果ての世界の向こう側
ベラの家では当然のように、ベラとわたしのお祝いをしてくれた。ベラが、わたしがたくさん歩かされたと言う話を出したので、今日がどれだけ大変だったか、面白おかしく話して聞かせる。ベラの家族はみな魔力が高いので、魔力ド底辺の通過儀礼がどんなものか知らなかったのだろう。驚きつつも笑って同情してくれた。
「でも、わたしも横で見ていたかったわ。早々に脱落すると思っていた子が、けろっとしているのよ?きっとみんな度肝を抜かれていたでしょう?」
「そうそう。信じられないものを見る目で、何度も体調を確認されたよ」
会話は弾んで楽しいまま晩餐は終わった。
さあ、とベラの母が手を叩く。
「レニちゃんもベラちゃんも今日は疲れたでしょう?早く休みなさいな。ベラちゃん、お風呂に入っていらっしゃい。レニちゃんは、わたしの部屋のお風呂を使うと良いわ。案内するから、いらっしゃい」
良い子にお返事して出て行くベラを横目に、ベラの母に歩み寄る。
ベラの母はわたしを見下ろすと、美しい顔に憂いを乗せて言った。
「レニちゃん、ごめんなさい」
「え?」
「ベラちゃんから、聞いたでしょう?わたしたち、ずっと黙っていて」
ああ、その話か。
ベラが出て行ってから謝罪を口にしたベラの母に、ベラへの愛を感じた。それで良いのだ。彼女は、ベラの母親なのだから。
「ベラからも謝られましたけど、大丈夫ですよ。なにか困ったこともないし、怒ってもいないです。それでベラのこころが守れたなら、良かった」
「ありがとう、レニちゃん」
ベラの母が手を伸ばし、わたしの頬をなでる。そうだ、彼女はいつだって手袋をしていて、さすが侯爵令嬢は普段から隙がないと、わたしは思っていた。
きっとこれも彼女の愛だ。どんなときも、我が子に触れることが出来るように。
「あなたがいてくれて、ベラちゃんだけでなく、わたしたちも、どれほど救われたか」
柔らかい腕がわたしを抱き締め、頭に頬が寄せられる。
彼女は本当は、我が子をこうして抱き締めて、頬擦りしてやりたいはずだ。けれどそれは出来ない。もし、そんなことをして、彼女がベラの魔力で死んでしまったなら、ベラのこころに一生の傷を残すことになるから。
「感謝してもしきれないわ。レニちゃん」
わたしから身を離したベラの母が、わたしの両肩に手を置いて言う。
「あなたはこれから、難しい立場になるわ。大変なことも、困ることも、たくさんあるでしょう。きっとベラちゃんが手助けするでしょうけれど、ふたりでどうにもならないときは、どうかわたしたちのことも頼って頂戴。あなたとベラちゃんのためだもの、使えるものは全部使って、出来る限りの手助けをするわ」
我が子を抱き締められない彼女の、これはきっと最大限の愛情。
「わかりました。ありがとうございます」
答えれば、まずはね、と笑みを向けられる。
「姉がウィッテルド公家に嫁いでいるの。次期公爵夫人よ。レニちゃんがとっても良い子だってことは、常々言ってあるから、もしレニちゃんがどこかの養子になるなら、絶対に姉さまの子にさせるわ」
なんと。
「ちゃんと大事な娘として扱わせるから、安心してね。さ、それじゃあお風呂に入りましょうね。今日はわたしが洗ってあげる」
それもまた、本当は実の娘にしてあげたかったこと。
友人の母にお風呂のお世話をして貰うなんて恥ずかしいけれど。
「はい。お願いします」
ベラの母は、侍女のように手際良くとは行かなかったけれど、大事にわたしの身体を洗って手入れしてくれた。
何度か泊まったことのある客間に案内されて、けれどすぐ、部屋にベラが現れる。
「ねえ、わたしの部屋で一緒に寝ましょう?」
ベラの家に泊まったことは何度かあるが、一緒に寝ようと誘われたのは初めてだった。驚いたけど、すぐに頷いて枕を抱える。
ベラの私室へ入ったことは数えきれないほどにあるが、寝室に入るのは初めてだ。思わず見回してしまう。わたしの寝室よりずっと広いし、愛らしい調度で統一されている。寝台なんてお姫様のような、たっぷりと布を使った天蓋付きだった。
「レニは」
寝る前に温まりましょうと、白湯を用意させたベラがわたしに問う。
「何歳まで子供部屋だった?」
「え……?」
唐突な問いにきょとんとするが、別に隠すようなことでもないので答える。
「うちは十二歳の通過儀礼に合わせてひとり部屋を貰えるけど、わたしは末っ子だったから、下の兄がひとり部屋を貰うときに一緒に貰ったよ。だから、十歳になる年だね」
