第10話 米とパンって美味しいよね
それから更に一週間ほどが経過した。
この森――というか、ゴブリンさんたちと芝狼さんたちの生活もだいぶ慣れてきたと思う。
「――ではもう一度説明しますね。これが「あ」、これが「し」、しについている二つの点が濁音を表す濁点といいます。次の文字が「さ」、最後が「い」。これで「あじさい」の完成です」
「あじさい!」「あじさい! 長の名前!」「なまえ! あじさい!」「あじさい!」
「はい、皆さん、よくできましたね」
「「「ほめられたー! わーい」」」
……可愛い。芝狼さんとっても可愛い。
褒められて喜んでる姿は、現代社会の荒波にもまれまくったアラサーの心をこれでもかという程に癒してくれる。
自分は現在、ゴブリンと芝狼さんたちに文字を教えていた。
といっても、この世界の文字は知らないのであくまで自分がいた世界の日本語、それも平仮名だけだ。
彼等は思った以上に知能が高く、スポンジのように文字を吸収、学習していった。
ゴブリンさん、芝狼さんでそれぞれ分けている。
まだまだ両種族間での会話が難しいし、自分もそこまでのキャパはない。
自分はそこまで仕事が器用に出来る男じゃないと自覚している。
なので手間はかかるが、別々に。
「皆の『きょーいく』とやらは順調か?」
「ホオズキさん。ええ、順調ですよ。これなら日常会話はまだ難しいかもしれませんが、単語でのやり取りは、かなり上手くなってきました」
「そうか。それはいいことだ」
「そうですね」
現在、彼らの間では日本語が共通の言語として機能し始めている。
「おはよう!」「おばよー!」
「おぎゃよ」「おきゃんよ!」「おはーよー」
今のは挨拶は、ゴブリン、芝狼を交えての挨拶だ。
発音や言葉遣いはたどたどしいが、種族の垣根を越えて、意思疎通が出来るようになってきている。
「それじゃあ、今日はここまで。今覚えたのを、皆でやってみてね」
「「「「はーい」」」」
生徒たちに挨拶をして、自分はホオズキさんと共に洞窟の外へと向かう。
陽気の中、ナズサさんたちが騎乗訓練に励んでいた。
自分達が来たことに気付くと、タンポポさんがこちらに駆け寄ってくる。
「ソースケ! まっちぇだお(待ってたよ)!」
「タンポポさん、だいぶ言葉が良くなってきましたね」
「えへへ……」
自分が褒めると、タンポポさんは嬉しそうに尻尾を振るう。
最近では、この仕草がとても可愛く思えて仕方ない。自分は薄給であった為、ペットを飼うなんて夢のまた夢であった。叶う事なら猫や犬を飼いたかった。疲れて帰ってきたこの身を癒してくれるペットが欲しかった。
まさかそんな夢を、異世界で叶えることになるとは思わなかった。
……まあ、タンポポさんはペットではなくあくまで相棒なんだけど。
「それじゃあ、今日もよろしく頼むよ」
「うん! ぎゃんばぼーね(頑張るね)!」
ここ最近、タンポポさんの言葉使いは目に見えて上達してきている。
発音はまだまだだが、簡単な単語だけの会話ではなくなっている。
自分もまた、こういった訓練を経て、自分の能力――いわゆる『会話できる力』が働いている時と、働いていない時の違いも分かるようになってきた。
力が働いているときには、彼らの言葉がとてもなめらかに聞こえるのだが、どこかフィルター越しに聞こえている感じなのだが、力が働いていなければ、こうしてたどたどしいが、きちんと彼らの本来の声で聞こえるのだ。
ひょっとしたらこの「力」も、自分の意思である程度調節が出来るのかもしれない。まあ、その辺は時間を掛けて検証していけばいい。
それよりも今は目の前の訓練に集中だ。
「それじゃあお願いします」
「うん!」
手綱を握りしめると、タンポポさんは一気に加速する。ぐっと足に力を籠め、タンポポさんの体に足を密着させる。そしてここ最近で掴んだコツが、足だけでなくおしりでバランスを取るのが重要だという事だ。
お尻を起点にしてバランスを取ると、とてもいい感じに乗りこなせるのである。こう、頭からお尻までにしっかり一本の芯を通す感じ。これが出来るようになってから、タンポポさんとの訓練も一気に上手くいくようになってきた。
「あははは! ソースケも上手くなってきたね! それじゃあもっと激しくいくよー!」
「あ、ちょ、ちょっと待って下さい! そっちは崖――」
ぐんぐん加速するタンポポさんは躊躇うことなく崖へ一直線。
そして思いっきりジャンプすると、そのまま重力に従って落下した。
「う―――うぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
「アハハハハハハハハハハハハハハ! 風が気っ持ちいーーーーーーーーーー!」
涙でにじむ自分の目が辛うじて捉えたのは、タンポポさんの体から伸びる蔓であった。
それが周囲の木々にまきつくと、ぐんっ! とそこを起点に旋回。落下のエネルギーを拡散するように、綺麗に着地。漏らさなかった自分を誇っていいと思う。
「はっ……はぁ、はぁ、はぁ……し、死ぬかと思いました」
「アハハハハ! 大げさだよソースケは! ホオズキさんやアセビさんたちはこんなのとっくにこなしてるって」
「じ、自分には自分のペースがあるので……。タンポポさんには申し訳ありませんが……」
「気にしなくていいよー。ボクも久々に崖下りして楽しかったし♪」
いや、下ってなかった。あれは完全にただ落下していただけだ。
とはいえ、そんなことをツッコめる余裕は今の自分には無かった。
「んじゃ、戻ろうか」
「…………もう少しだけ、休ませてください」
「仕方ないなぁ。ほい、寄り掛かっていいよ」
タンポポさんはごろんと横になると、尻尾でお腹の辺りをぺしぺしと叩く。
自分を背もたれにしていいと言っているのだろう。
タンポポさんのお腹に背中を預けると、そのふわっふわな毛並と温かさがこれでもかと押し寄せてくる。あぁ、これは人を駄目にする柔らかさだ。
現代社会には無い最高の癒しが異世界にはあったのだ。
「助かります。ふぅー……ん?」
タンポポさんによりかかり、呼吸を整えていると、ふとあるモノが目に入った。
「これは……?」
「どうしたの、ソースケ?」
タンポポさんが後ろから覗き込んでくる。
「タンポポさん、見て下さい。これって麦ですよ! こ、こっちには稲も……!」
「むぎ? いね?」
「食べ物ですよ。まさかこっちの世界にも自生していたなんて……」
驚きである。
というか、麦と稲って同じところに自生出来るんだろうか?
