ようこそ、生徒会へ
優秀な成績をおさめて平民向けの学校を卒業し、私は先生たちや家族の期待を一身に背負って貴族学校へ編入した。
この学校の生徒は中等部から通っている貴族の令息令嬢たちばかりだけど、高等部からは成績の優秀な平民にも門戸は開かれている。
学校で一番可愛いって評判だったピンクブロンドの髪にミルクチョコレートみたいな茶色の瞳も、神童って言われるほどの賢さも、この学校では霞んでほぼ空気になってしまう程度のものだった。ご令嬢たちはまるで妖精のように可憐だし、授業は毎日予習と復習をしてもついて行くのがやっとなほど難しい。
そんな私にも、クラスメイトたちは皆優しく接してくれる。お昼休みに友達と一緒にのんびりと食堂に行くのは毎日の楽しみのうちの一つ。それでもたまに、数量限定のパンを巡って購買まで廊下を走ったのが懐かしくなっちゃう時もある。
「サンディーさん。私たちカフェに寄るけれど、良かったらご一緒にどうかしら」
下校の時間になりクラスメイトたちが声をかけてくれた。
「図書館に行こうと思っているから遠慮するわ。誘ってくれてありがとう」
教科書を鞄に仕舞いながら私がそうこたえると、彼女たちは残念そうな顔をする。
「今日も勉強してから帰るの? 本当に熱心ね」
「私たち、いつもサンディーさんに感心しているのよ」
「また今度、一緒に行きましょうね」
ごきげんよう、と品良く礼をしてクラスメイトたちは去って行った。私は一人、鞄を抱えて図書館に向かう。
傍らに分厚い本を広げ、教科書をめくった。どれくらい時間が経った頃だっただろう。ペンを走らせていた白いノートに影が落ちた。
顔を上げると、そこには背の高い男子生徒が立っていた。
きちんと整えられた黒髪、黒縁の眼鏡。少し冷たく見える三白眼の黒い瞳がじっと私を見下ろしている。
「あ、あの……何かご用でしょうか。副会長様」
おそるおそる声を発した私を、彼は不快そうに目を細めて睨んだ。その迫力に思わず私は身をすくめてしまった。
彼は確か二年生のアイザック様。侯爵家のご子息で、生徒会で副会長を務めていらっしゃる方だ。
どうしよう、平民が図書館を使うな、とか言われるのだろうか。今まで親切なクラスメイトに囲まれていたから、うっかりしていた。もっと端っこの席を使えばよかった。
「君に用があるわけではない。その本に用があるんだ」
「……本? あっ、これですか! すみません!!」
私はあわてて分厚い本を閉じた。ばったん、と大きな音が室内に響いて、静かに勉強していた生徒たちが一斉にこちらを見る。
横目で彼らを一瞥したアイザック様は、右手でスッと眼鏡を上げると再び私を睨みつけた。
「私はその本の図表が必要なのだが、君が数日前からその本を独占している。使い終わるのを待っているのだが、全くその様子がない」
「す、すみません! どうぞ、お使いください」
私がそう言って本を持ち上げようとすると、アイザック様はそれを手で制した。
「確かに早くしてほしい、と思ってはいたが、使用しているものを取り上げるつもりはない。しかし、私もそれほど気が長いわけではない」
アイザック様はそう言い、私の隣の席にどさりと腰を下ろした。
「君はどうやらその分野で手が止まっていて勉強が進んでいないようだ。だから、私が教えてやろう」
「えっ」
「君の学習が進めばこの本は必要がなくなり、私が使うことができる」
「は、はあ……」
「理解したか」
「ええ、まあ。でも、その」
「私では不満か」
「いえ! まさか!!」
上級生が直々に勉強を教えてくれると言っているのだ。毎日授業に必死で付いていっている私にとって、こんなチャンスはない。しかし、できればもっと優しそうな人が良かった。
私はそんな気持ちはおくびにも出さずに、一生懸命アイザック様の指導に耳を傾けた。アイザック様は冷たそうな見た目とは裏腹にとても教え方が上手で、私はなかなか理解できなかった分野がすらすらと解けるようになった。
そもそも、この本をなぜ私が放課後に図書館で独占していたのか。それは、図書館の本は貴族でなければ借りることはできないからだ。私のような平民は、この図書館内で読むことしか許可されていないのだ。
