巡り逢ひて
「……本当に、先生が…?」
清涼な茶の香りが、驚きと共に大きく息を吸った紗月の鼻腔を擽った。
彼の操る墨のように深い色をした紗の夏羽織の肩が、目の前で面白そうに少し揺れる。
「…やっと、気づいたんだ、神谷さん。」
紗月より一回りほども歳上のはずの、落ち着いた和服を着こなす姿からは想像もつかない、悪戯が成功したかのようなやんちゃな笑みを浮かべて、紗月の書道教室の講師である松永暁人は、頬杖をつきながらこちらを見つめていた。
*
「ふあ〜あ、あ…っと、…しまった。」
紗月の勤める会社の昼休みの社員食堂は、割安な値段で豊富なメニューから選べるとあって、かなりの賑わいを見せている。
昨今の物価高もあって、弁当を作るよりこちらで済ませた方が経済的で、ピーク時は席の争奪戦だ。
紗月も例に漏れず、入社時からこちらのお世話になって早三年ほどになる。
「寝不足? そんなに仕事抱えてたっけ?」
二人がけのテーブルの対面に座る同期の森田綾香が、本日の定食の主菜である鯖の味噌煮の身をほぐしながら不思議そうに尋ねた。
「それがね、最近面白い小説を見つけちゃって。ここ数日読み耽ってたら睡眠時間が削れちゃったの…」
無意識に大口を開けて欠伸を漏らした気恥ずかしさから、誰かに見られていないかこっそり視線を巡らせながら、紗月はそう切り出した。
昔から小説は好きな方だが、社会人になってからは仕事で疲弊してしまい、書籍を買ってまで読む体力がなく、専らweb小説を流し読みする程度であった。ただ、それにもなんとなく飽きてしまい、久し振りに本屋でも覗こうかな、と、仕事帰りに立ち寄った最寄りの書店で、運命の出会いを果たしてしまったのである。
平積みにされた色とりどりの作品の中で、一際紗月の目を引いたのが、今日も鞄に忍ばせてきた和風ファンタジーものの小説であった。
透明感のある美麗なイラストの中央で、刀を構える主人公らしき少年の意志の宿った眼差しと、目が合った気がした。表紙絵の左右を囲むように配されたタイトルの繊細な響きに、忙しさにかまけて封じ込めていた自分の中の何かが呼び醒まされた。一巻を手に取ると、あらすじも見ずに会計を済ませ、帰宅して食事と風呂もそこそこに、頁を捲り始めたが最後、明け方近くまで没頭してしまったのだった。
翌日、慌てて最新巻まで全て購入し、夜な夜な読書に費やしていたところ、見事に寝不足となっている。
「最新巻が結構良いところで終わっちゃってて、続きが気になって検索したらさ、webに載ってたからついついそれも読んじゃって…」
「…なるほどね。まあ気持ちは分かるわ。私も好きな漫画とかアニメとか、一気見しちゃうし…」
少し冷めたちくわ天蕎麦の出汁が寝不足の胃に染み渡るのを感じながら苦笑する紗月の言を、自身も身に覚えのある綾香は同意で返した。
「でも、ほどほどにしときなよ。学生の頃みたいに無茶してたら、身体壊しちゃうかもしれないし。食事と入浴と睡眠はしっかりとらないと、健康は維持できないんだから。あ、あと運動も。」
「確かに。明日は休みだし、久し振りにゆっくり寝ようかなぁ。」
同い年ながらどこか母親じみた世話焼きの節がある綾香の忠告に素直に応じ、紗月は残り少なくなった蕎麦を胃袋に収めた。
エピソードタイトルは雰囲気なので、元の和歌と意味合いが異なっていることもあります。あまり深く考えずにお読みください。