20
その日の夕食前、イーディスは、早い時間に帰宅したアルバートの元を訪れていた。
用事を聞くまでもなくイーディスの手を見れば、青黒く変色し腫れあがっていた。その傷に見覚えのあったアルバートはすぐにイーディスを部屋へと通して、水の魔法を使って癒す。
そうして対応してくれたのはいいものの、イーディスは罪悪感でいっぱいになっていた。
なんせほんの少し前にあまり怪我をしないと約束をしていた。それなのにこんな事態になってしまってイーディスは申し開きもない。
「……」
ばつが悪くて、ソファーの隣に座って魔法を使ってくれている彼に視線を向けられずに、床を見つめていた。
そんなイーディスにアルバートは、ものすごくこの事態を重く受け止め、イーディスの機嫌を伺うように言う。
「……弟が、本当に、申し訳ありません。イーディスに絶対に危害を加えるなと、きつく言ってあるのですが、足りませんでした」
声は少し震えていて、そういえばまだ事情を説明していなかったとイーディスは思い出す。これでは、デリックが襲い掛かってきたのだと彼に伝えているようなものだ。
兄弟間で仲たがいをしては困ると、すぐにアルバートを見上げた。
「いえ、アルバートが想像しているような事ではないんです」
「そう、なんですか?」
「ええ……ルチアが何かデリックに言った様子で、それに突き動かされての行動だと思いますし、私も不用意に手を出してしまいましたから」
「……それでも、弟の落ち度です。貴方に怪我を負わせるなんて」
イーディスに珍しく否定的な言葉をアルバートは口にして、難しい顔をする。
「それに酷く痛むでしょう? 最悪、彼に同じように痛みを与えてでもやめさせるようにします」
決意したように言う彼は、暗い瞳をしていて、少しだけ迫力があった。
「それに、そうでなければデリックの居場所はどこにもなくなってしまう。ダレル国王陛下からも貴族の立場を正式に復活させて、きちんとそれらしく見えるようにするように、と言付かっていますから」
それから、デリックの今後についての話をした。たしかに、こうして教会から出すにあたって、彼が一般の貴族の元でも普通に生きられる、危険のない存在なのだと証明する必要がある。
それは、おもに二つの方向性がある。一つは彼自身の問題。デリック自身が貴族として立場を手に入れて、聖者としての仕事をできるようになる事。
もう一つは伝承の証明、破滅の呪いの伝説の真偽や、デリックの存在を危ぶまれないだけの説明が必要なのだ。そちらは彼自身ではなく、大人の仕事だ。
フェルトン侯爵家と話を付けるなりして、リンツバーク教会の資料を見る必要がある。
この二つの問題をクリアして、やっとデリックは普通に生きることが出来る。
しかし、正直なところ、どちらもまだクリアのめどが立っていない。
少しずつでも交流をしていけば、何とかなると思うが、そうなるまでずっと彼を教育しないわけにもいかないし、それほどダレルは気の長い方ではない。
「貴方に救って貰った恩をきちんと返します。そのためには……例え、デリックを傷つけても……」
思いつめた様子でそういう彼だって、今でも女性が苦手であまり外へ仕事へ行くのに向いてないのに、頑張って稼ぎに出ている。
それは辛い事で少々頑張り過ぎにも思える。
自分の元に、弟の責任がやってきて、それが望んだことであっても少し焦っているのではないかという印象を受けた。
守りたいという気持ちがあるのも知っているし、それを否定するつもりもない。
……でも、苦しい思いは極力しないに限ると思うわ。
「……そうかしら。アルバート」
水の魔法に手を預けながらもイーディスは彼に言った。それにアルバートは黙ってイーディスを見た。
追い詰められて気弱な顔を必死に難しくしている様もそれなりにハンサムだが、あまり似合っているとは言えない。
「アルバートが決死の覚悟で、彼を躾けようとしても、私は悪化するだけだと思います」
お前に弟の何がわかるんだなんていわれたら、それはごもっともな意見で、イーディスが手を出すことはできない。
しかし意見するだけならば自由だろう。
「デリックもアルバートもただ、怯えているだけ。怖くて選択肢が見つからない状態なのよ。アルバートは少しは良くなったけれど、それでも女性と会うのは疲れて怖いでしょう?」