貴族であるアイザック様はこの本を借りて持ち帰ることだってできた。しかし、彼はそうしなかった。私が毎日使っているのを知っていたからだ。
アイザック様のそんな優しさに気付いた頃には、私はすっかり彼と打ち解けて話せるようになっていた。
「良かったら、君も生徒会に入らないか」
必要のなくなった分厚い本を本棚に戻した時、アイザック様は私にそう言った。
雲の上の存在だった生徒会。まさか平民の自分が生徒会に入ることができるだなんて思っていないけれど、私は興味本位で彼に付いていくことにした。
生徒会の皆さんは、アイザック様のようにとても優秀で人格も優れた方たちばかりだった。きっとアイザック様が事前に私の話をしておいてくれたのだろう。私を歓迎してくれた上に、勉強まで教えてくれた。
私の放課後の行き先は、図書館から生徒会室へ移った。
生徒会長のハーバート様は侯爵家の子息だ。艶のある栗色の髪は穏やかで落ち着いた彼によく似合っていた。
これぞまさに黄金色、と言ったストレートの金髪に碧眼の美女であるリタ様は、侯爵家のご令嬢でハーバート様の婚約者だ。
お二人が幼い時に両家が決めた婚約なのだそうだが、とても仲が良い。平民である私には婚約者なんていないけれど、いつかこんな愛し愛される幸せな結婚がしたいな、と、密かに憧れている。
「君は本当に優秀だね」
「いえ! まさか! 毎日いっぱいいっぱいで」
ハーバート様に褒められて、私は両手をぶんぶんと振って否定した。そんな私のおおげさな様子を見て、リタ様がくすっと上品に笑う。
「そんなことないわ。あなたの成長はまるで夏のひまわりのよう。与えられた水を余すことなく吸い込んで、大空に向かって大きな花を咲かせているのを私は知っているわよ」
生徒会の皆さんの指導のおかげで、私の成績は急激に上がっていた。先日のテストではなんと学年でトップ10入りしたのだ。リタ様はきっとこの事を言っているのだと思う、多分。
リタ様の貴族独特な言い回しに、私は何て返事をしていいのか分からなくてはにかみながらうつむいた。そんな私にハーバート様が優しい瞳を向ける。
「私たちが卒業した後は、アイザックが生徒会長になる予定だ。優秀な君には彼の補佐を頼みたいと思っているんだ」
「わ、私のような平民が恐れ多いことです」
「君がダメなら、他に頼める奴なんていないよ!」
ははは、とハーバート様は明るい声を上げて笑った。奥の机で各部活の予算案に目を通していたアイザック様が顔を上げる。
「会長のおっしゃる通りだ。君はまだまだ成長途中だが、見どころがあると私は確信している。努力はけして己を裏切ることはない。これからも励むように」
アイザック様はそう言うと、すぐに書類に視線を戻した。しかし、少しだけ耳が赤くなっているように見えた。
私は胸の前でぎゅっと両手を握り、頷くだけで精いっぱいだった。
勉強を終え生徒会室を出ると、廊下の向こうの方から数人の令嬢の姿が見えた。きゃあきゃあ、と楽し気な笑い声を上げる彼女たちは制服をゆるく着くずしている、ちょっとセクシーな美女たちだ。
彼女たちの中心にいるのは、この国の第二王子ニール殿下だ。
殿下は何人かいる王子の中でもとりわけ美しいのだが、あまり素行はよろしくなくて、そちらの方が有名になっている。
プラチナブロンドの長い髪が優雅に揺れ、魅惑的な垂れ目の瞳が私を視界におさめた。
令嬢たちに気付かれないよう私に向かって軽く手を振ると、ニール殿下はくるりと踵を返して去って行った。
「正解だ。うむ、よく理解できているようだな」
黒板に解答を書いた私は先生にそう褒められた。わぁっ、と声が上がり、クラスメイトの皆が拍手を送ってくれる。ぺこりと頭を下げて席に戻ると、隣の席のクランシーに背中をバシッと叩かれた。
「すげえな、お前。あてられたのが俺だったら、一行も書けなかったぜ」
そう褒めてくれたクランシーは、オレンジがかった金髪を手でぐしゃぐしゃと掻き上げ、てへ、と舌を出して笑った。人懐っこい彼はこう見えて筆頭公爵家の子息。エメラルドグリーンの美しい瞳が彼の高貴な身分を示している。
「なあ、俺に勉強教えてくれない? 赤点ギリギリなんだ。また補習になったら親父にどやされちゃうんだ」
