲の峰が連なっている様はいかにもSNS映えしそうな情景だった。


(今年の七夕は、晴れるかな…)


愛逢月(めであいづき)…年に一度の逢瀬がかなう愛する二人にちなんで、今月にそんな素敵な異名があると知ったのは、割と最近のことだった。

 七夕の伝説を知ったばかりの幼い頃は、なんとか二人が会えますようにと、毎年てるてる坊主を作っては、空に祈りを捧げていた。長じてからも、雨の降ることの多いこの時期は毎年、七日だけでも晴れないかな、と密かに願っている。

 学生の頃、綾香と旅行に出かけた先で、初めて肉眼で天の川を目にした時は、宇宙の壮大さと、この切ない恋物語に想いを馳せて、思わず涙を溢した記憶がある。

 あと数日に迫った星合いの日に想いを巡らせているうちに、硯に溶けた墨の色も濃くなってきたところで、今日の課題を提示する暁人の声が耳に届いた。


「本日の題材は、七夕を詠んだ歌の中から選んでみました。こちらは七夕の日に降る雨のことを歌にしたもので、個人的に視点が面白いなと思ったのと、もしかしたら皆さんもこう考えると少し気持ちが救われるかもしれない、と感じたので、ぜひ共有したいな、と。」


―万葉集の第十巻からです―


 そう言いながら、暁人は用意してきたお手本と解説を配る。手元に届いたその和歌を読んで、紗月は彼の言わんとすることを察し、思わずクスリと笑った。


―この夕べに降る雨は、彦星が急いで漕いでいる舟の(かい)のしずくなのかも―


 そんな意味を持つこの歌の、名前も分からない詠み人が示したどこか温かで愛嬌のある解釈に、紗月は確かに、雨の日は二人は逢えないのだと残念に思っていたこれまでの自分が救済された気がした。



「うん、なかなか良く書けてますね。さすが神谷さんだ。」


―もう少し、ここをこうするともっと良いかも―


 そう言いながら、朱墨(しゅずみ)で軽やかに添削する暁人の手元を、紗月は技を盗むつもりでじっと見つめていた。


(…綺麗な指だな…)


 男性らしくやや角張ったところはあるものの、比較的細く長く色の白い指が、自在に小筆を操る様は、本日の彼の装いとも相まって、妙な色気を醸し出していた。生成りの夏大島に紺地の絽の半衿を合わせ、同じく濃紺の紋紗の羽織が涼しげにコントラストを効かせている。ふと、先週の思いがけない接近で薫った白檀の香りを思い出し、顔に一気に熱が集まるのを感じた。


「そうだ、神谷さんにはこれも渡そうと思っていたんでした。」


 添削し終えた紙を紗月に渡しつつ、暁人は見える所に置いてあった一枚の半紙を手に取った。


「あの和歌がお好きなら、こちらも気に入っていただけそうかな、と。」


 言いながら手渡された半紙には、美麗な文字で散らし書きされた一首があった。変体仮名が多用されているが、これまでの経験からなんとなく読むことはできる。


「あめの、うみに…くもの…なみ、た…」


「天の海に、雲の波立ち月の舟、星の林に漕ぎ隠る見ゆ、です。万葉集の第七巻の巻頭歌なんですが、すごく幻想的で、この歌も僕大好きなんですよ。実はこれも七夕の歌だろうと言われているんです。なんでも、月の舟が彦星、星の林が織姫に見立てられているとか。」


「……すごい。あの、すごく、好きです、これ…」


 紹介された和歌の美しさと、好みを的確に突いてきた暁人の慧眼に感服し、語彙を失くした紗月は、興奮のままに潤んだ瞳で暁人を見つめた。


「…だと思った。」


 自身の見立てが外れていなかったことに気を良くした暁人は、嬉しそうに歯を見せて笑った。


(…うわぁ、かわいい。って、…え?)


 人たらしの満面の笑みを近距離で浴びせられ、思わず(こぼ)れ出た素直な感想に自分でも驚きながらしばし固まる紗月に、追い討ちをかけるように暁人は続けた。


「そう言えば、先週は読書談義をありがとうございました。実はもう少し神谷さんと話したいことがあるので、もし良かったらこの後―――」


 続く暁人の言葉に、ようやく動き始めていた紗月の思考はさらに強制停止(フリーズ)させられたのだった。


この夕 降りくる雨は 彦星の 早漕ぐ舟の 櫂の散りかも

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