五月雨に物思ひ〈一〉
鈍色の空から途切れることなく降り続く雨が、不規則なリズムで窓を叩いていく。右手に置かれた四五平の羅紋硯の上を滑る油煙墨が、規則的な擦過音を奏でて丘と海とを行き来していた。微かに立ち昇る竜脳の香りが、一服の清涼剤のようにここ数日の気鬱を晴らしてくれる気がして、紗月は無意識に大きく息を吸い込んだ。
「さて、墨を磨りながらで構いませんので、お耳を拝借します。皆さんこのお天気で少し気分も塞ぎがちかなと思いまして、今日は気分転換に好きな音楽をかけながら、好きな言葉を揮毫するというのはいかがでしょうか。」
たった今嗅いでいる墨の香りのような涼やかな声で、この成人向け書道教室の講師である松永暁人は、人好きのする笑顔を浮かべながら言った。
仕事に少し慣れてきた三年目の春、休日を無為に過ごすことになんとなく焦燥感を覚えた紗月は、高校の頃まで習っていた書道を再開しようと思い立ち、近場にあったこの教室の門戸を叩いた。
てっきり老齢の先生が出迎えてくれると思い込んでいた紗月は予想外に年若い和装の壮年講師の登場にやや尻込みしてしまったのだが、柔らかな物腰に何とも言えない穏やかな空気感で、あっという間に違和感を無くされてしまった。おそらく彼は天性の人たらしなのだろうと今では思っている。
雅号を暁月というその男は、座してもなお明確に分かる長身痩躯を濃紺の単に包み、涼しげな紋紗の羽織を纏う姿が様になっている。
左右に分けた黒髪の間から流麗な眉と優しげな瞳が覗き、高い鼻梁と薄く弧を描く唇が絵画の如く配置されている。性格も穏やかで教え方も丁寧とあって、老若男女問わず人気があり、生徒数もそれなりにいるようだ。
普段は彼の専門であるかな文字を教わることが多いのだが、今日は趣向を変えて生徒の気晴らしにと一計を案じてくれたらしい。
「こちらにBluetoothで接続できるスピーカーがありますので、皆さんにリクエストいただいた曲を僕がスマホアプリで検索して、見つかったらかけていきますね。揮毫するのは詩でも和歌でも、偉人の言葉でも、お好きなものを選んでください。流れる曲に合わせて、色んなパターンで書いてみてくださいね。筆や紙の大きさもお好みで。」
そう言い終えると、曲のリクエストを生徒から募り始めた。
「なんだか楽しそうね。何を書こうかしら。」
隣の席に座る笹木京子が独り言にしては大きな声で呟いた。彼女もこの春から通い始めた生徒さんで、本人曰く五十の手習いとして始めたそうだ。
何かと不慣れな様子だったので、あれこれと世話を焼いていたらなんだか懐かれてしまっていた。
「自由にって言われると、逆に難しいですよね。一曲がそこそこ時間ありますから、長過ぎず短過ぎない言葉が良いと思うんですけど…」
「あら、真面目ねぇ。それじゃあ、今までに習った題材から選ぶのはどうかしら。三十一文字なら、そこそこじゃない?」
かな文字を書く題材として、これまでいくつか和歌の書き方を教わってきたことを思い出し、京子の提案は妥当なものに思えた。紗月は中でも最もお気に入りの一首を好きなように書いてみようかと筆を執った。
五月雨に物思ひおれば時鳥夜深く鳴きていづち行くらむ
四五平… 縦13.5cm×横7.5cm
羅紋硯…安くて墨おりが良い、初心者向けの硯
油煙墨… 菜種油、胡麻油などの植物油を燃やした煤を集めて採煙し、膠と混ぜて練り合わせ、香料を入れ、木型に入れて乾燥させて作られる。
タイトルもこの墨の原料である膠から取りました。
竜脳…膠の臭い消しのために墨に使われる香料のひとつ。他に、麝香や白檀など。竜脳とは竜脳樹の隙間に析出した結晶のことで、古より防虫剤や防腐剤として使われてきた。清涼な香りがする。