「……」
「デリックも同じで、さらに恐ろしいと思う事をされれば、攻撃する以外の手段がなくなってしまうのではないかしら」
怯えていて怖くて逃げ出したくてもできない、そんな状態が続けば防衛反応で攻撃という手段だって生まれるだろう。
「だからそうではなく、大丈夫な手段を探していった方がいいと思います。ゆっくり近づくだとか、この人といれば安全だと思える、仲のいい相手を作るだとか、そういう事をするのがいいと思います」
現に、女性以外のルチアや、アルバートとは仲良くやれている様子だ。説得されて女性に頑張って会ってみようと思えたりもする。
それならめげずに、チャレンジしていく方がいいだろう。
「あまり悲観的にならず、ゆっくりすすんでいきましょう。まずはアルバート自身も女性恐怖症をなくしてみて、その方法を彼に伝授するなんてことでもいいんです」
アルバートには出来ることがたくさんある。アルバートは人をよく見ているし、水の魔法使いなので共感するのも得意だ。
そういった長所を伸ばして、できることをやったらいい、誰もアルバートの事を後ろから追い立てているわけではないのだから。
考えつつも、だから大丈夫だと水の魔法で怪我を治してくれる彼を見上げる。しかし、どうしても腑に落ちていないという様子でぐっと顔をしかめていた。
「アルバート?」
彼を呼んで首をかしげると、アルバートは流し目で視線だけをイーディスに送った。顔はじっとイーディスの手の甲の噛み痕の方を向けていて、水の魔法がフワフワと揺蕩う。
「……」
「納得いきませんか?」
そんな風に見えたので聞いてみると、アルバートはゆっくり首を振る。けれども険しい表情で続けた。
「……焦ってました。すみません。俺だけでどうにかするのも難しいと思うので、協力していただけると……嬉しいです」
「ええ、もちろん! 少しずつ克服していきましょうか」
ちょっとずつ話す機会を増やしていったり、兄と慕うアルバートと一緒にならばデリックも安心できるだろう。
そう考えて、イーディスがあんな風にしようこんな風にしようと考えていると、アルバートは続けた。
「でも……イーディスを傷つけたことは怒ってもいいですか」
「……はい?」
少し拗ねたような口調で、そういう彼にイーディスは返事をしつつ聞き返した。どうやら先程とはニュアンスが違う様子だったが、言っていることは同じだ。
「貴方は、俺の大切な人です。何があっても傷つけられて黙っている事なんてできない」
「……」
「最近、俺わかってきたんです。元婚約者に対してはまるで、なんとも思わなかったし、傷ついているところなんてそもそも見なかったので、気がつきませんでしたが、貴方方ってとても、小さくて、脆いんですね」
きれいに治った手を包み込むようにアルバートは覆って、両手で握る。
……そりゃあ、こんなスパンで怪我していたら、身が持ちませんから、普通は実感も何もないのでは……。
そう考えつつもイーディスは、彼の言わんとしていることを考えた。
男性から見ればたしかに脆く小さいかもしれない。しかし是非頼ってほしい、頼られて潰れてしまうほど弱い生き物ではないのだ。
「だから、傷つけられているところを見ると、どうしても消えてしまいそうで怖くなる、イーディス」
「そうですか」
「はい。こんな俺が貴方を守れなくて、ましてや身内に傷つけられて憤慨しているだなんて、笑ってしまいますよね」
「……はぁ」
困った顔のまま彼は笑みを浮かべた。それは自虐的な笑みだったが、イーディスには笑いどころがわからなくて、気の抜けた返事を返した。
「……貴方を一切傷つけないまま、ずっとそばでも守って癒してあげられたらいいのにって思ってしまう」
パチパチと瞬きをしてイーディスは無言でいた。
「すみません、イーディス」
……何故謝るのか。
よくわからなかった。守りたいと言われて嫌な気持ちになる人間は少ないと思うし、嬉しい告白だ。それを謝罪で占める意味が分からなかった。
弱いものを見るとイラつくという意味だったらこの謝罪も、納得できる。
そう受け取るのは曲解か、しかしそうでなければいったい彼は何を言いたいのか。イーディスには皆目見当がつかなかった。