クランシーはそう言って軽くウインクした。彼はいつも明るく賑やかで、クラスを盛り上げてくれるムードメーカーだ。本来なら平民の私なんて彼の名を呼ぶことさえもできないはずなのに、こうして気安く話しかけてくれる。
「もちろんよ。お互いに苦手なところを教え合いましょう」
「俺にサンディーよりも分かるところがあるかなあ」
クランシーとの勉強会と生徒会で、私の放課後は忙しくなった。でも、とても充実した日々を送っている。
それは廊下を一人で歩いている時だった。
私の前に一分の隙の無いほどに完璧な金髪縦ロールのご令嬢が立ちふさがった。その後ろには数人の令嬢たちが立っている。
私は廊下の端に寄り、軽く礼をして彼女たちが立ち去るのを待っていた。しかし、視界の先から彼女たちの足は動かないままだった。
「アイザック様にひっついていると思っていたら、今度は公爵令息に鞍替えかしら」
「見境いの無さは、さすが平民ね。呆れて声も出ないわ」
縦ロール令嬢の後ろの二人が言う。
もしかして公爵令息とは、クランシーのことだろうか。
「ブリトニー様がアイザック様の婚約者だってこと、まさかご存じないの?」
「えっ、婚約……者……」
思わず私が口ごもると、縦ロール令嬢、もとい、ブリトニー様はつんと澄ました表情で私をさらに見下ろした。
アイザック様に婚約者がいたなんて、知らなかった。私は両手をぎゅっと握って身をすくめた。
「存じ上げませんでした、申し訳ありません! でも、あの、私はアイザック様に勉強を教えてもらってただけで」
「……だけ、ですって?」
ブリトニー様の凛とした声が私の言葉をさえぎる。その迫力に私は震えてしまった。
そんな私など気にも留めることなく、ブリトニー様は話を続ける。
「まさかあなた…………アイザック様を……」
「いえ、私はアイザック様とはそんな関係では」
「アイザック様を裏切って、週休3日党に寝返ったんじゃないでしょうね!?」
「はい?」
私は眉を上げ、大きく目を見開いた。
しゅうきゅうみっかとー、って何!?
ブリトニー様は腰に手をあて、堂々と胸を張って言った。
「公爵令息クランシーが週休3日党員であることは公然の秘密。てっきりあなたは、我が婚約者アイザック様の属する生徒会、つまり週休2日党に与したものだとばかり」
「なんて!?」
「無垢な顔をしてとんだ食わせ物だったわね」
「待ってください! 週休3日とか2日とか、何のことですか。生徒会は生徒会、じゃないのですか……?」
だんだん小さくなる私の声に、ブリトニー様は眉をひそめる。腰にあてていた手を下ろすと、訝し気に顎にあてた。
「あなた、何もご存じない……本当に?」
ブリトニー様の問いに、取り巻きの令嬢たちまで戸惑ったような表情を浮かべる。
「そんな、まさか。この学校に通っていながら」
「でも、確かこの方は高等部進学時に編入してきた平民。その可能性はないとは言えませんわ」
二人の話に小さく頷いたブリトニー様はため息をつき、私をまっすぐに見据えた。
「そう……本当に知らないのね……。いいわ、ついていらっしゃい」
「え、どこへ」
「教えてあげましょう。この学校の規範を───!」
私は誰もいない廊下で一人、窓から見える校庭を眺めていた。
部活動に励む生徒たち。青空の下、ボールを追いかける姿は生き生きとしていて、私はその眩しさに目を細めた。
「サンディー嬢、こんなところにいたのか」
背後からかけられた声に、私は振り向くことはしなかった。こちらに向かって歩いて来ているのには気付いていた。でも、私はわざと聞こえないふりをしたのだ。
それでも彼はそのまま話を続けた。
「最近、生徒会へ全く来ないではないか」
「……」
私は顔を上げないままゆっくりと振り返った。ピンク色の前髪の向こうで、人影が身じろぐ。
返事をしない私を、眼鏡の奥の黒い瞳が睨みつけている。彼、───アイザック様は静かに人差し指で眼鏡を上げると、小さくため息をついた。
「聡明な君なら理解しているはずだろう。一日勉強を休めば二日分の遅れとなる。二日休めば五日分の遅れとなる。三日休めば……もう取り返しがつかない。我々学生は、学ぶ手を止めてはいけないのだ」
「アイザック様……。私、もう知っているんです。教えていただきました、ブリトニー様に。あなたの婚約者である、ブリトニー様に!」
