五月雨に物思ひ〈二〉
誰かのリクエストした懐メロが流れる中、紗月は条幅に側面から対峙していた。かな用半紙に小筆で書くことに慣れてきていたため、中筆で条幅にとなるとまた勝手が違って難しい。五、七、五、まで書いて、筆を一旦置いて俯瞰していたところ、紗月の肩越しに冷涼な声が興味深そうに降ってきた。
「柿本人麻呂ですか。」
その声の思いがけない近さに驚き振り返ると、眦に少し笑い皺の刻まれた優しげな視線とかちあった。
「…は、い。…あの、中学の頃に出会って以来、ずっと好きで。」
作品を見るためと分かってはいても、急な接近に上昇した心拍数が、返答の声まで跳ねさせる。和装の隙間からほのかに白檀のような芳香もした気がして、紗月は息を呑んだ。
「奇遇ですね。僕もこの歌が一番好きなんですよ。天空を仰ぎ見る動作とか、宇宙のスケール感とか、自然の美しさは時代を超えても変わらず人を魅了するんだなってところが。」
自分の気持ちを代弁してくれたのかと思うほどの暁人の言葉に、紗月は目を丸くした。
「……頭の中が、読めるんですか?」
「え?」
「…あの、考えてることが、まるっきり同じだったので、ちょっとびっくりして。」
紗月がしどろもどろに説明すると、暁人はさらに目尻の皺を深くして、くつくつと喉を鳴らした。
「…まさか僕が読心術を修めていると?今まで沢山の生徒さんと接してきたけど、そんな風に疑われたのは初めてだよ。神谷さんて意外とSFとか好きだったりするの?」
目の前で愉快そうに笑うこの男とはおよそ縁のなさそうな単語が出てきて、紗月は逆に少し冷静になった。
「…もう、揶揄わないでください。こっちは本当に驚いたんですから。確かに、小説は好きですけど…」
紗月が少しむくれて言い返すと、暁人は柳眉を下げて手刀を切った。
「失礼。でも全く同じことを感じてる人がこんなに身近にいたなんて、凄く嬉しいですよ。貴女とは感性が合うのかな。」
噛み締めるようにしみじみと、自然に口をついたと言わんばかりに、天然の人たらしは破壊力のある笑顔を向けてきた。隣で同じように筆を止めて一呼吸置いていた京子もどうやら被弾したらしく、まあ、とかなんとか呟いているのを紗月は耳の端で捉えた。
「神谷さんも、何か曲のリクエストはありませんか。」
こうして生徒たちの作品をチェックしつつ、皆に聞いて回っているのか、暁人は何事もなかったかのように切り出した。これまでかかっていた数曲は、どれもなんとなくこの和歌には合わない気がして、思ったように書けずにいたのを見透かされたような気がした。
エイトビートの彼方に遠くなった雨音を思いながら、紗月はしばし電子の海に思考を巡らせた。
これまで毎週火曜日と金曜日には必ず更新されていたあのweb小説。先週から急に更新が途絶えており、この一週間、悶々とした気持ちで過ごしていた。
―――作者の先生、体調崩されてないといいけど。
この長雨の鬱陶しさも相まって、ついついネガティブな思考に囚われそうになっていた。
せめて少しでも作品に繋がる何かに触れていたい、そんな気持ちでネットを検索していたところ、作品が最近アニメ化されていたことを知った。本当にお気に入りの作品は、自分の中に構築した世界が壊れるのを嫌って、あまりアニメや漫画などを見ない方なのだが、今回は作画に心惹かれるものがあったこともあり、恐る恐る見てみたところ、これが物凄く良い出来だった。作品の世界観を余すところなく表現しており、主題歌も絶妙に作り込まれていた。特にエンディングテーマの穏やかで少し切ないメロディーが、小説の更新がなくて不安な気持ちを慰撫してくれた。
この曲なら、この和歌にも合うかもしれない。そう思いついた紗月は、返答を待ち兼ねている和装の紳士に自身のスマホの画面に表示された曲名を見せてみることにした。
東の野に炎の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