五月雨に物思ひ〈三〉
後半は、暁人サイドです。
「この曲、なんですけど…」
どれどれ、と画面を覗き込んだ暁人の眼が一瞬見開かれた、ような気がした。
「なるほど、この曲ですか…」
無意識に、といった風に、彼は口元に自身の右手を持って行き、左手を着物の袂に潜り込ませて、考え込む仕草をとった。
「先生も、ご存知なんですか。」
先刻と同様、あまりこういった曲とは縁の無さそうな書道家の、思いがけずも心当たりのありそうな様子に、意外さを隠しきれない紗月はやや前のめりに尋ねた。
「こう見えて僕も結構、ファンタジーは嗜んでますからね。」
「……、まさかの応えでした。」
「まあ、そう言われるとは思いました。でも、そういう神谷さんこそ、このアニメがお好きなんですか?」
アニメが、と言うより、原作の小説が好きなんです、と伝えると、先程よりさらに大きな眼をして紗月を見返してきた。
それに怯むことなく、この際だからと小説の魅力を切々と訴えるほどに、何故か暁人の頬に朱が差していく。手短に要点を詰め込んで、作品の魅力を捲し立て終わった頃には、顔を背けて両の掌で覆っていた。
「……もう、その辺りで。貴女の想いは充分伝わりましたから。」
片手を顔から離して紗月の方に向けながら、暁人は照れ臭そうに言葉を返した。
しまった、好きな物のことになるとつい暴走してしまう悪癖が出てしまった、と即座に反省した紗月は、暁人の態度がやや腑に落ちないところはあるものの、深く追及はしないことに決めた。
「すみません、あの、それで、良かったらこの曲をかけてみていただけませんか。」
「ええ、分かりました。次にかけてみますので、納得のいく作品が出来上がることを祈っていますよ。」
そう言い残して颯爽と立ち去る後ろ姿が、どこか浮かれているように見えて、さらに訝しんだ紗月であった。
*
「あーー、嘘だろ…。そんな所に読者いたの…」
教室での仕事を終えて、自宅のソファに身を投げた暁人は、自身の熱烈なファンであることが露見した可愛らしい教え子の、作品に対する壮大な愛の言葉を思い出し、喜びと照れ臭さに身悶えしていた。
「彼女、そんな感じじゃないと思ってたんだけどな…」
この春入会してきた、一回りほど年下の女の子。華奢な身体の通りの、繊細な字を書くな、と思っていた。経験者というだけあって、筆遣いに辿々しさがなく、流れるような連綿は、さながら彼女の綺麗な黒髪のようだった。
背筋を伸ばし、真剣に紙に向き合うその姿からは、自身が書いているファンタジー冒険小説のような、所謂ライトノベルに耽溺するような人物像は少しも想像できなかった。
人は見かけによらない、を地でいく自分自身のことは棚に上げつつ、比較的年齢層も高くお堅いイメージのある自らの教室で、まさか生身の読者に遭遇するとは思いもよらなかった暁人は、不意打ちのように浴びせられた讃辞の奔流になす術もなく、羞恥に染まる自身の顔を覆い隠すことしかできなかったのである。
「――っ、あれは…反則だろ…」
少し色素の薄い、榛色とも思えるような瞳を輝かせ、興奮気味に捲し立てられた紗月の声が今も耳元でこだまする。
―豊富な語彙、繊細な情景描写、軽妙な台詞回し、俊敏で予想もつかない展開、張り巡らされた伏線―
どれもが、桜色の唇から転び出た暁人の小説を褒めちぎる言の葉たちである。
―久しぶりに、物語を読む喜びを思い出すことができて、本当に嬉しいんです。作者の先生に、会ってお礼を言いたいくらい―
もう、会ってますよ、なんて声にならない呟きを溢しながら、初めて対面したファンから齎された、じわじわと胸を擽る言いようのない温かな気持ちに、このところのスランプから来る閉塞感を溶かされた気がして、知らず口元が弧を描いていた。