自分はあまり農業に明るくないのでよく分からない。
しかし日本で見たものとは多少形は違うような気がするが、間違いなく麦と稲だ。
タンポポといいこちらの世界と自分の居た世界には随分と共通の植物が生えている。なにか理由でもあるのだろうか?
「食べ物? これ、食べれるの? どうやって食べるの?」
「えっと、確か、この先の実の部分を乾燥させて脱穀して――」
うろ覚えの知識だが、タンポポさんに説明すると、ものすごくよだれを垂らしながら、目をきらめかせた。尻尾もぶんぶん振れている。
「お米、それにパン……。なんか聞いてるだけですっごく美味しそう。ソースケ、それ作って! 食べたい食べたい!」
「……自分も食べたいですが、現状だと難しいですね」
「えー、どうして」
「脱穀などの機材も必要ですが、なにより素材の『量』が全然足りません」
足元に生えてる稲と麦はそれぞれ畳一枚ほどの面積しか自生していない。これではとてもではないが、満足できる収穫量など期待できないだろう。
自分達で量産するしかないが、ここは異世界、未知の世界。
自分のあやふやな知識でどうこうなるとは思えない。
栽培するにしても、相応の長い時間を要するだろう。
だが実物を見たことで、自分の中での白米欲がモリモリと湧き上がってくる。
炊き立ての白米を茶碗山盛りによそって思いっきりかっ込みたい。
鮭フレークや、梅干し、ああシメには卵かけごはんなんてのも最高だ。
自分は卵かけごはんには醤油とごま油派。
たまに韓国のりなんかで味変もしていた。
醤油の代わりに行者にんにくの醤油漬けなんかも合うんだよなぁ……。
(……どうしよう。凄く食べたくなってきた……)
こちらの世界での食事は、基本的に肉と魚、それに果物が中心だった。
プロティンである程度は賄っているが、それでも米やパンを食べたいという欲求は強まる一方だ。というか、現物を見たらその欲求は収まるところを知らない。
「まあ、いくつかサンプルに摘んでいきましょう。ひょっとしたらホオズキさんやアジサイさんなら、なにか知恵を頂けるかもしれません」
「うんっ」
その後、自分達は麦と稲を少しだけ収穫し、洞窟へと帰還した。
あと、毎回の事だが、洞窟は小高い丘の上にあるので、毎回崖を登らなくてはいけない。未だに慣れない怖さである。
タンポポさんの体から蔓を伸ばしてジャンプ。そこからまた蔓を伸ばしてジャンプ。百メートル近い崖を僅か十秒程度で登り切ってしまうタンポポさん、本当に凄い。
こんな急斜面の丘の上にある洞窟から、これまでゴブリンさん達がどうやって上り下りしてたかと言えば、ここ以外にもいくつかの入口があり、そこから出入りしていたらしい。
自分を最初に発見した場所もその途中にあったそうだ。
崖の上にある入口以外はかなり狭く、マッチョマンになったゴブリンさんでは通れない程の広さなんだとか。他の出入り口は拡張工事中で、それまではこうして芝狼さんらに手伝って貰い崖を登って拠点を往復している。
「あ、ソースケ戻ってきた!」
「おかえりなさい、ソースケ」
「うっほ、うっほ♪」
登って返ってきた我々を、ゴブリンさんたちが出迎える。
「ただ今戻りました」
「ふむ、乗ったまま崖を降りれるようになったか。……ん? それはなんだ?」
ホオズキさんが自分の手に握られた稲と麦を見る。
「稲と麦です。ひょっとしたら皆さんの新たな食糧源になるかもしれません」
「ほう、それは興味深い。ところで、ソースケ。崖を降りられるようになったのなら、そろそろ行ってみないか?」
「行ってみる? どこへですか?」
「もちろん、森の外へだ」
「あっ……」
ここでの生活が板に付きすぎてきて、本来の目的を忘れるところだった。
そうだ。自分は森の外に出て、この世界の人々に接触を図るために、彼らと生活を共にしていたのだった。
「疲れているのであれば、日課の筋トレだけして明日以降にするか?」
「いえ、大丈夫です。向かいましょう」
ようやく森の外へと向かう事になったのだった。
ああ、それにしても炊き立てのご飯が食べたい。
あと日課の筋トレはしんどいからお休みしたい。
日課の筋トレ
腕立て伏せ×100
腹筋×100
背筋×100
スクワット×100
ランニング 10㎞
……を3セット
ちなみにソースケはまだ一回も達成していない
尚、マッチョゴブリンさんらはこれを岩(3t)を背負って行う