下の兄からは、面倒を見る弟妹がいないやつは楽で羨ましいなと言われた。なんだかんだ、遊びや勉強に付き合って貰っていた自覚はあったので、いままでありがとうございましたと返しておいた。
「そう」
頷いて、ベラは白湯を飲む。ベラの部屋はよく暖められて、白湯を飲んでも息が白くなるようなことはなかった。
冬の子供部屋はいつだって暖かくて、与えられたひとり部屋の寒さに、驚いたことを覚えている。暖房のない部屋だったのだ。
ベラの家で貸して貰えたのは絹の寝衣だったけど、自分の寝室ではとてもそれだけじゃ耐えられない。分厚い綿の寝衣に、毛織の服を重ねて、毛織の靴下も履いて、温石を抱えて、重たいくらいに毛布や布団を被って眠っている。それでも、朝には寒さで目覚めることもあるくらいだ。手足の指や耳は、気付けば霜焼けになっていた。始めの年に驚いてニニに訊ねて、泣きそうな顔をさせてしまった。
そんなところもおそらく、親の愛の差なのだろう。
「ベラは?」
尋ねて、わたしも白湯を飲む。部屋は暖かくても廊下は寒くて、冷えた身体に温かい白湯がありがたかった。
「わたしは、六歳のときよ」
六歳。それは、もしかして。
気付けど問うことを躊躇ったわたしを、ベラは苦笑して見返した。白湯を飲み干して、寝ましょう、と誘う。
頷いて白湯を飲み干し、ベラに促されるまま寝台に乗る。
ベラが天蓋を束ねていた紐を解いて、布を落とす。
それは侍女の仕事ではないのだろうかと思ったけれど、ベラの部屋に侍女はいない。白湯を持って来て、すぐ下がってしまった。
わたしの部屋にだって、侍女は控えていないけれど。
「近くの部屋にはいるから、鈴を鳴らせば来てくれるわ」
天蓋の隙間をすり抜けて、ベラが寝台に上がる。厚地の布を惜しみなく使った天蓋はすっかり寝台を覆っていて、まるで、世界からここだけ切り離されたような心地がした。
違う。
事実、切り離しているのだ。
ベラが、誰かを傷付けることがないように。誰かを傷付けることで、ベラが傷付くことがないように。
ベラの両親の指導を受けるとき以外で、ベラと会うのはいつだってベラの私室だった。ベラが我が家に来たことはなくて、そして、寝室に通されたことも一度もなかった。
同じ伯爵位の家でも、魔力が高い家系のモルガン家と、低い家系のメレジェイ家では、雇っている使用人の質も違う。もし、我が家にベラがやって来ていたら、使用人は間違いなく、ひょっとすると父母や兄姉まで、ベラの魔力に当てられていたことだろう。
ベラは確かに自分の世界の現実から、わたしを遠ざけていた。
そんなことも知らずに、わたしは呑気にベラの隣にいたのだ。
「いつもはね、そこのクマちゃんと一緒に寝ているのよ。小さい子供みたいで、みっともないかしら?」
「えっ?そんなことないよ、わたしもヒツジさんとかクラゲさんを抱いて寝てるもん」
温石やら水枕やらがお腹に入ったやつだけど。温石でわたしが火傷しないように、ニニが作ってくれたものだ。夏には寝苦しさが和らぐようにと、水枕のクラゲをくれた。
「そうなの?可愛いわね」
ベラの感想に微笑んで返す。
「今日はヒツジさんもクラゲさんもいないから、わたしで我慢してね」
手袋を脱ぎながら言ったベラが、布団に潜り込んでわたしを誘う。誘われるまま布団に潜れば、華奢な腕で抱き締められた。
「レニから、母さまの匂いがするわ」
「お風呂を借りたからかな」
わたしの肩に顔を埋めたベラが、くすくすと笑う。
もしかしたら、ベラの母はそれもあって、わたしを主寝室のお風呂に入れたのかもしれない。客人用の風呂は別にあるのだ。普通はわざわざ、主寝室の風呂など使わせない。
それなら、と、わたしもベラに手を伸ばす。
「おやすみ、ベラ、良い夢を」
言ってその額に、口付けを落とした。
わたしに、ベラの気持ちはわからない。ベラも、わたしのすべてを知っているわけではない。見ることの出来る世界には果てがあって、その先のことは知れないのだ。
それでも今日、わたしの世界の果ては広がった。
だからこうして、ベラを抱き締めることが出来る。
「おやすみ、レニ」
ベラの声が少し湿っていたことには触れず、わたしはベラの背中をゆっくりと叩いた。
どちらが先に眠ったのかは、わからなかった。
拙いお話をお読み頂きありがとうございます
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