「ブリトニーに……。では、なおさらだ。君はあのように愚かな公爵令息ごときと共に過ごすべきではない」
「アイザック様は確かに素晴らしい方です! でも、私の友人を愚か、だなんて言う権利はありません!」
アイザック様はすっときつく目を細めたものの、そのまま口を閉じた。
私は顔を上げ、彼をまっすぐに見つめて言った。
「この学校の現在の政権を握っているのは、生徒会が率いる週休二日党。土日、そして祝日が休日という長期政権。でも、学内には密かに反発する党が存在している。その中で急激に党員を増やしているのが週休3日党。土日祝日に加え、水曜日も休日にしようという新興勢力」
私の話を黙って聞いていたアイザック様は、するりと眼鏡を外すと右手で目頭を揉んだ。そして、ゆっくりと眼鏡をかけ直した。その表情は先ほどとは全く違う、とても鋭く獰猛なものだった。
「ああ、君の言う通りだ。水曜日を休日にするだって? 何てばからしい話だ。週休3日党。───愚か、としか言いようがないだろう」
冷たくそう言い放ったアイザック様は、鷹揚に腕を組むと横を向いて私から目を逸らした。が、私が一歩前に進むと、視線だけをこちらに向けた。
私は胸の前でぎゅっと手を握り、すぐに怯みそうになる弱い心を隠すように声を張り上げて言った。
「連休があれば喜び、祝日のない月には肩を落とす。もう少し休日が多かったらあれもできるこれもできるのに、と、カレンダーの赤い日に一喜一憂し、夏冬の長期休暇を心待ちにして過ごしている。そんな私たちが、愚かとおっしゃるのですか」
「ああ、そうだ。そう言うことをいう奴に限って、できるはずだったあれこれをやらずに休日を無駄に終えるものだ」
「そう……、そうよ。確かに愚かとしか言いようがない。でも、……でもっ、それが、それだからこそ、人間なのよ! 人間って怠惰で愚かで、反省しても何度も過ちを繰り返してしまう。生きているってそういうことだわ!」
「……どういうことだ」
理解できない、とばかりに、アイザック様は大きなため息をついた。そして、大股でこちらに向かって歩いて来ると、私の腕を掴んだ。
「くだらない。実にくだらない。あんな3日党員ごときに付き合うから、そのような愚鈍な思考に染まってしまったのだ。行くぞ。我が生徒会、へ。その腐った精神を叩き直してやろう」
「離して!」
私はアイザック様の手を払った。掴まれていた腕がじわりと鈍く痛んだ。
「我が生徒会、ですって? この期に及んで、まだ生徒会の皆さんを欺くつもりですか」
「欺くだって? 何を言っている」
「さっきのあなたの言葉で、私は確信しました。笑っちゃうわ。生徒会、ハーバート様やリタ様を裏切っているくせに! あなたは、あなたは……、週休0日党。通称ブラック党員なんでしょう」
私に払われた手を戸惑うように撫でていたアイザック様の顔つきがとても冷酷なものに変わった。絶対に休ませない、という圧をひしひしと感じる。
「ブリトニーでさえも気付いていないと言うのに、よく気付いたものだ。さすが私が見込んだだけのことはある、サンディー。そう、私は週休0日党員。朝から晩まで学び、成長し、そして身を粉にして労働する。それこそが美しい人間の姿。まさにそれが理想」
「あなた、極端すぎるわ」
「そうだろうか。自分の身を振り返って見て見たらどうだ。君は朝活と言って早起きして勉強し、放課後は生徒会で勉強。休日だってきちんと宿題をこなした上に予習復習を欠かさなかったではないか」
「ハッ……!! で、でも、それはあなたが授業以外にも宿題を課したから」
「そうさ! 言っただろう、君には見込みがある。私の思惑通り休むことなく勉強に励んでくれている。あとは昼休み、あのクズどもと過ごしている空虚な時間を奪うだけだったのに。食事の時間は単語を暗記する絶好のタイミングなのだ」
「いやよ! 私には皆とおしゃべりしながら過ごす時間が大切なのよ。息抜きの時間が」
アイザック様はため息交じりに私をばかにして笑った。
「来年、私が生徒会長になった際には、信念通りこの学校を週休0日にするつもりだ。ハーバート様は優秀ではあるが、寛容すぎる。怠惰なものたちを甘やかしてはいけないのだ。休日など必要ない」
「そんなのうまくいくわけないわ」
