紫陽花のよひらのやえに見えつるは〈一〉
「すみません、神谷さん。少しお話ししても?」
「―、ひゃい」
あれから自分の思い入れのある曲をかけてもらったことで、納得のいく出来栄えに仕上がったことに気を良くし、鼻歌を歌いながら筆を洗っていた紗月は、本日二度目の暁人からの不意打ちに、少々変な声を出してしまった。
「先程の小説の件なんですが…、神谷さんはどこまで読んでらっしゃるんですか?」
「えー、と、webの最新話まで、読んでます。でも、最近更新が止まっちゃってて。東雲先生に何かあったのでなければ良いんですけど…」
東雲玉兎。これが紗月の目下ハマっている小説の作者名だ。現在連載中の作品以前に、こちらの名義で執筆したものは無いらしく、検索しても出てこなかった。年齢も性別も不詳だが、書籍のイラストも自分で描いたとのことであり、比較的若いのではないかと紗月は推測している。作者自身のSNSアカウントは無いようで、近況が分からないことが不安であった。
「…そうですよね。きっと作者も、貴女のような熱烈な読者に心配をおかけしていることが心苦しいでしょうね。」
なんだか暁人自身がすまなさそうにしているように見えて、紗月は少し吹き出してしまった。
「先生が気に病むことはないですよ。先程は勢い余って捲し立ててしまってすみませんでした。―それで、先生はどうしてその小説のお話を?」
話しているうちに筆を洗い終わった紗月は、道具を片付けようと自席に戻りつつ、話の続きを促した。
「先程言いそびれたんですが、実は僕もその小説のことが結構好きなので、ぜひ神谷さんと語り合えたらなと思いまして。―――この先の主人公の選択、神谷さんならどちらを選ぶと思われますか?」
「……難しい質問ですね。」
現在公開されている最新話で、主人公の少年は成長のための大きな二択を迫られているところであった。主人公は多数の属性を身につける素養があるのだが、現在使えるようになっている二つの属性のどちらかを主軸に据えなければならなくなったのだ。一方を選べば、一方を封印することになる。強大な力を得るためとは言え、難しい選択だった。紗月はしばし黙考した後、自身の考えを述べようと口を開いた。
「―そうですね、私だったら…」
紫陽花のよひらの山に見えつるは葉越しの月の影にやあるらむ
…紫陽花の山形の四片の花が八重に見えたのは、葉越しの月影のせいだろうか。
紫陽花の花を小説の分岐に見立て、月影=紗月のお陰で新たな分岐が見えた、という風になぞらえてみました。