「だからこそ、君の力が必要なのさ。君の純真な求心力がね」
廊下の向こうから賑やかな笑い声が近付いてきた。口を閉じたアイザック様は眼鏡をくいっと右手で上げる。
「こんなところで話すことではなかったな。この話はまた後で。サンディー、私はけして君を諦めない。必ず私は君を手に入れる。そして、私色に染めてみせよう───真っ黒にね」
アイザック様はそう言うと、踵を返して颯爽と去って行った。
まさか真面目なアイザック様があんなことを言うなんて。
私は自分を抱きしめるようにして身をすくめ、震えが収まるのを待った。
「へえ、そうじゃないかと思ってたけど、やっぱりブラック党員だったんだ、あいつ」
突然背後から声が聞こえ、私は飛び上がって驚いてしまった。
振り向けば、そこには金糸のような美しい長い髪をかき上げたニール殿下が立っていた。いつも周りに侍らせている女生徒たちはいなかった。
「ごめん、ごめん。盗み聞きするつもりはなかったんだけどね」
ニール殿下はそう言うと、ゆっくりと手を伸ばして、私の腕に触れた。
「けっこう強く掴まれてたけど、大丈夫? 女の子の腕をいきなり掴むだなんて、乱暴な奴だな。可憐な女の子には優しくするべきさ、週に何日休もうと、ね?」
パチリとウインクしたニール殿下の明るい声に気が抜けて、私の震えはいつしかおさまっていた。
「確かに俺たちは学生。勉強は大切さ。だからといって休日も休憩もなしだなんて、非効率すぎる」
「私もそう思います」
ニール殿下は再び髪をかき上げた。セクシーな目元があらわになって、私は少しだけドキリとした。そのまま壁に寄りかかったニール殿下は完璧な角度で美しい笑みを見せる。
「あはは、君とは気が合いそう。初めて君を見かけた時からずっとそう思ってた。どう、俺の可愛い子猫ちゃんにならない?」
「子猫ちゃん!? や、やめてください。私はそういうのお断りです」
「どうして? 俺たちと一緒に毎日楽しく過ごそうよ。確かに俺たちは学生。でも、長い人生のうち若いのなんて今だけなんだよ。貴重な十代を教科書とにらめっこして終えるだなんて。楽しまなくちゃ」
そう言って、彼はさらににこりと微笑んだ。
私は思わず一歩後ろへ下がる。やめて、そんな瞳で私を見ないで。私の弱い心を見透かさないで。
「ねえ、君だって楽しく過ごしたいだろう。一緒に毎日遊んで暮らそうよ、俺たち───週休7日党と」
「週休7日って……! あなたたち、ただの無職じゃない!」
私の声に、ニール殿下は噴き出して笑った。そして、ゆっくりと起き上がると私を甘い瞳で見下ろして言った。
「おもしれー女」
ニール殿下はそうつぶやくと、ひらひらと手を振って去って行った。
「ため息なんてついちゃって、どうしたの? サンディー。お前らしくないな」
自分でも知らず知らずのうちにため息をついていたらしい。隣の席のクランシーが私の顔を覗き込んで言った。
アイザック様、ニール殿下、と、面倒なことに巻き込まれてしまった私は、ここ数日このことで頭がいっぱいであまり眠れなかった。
次の授業は教室移動だ。次々とクラスメイトが教室を出て行き、残されたのは私とクランシーだけになった。
立ち上がろうとしない私と一緒に、クランシーは黙ったまま隣に腰掛けている。
「何かごめんな」
クランシーがぽつりとつぶやく。
「え?」
「俺と一緒にいるせいで、やっかいな奴らに絡まれてるって聞いた」
「……あなたのせいじゃないわ。私が無知だったせいよ」
「お前は何にも悪くないだろ!」
クランシーが両手で机を叩いた。その音に私がびくりと肩を震わせたのに気付いて、クランシーが気まずそうにおずおずと手を引っ込める。
「ごめん。ムカついて、つい。あ、お前にじゃないぜ、あいつらにだ」
「クランシー、私……どこの党にも属するつもりは」
「何も言うな」
背もたれに大きく背をあずけたクランシーがいつもの優しい笑みを浮かべて私に振り返る。
「わかってる。俺はお前をどうこうしようとは思っていない。お前の好きにしたらいいさ」
「クランシー……」
「俺は確かに週休3日党員だ。公爵家の嫡男ってだけで、幹部にまつりあげられちまってるけどさ、正直言って特に何をしようってわけじゃないんだ。ただ、休みは多い方が嬉しいよな、って、単純にただそれだけさ」
「うん。その気持ち、わかるわ。明日は寝坊できるって思える瞬間って何物にも代えがたいもの」
「そうだろ! 何の心配もなく夜更かしできるってサイコーだよな」
クランシーはそう言うと、椅子の上に置いていた私の手をぎゅっと握った。
「あと一日、休みが増えたら。もし、そうなったら、お前とデートできる日が増える。そんなこと考えるのもまた、サイコーだろ!」
驚く私の顔を見て、クランシーがゲラゲラと声を上げて笑った。私も一緒に笑った。
アイザック様に見つからないように、私は一人、中庭のベンチに腰掛けてお弁当を広げていた。
「へえ、それが庶民のお弁当かあ。始めて見た。それは何?」
いきなり姿をあわらしたニール殿下は遠慮するそぶりなんてみじんも見せずに私の隣に座った。
私は殿下の指さした卵焼きをフォークで刺して持ち上げた。
「これは玉子焼きです」
そう言い、パクッと自分の口へ放り込んだ。てっきり食べさせてくれると思っていたらしいニール殿下が口を開けたままぽかんとしている。
「ちょっと焦げてたからわかんなかった」
「それは失礼しました。自分で焼いたもので」
「えっ、サンディーちゃん、料理できるの?」
「これくらいは。でも、こんなの料理なんて呼べるものじゃないですよ」
「いいや、すごいよ。自分で厨房に立つ令嬢なんて初めて見た」
「すみませんね、私は令嬢じゃなくて庶民ですので」
「ごめんごめん、そういう意味じゃないよ。美味しそう、って言いたかったんだ」
「では、おひとつどうぞ」
ありがと、と言って、ニール殿下は手掴みで玉子焼きを摘まんで食べた。もぐもぐと頬を膨らます仕草が意外と可愛らしい。
「ねえ、サンディーちゃん。やっぱり俺のところへおいでよ。きっと俺たちすごく気が合うと思うんだ」
「お断りです」
私はニール殿下にそうはっきりと告げると、最後に取っておいたアスパラガスのベーコン巻きを口に入れ、お弁当箱の蓋を閉めた。
「まだ意地張ってるの? 正直になりなよ。言ってごらん、楽になるよ。毎日遊んで暮らしたい、ってね」
「ふざけないでください!」
頬に伸びてきたニール殿下の手を、私はばしっと叩き落とした。きっと拒まれたことなどないのだろう、殿下はぱちぱちと大きく瞬いた。
「王子様のあなたには、私たち庶民の気持ちなんて分かりませんよね。分かるはずがないわ」
私は膝の上に置いた両手にぐっと力を込めて握った。
「王族であるあなたは子供の頃から最高級の学問を与えられていた。でも、私は違う。必死に勉強してやっとここまで辿り着いたんです。私はもっと学びたい。知識を得ることは自分のためだけじゃない。家族を助ける力にもなるんです」
ニール殿下の口元から、絶やすことのなかった笑みが消えた。少しだけ眉根を寄せて、真剣に私の話に耳を傾けてくれている。
「それだけじゃない。頑張ってこの学校へ入学して、今までだったら出会うことも、名前を呼ぶことさえもできなかった貴族の皆さんとも知り合うことができた。たくさんの考えや価値観を知ることができた。そう、王族であるあなたと言葉を交わすことだってできた。この出会いは私の一生における糧となるでしょう。」
ニール殿下がハッとしたように胸に手をあてた。
「まさか……この俺が、こんな平民にときめくだなんて……」
ニール殿下のつぶやきは小さくて、私にはよく聞こえなかった。私はそのまま話を続ける。
「週休7日になってしまったら、もう学ぶことはできない。誰とも出会うことはできない。殿下、私からこの学校を、この場所を奪わないでください」
私の瞳から一粒の涙がこぼれ落ちた。
呆けたように私の顔を見つめていたニール殿下が、私の頬から流れ落ちる涙を指ですくった。
「ハッ……、ははっ。あはははは! 本当に君って面白い。面白いよ、君」
ニール殿下はひとしきり笑った後、少しだけ乱れてしまった髪をかき上げた。その時の彼は、さっきまでとは全く違う、何かを吹っ切ったような清々しい表情をしていた。
「ねえ、もっと聞かせてよ。君の話。今までどんな暮らしをしていたの。何を思って、どんな毎日を過ごしていたんだ。知りたいんだ、君のこと。もっともっと、全部、教えてほしい」
「殿下……!」
───生徒会室。
床に何冊かの本が落ちる音が聞こえる。間髪を容れずに今度は椅子が倒れる音がした。
「何てこと! スパイが潜り込んでいただなんて!」
続いて聞こえてきたのは、ブリトニー様の叫び声だ。
「勉強なんて、週に3日くらいで十分なんだよ!」
部屋の一番奥でそう叫んだのは、入学当初から生徒会の補佐をしていた子爵家の令息であった。真面目でおとなしく、会議中の書記を務めていた。
「まさか、週休4日党員が紛れ込んでいたとは」
リタ様を背にかばっていたハーバート様が悔しそうにつぶやく。
「君に裏切られるだなんて。残念だよ」
「くっ、う、うるさい! こうしてやる!」
子爵令息は壁にかかっていたホワイトボードに駆け寄った。月の予定を書き込むことのできるカレンダーになっているアレである。すばやくマーカーを手に取ると、令息は水曜と木曜に赤い丸を書いた。
「ああっ! 週の半ばに連休だなんて、そんな怠惰許せませんわ!」
ブリトニー様が子爵令息の腕を掴む。しかし、すぐに振り払われてしまった。
「きゃあ!」
悲鳴を上げて床に倒れそうになったブリトニー様を、生徒会室に飛び込んだ私は受け止めた。
「間に合って良かった。お怪我はありませんか、ブリトニー様」
「あなた……どうして、私なんて助けるの。私はあなたを疑って糾弾したというのに」
「えへへ、同じ学校に通う生徒同士じゃないですか。それに、ブリトニー様は無知な私に親切にこの学校のことを教えてくれました」
「サンディーさん」
見つめ合う私たちの間に、すっと形の良い手が伸びてきた。
「起き上がれるか、ブリトニー」
アイザック様がブリトニー様の背に手をあてて立ち上がらせた。ブリトニー様に怪我がないことを確認すると、アイザック様は子爵令息をきつく睨みつけた。
「貴様、スパイだった上にブリトニーに手を上げるとは」
「そんなつもりは!」
「どんなつもりだったと言うんだ!」
「君たち、もうやめなよ」
子爵令息に掴みかかろうとするアイザック様の手を遮ったのは、ニール様だった。
「な、なぜ殿下がここへ」
声を上げたのはハーバート様だ。戸惑いつつも、礼儀正しく軽く頭を下げている。
ニール殿下はいつものラフな服装だけれど、きりりと引き締まった表情をしていて、こうしているとやはり王族らしい気品が全身からあふれていた。
「会長のおっしゃる通りです。あなたのような怠惰な方は、出て行ってください。ここから、いや、この学校から」
ニール殿下の王族オーラに怯むことなく、アイザック様がはっきりとそう言った。
アイザック様、すごい。なんて意思の強い方なのだろう。私は心の底から彼に感心した。アイザック様もスパイなのに。
「殿下。ここは生徒の自治を行う場所です。失礼ながら、あなたには関係のないところです」
「ははは、待ってよ。俺の話も聞いて」
ニール殿下はそう言うと、近くの椅子を引いて勝手に腰掛けた。
「そう嫌わないでくれよ。俺は心を入れ替えたんだ」
「入れ替えただと?」
アイザック様が眼鏡を右手できりりと上げる。
「そう。俺はもう離党したんだ。党首は下りた。つまり、週休7日党は解党したってことさ」
「なんだって?」
アイザック様をはじめ、生徒会室にいる面々が戸惑って顔を見合わせていた。
「兄である第一王子がこの学校の生徒会長だった時代は、生徒は皆優秀で学内は平和だった。そんな兄と比べられて、逃げていただけなんだ。本当に俺は弱いダメな奴だ」
ニール殿下は額にあてていた手をゆっくりと離すと、顔を上げた。私と目が合うと、クスリと面白そうに笑った。
「でも、こんな俺にもできることがあるって、気付いたんだ。……サンディーちゃんのおかげでね」
ニール殿下の声に、全員がいっせいにこちらを見る。緊張して頭が真っ白になってしまいそうだけれど、こっそりと一度だけ深呼吸してから私は口を開いた。
「皆さん、お願いです。ニール殿下のお話を聞いていただけませんか」
私の声が震えているのに気付いたニール殿下が、支えるようにそっと私の背に手をあててくれた。
「この学校にはたくさんの党が存在しているが、できることなら生徒同士でいがみ合ってほしくないんだ」
週休4日党員の子爵令息とハーバート様がぎくりと肩を震わせた。その後ろで、アイザック様も気まずそうに眼鏡を上げている。
全員の顔を見回し、ニール殿下は姿勢を正して口を開いた。
「お互いを尊重し合い、仲良く学生生活を送るために、俺に良い案がある。サンディーちゃんから教えてもらった、平民の日々の過ごし方からヒントを得たんだ。でも、まだ詰めが甘い。俺だけではどうにもできないこともたくさんある。だから、どうか俺に君たちの力を貸してほしい」
ニール殿下はそう言うと、深く頭を下げた。
「そんな……王子が私たちに……」
アイザック様が目を見開いて驚く。
生徒会の皆さんもぽかんとしている。
「頭をお上げください、殿下」
最初に口を開いたのはハーバート様だった。
「聞きましょう。あなたの話を。我々にできることがあるのならば、協力しましょう。なあ、皆! そうだろう?」
アイザック様をはじめ、全員が大きく頷いた。
───職員室。
「まあ、上々の出来とは言えませんが、及第点と言ったところでしょう」
窓の外を見ながらそう言ったのは、化学の教師だ。くたびれた白衣に日光があたり、しわの影が濃くなった。
「さすが先生は厳しくていらっしゃる」
「ほう、ではあなたはこれで満足、と?」
「ははは、まさか。こんなもの序章にすぎませんよ」
笑い合っているのは向かい合わせでソファに掛けている数学の教師と国語の教師だ。
自席で黙って話を聞いていた歴史の教師が顔を上げる。
「やはり私の目に狂いはなかった。あの子ならやってくれると思っていましたよ、ふふふ、ははは……、アーハッハッハッハー」
歴史の教師の高笑いが響く。
こらえきれずに、国語の教師もまた笑い声を上げた。
「いやあ、しかし、学校に平民を入学させたのは正解でしたな。予定よりも時間はかかってしまいましたがね」
「ええ、あの平民サンディー嬢がニール殿下をやる気にさせるとは。王族を味方につける。それが一番話が早いですからね」
「ニール殿下の提案は我々の望んでいたものではありませんでしたが、実行して見ればこれがなかなかとても良い。皆さんもそう思うでしょう」
化学の教師がくるりと振り返る。
「初めはそんなもの、と思っていましたが、こんなに快適なものだとは知りませんでした。まさか、昼休みの延長がここまで、とは」
ニール殿下の提案は、授業時間を調整して昼休みを長くすることだった。つまりシエスタ制の導入だ。
昼休みが長ければ、ゆっくりと食事をとることも昼寝をすることだってできる。この時間を利用して予習復習の学習時間にあてることもだ。生徒全員がそれぞれ、自由な時間を過ごしている。それは、教師も同じだった。
「昼休みに一度自宅に帰ることができる。まさか仕事中にワイフとのんびりとランチを楽しめるだなんてね」
「午後からの授業は先生の機嫌が良い、と生徒たちが話していましたよ。しかも、彼らの化学の成績も少しずつ上がっているとか」
化学の教師が照れくさそうに下を向いて笑う。
他の教師たちも以前よりも時間の余裕ができたからだろう、顔色が良い。
国語の教師がポンと膝を叩いた。
「しかし、皆さん、我々の真の望みはこんなものではない。必ずや、叶えてみせましょう!」
「今年こそ、クランシーを生徒会に! そして、週休3日制を導入させるのです」
「しかし、クランシーは人望は厚いのですが、どうにも野心がない。ゴールはまだ遠いかもしれない。私の定年までに間に合うかどうか」
「まあ、奴がダメでも諦めるのは早いですよ」
化学の教師が全員の顔を見回す。
「再来年、彼が入学してきます。サンディー嬢の、弟がね。姉のように学校に革命を起こしてくれることでしょう」
その声に、教師たちは一瞬息を呑んだ。そして、顔を見合わせてニヤリと口の端を上げる。
「皆さん、まだまだこれからですよ。合言葉は覚えていますね?」
もちろん、と教師たちが大きく頷く。
窓を閉め切った職員室に、教師たちの揃った声が響いた。
「───もう働きたくない!!」
なんとかギリギリ、2024年中に新作を更新することができました。
有効期限内に有給休暇を消化することができなかった私の嘆きをこの短編に込めました。
休みたかった……!
今年も応援ありがとうございました。ものすごく励みになっています。
来年もまたよろしくお願いいたします。
よいお年をお迎えください。