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イーディスはウォーレスと婚約して以来、彼とともに舞踏会に参加していた。
ダレルには婚約者との時間を大事にするのも、結婚生活を上手く送る秘訣だと言われて、それに従ってウォーレスの言うままに着飾って彼に連れられて会場に向かった。
しかしその日は、可愛げがないという理由で喧嘩……というよりも暴力を振るわれて、彼にどつかれて鎖骨のあたりに青あざが出来ていた。
そういう事はたいして珍しくもなく、当時はそうしてぶつかり合うことによってダレルとラモーナのように仲の良い夫婦になるのだと思っていたしウォーレスは自分を必要としていると思っていた。
だから、特に何も考えずに、いつもの通りに愛らしい令嬢たちに一人で声をかけに行くウォーレスの背中を壁にもたれかかりながら見ていた。
連れてくるだけ連れてくるのに、ウォーレスはイーディスと社交をするつもりはない。
綺麗に着飾った婚約者というステータスを持っていたいだけで、それ以外の美しい女性と話をして、あわよくばを狙っている。
そんなところにイーディスがいては邪魔なのだろう。追い払われるようにして彼のそばを離れた。
それにも特に何も思っていなかったし、男の人というのはそういう物だとなんとなく思っていた。
仕事ばかりしてきたので、いまいちプライベートで男性と付き合うという事を掴めていなかったというのもある。
華やかなドレスに身を包んだ令嬢が、彼に声をかけられて頬を染めている。
たしかに顔だけは、ついていきたくなるような強気なかっこよさがあるが、それが眼下に迫ってもイーディスは眉一つ動かさずに「近いです」と言うだけだ。
そういう所も可愛くなかったのだと今ならわかる。
しかしその時は彼が何を望んでいるのかわからなかったし、求められれば最善の策を提出してきた。けれどもウォーレスとイーディスは仕事仲間ではなく婚約関係であり、プライベートな付き合いが必要だった。
だから、それが出来ない自分にウォーレスが心を開かなかったのも頷ける。と後から思えばわかるが、その時は、困ったという感想以外なかった。
楽しげに話す貴族たちの声とうつくしいワルツの音色。それに耳を傾けながら、ただ静かに壁の花に徹する。
イーディスが誰のものか貴族たちはみんな知っていて、声をかける人間などいない。それに、待機は得意だ。時間が過ぎるのを待つだけでいい。
そうして時間をやり過ごしていた。いつもの事なので特段変わった気持ちもない。
「……あの、ここ、隣良いですか」
しかし、その日は変わったことが起きた。見れば開いているとわかるイーディスの隣に、寄りかかるために声をかけてきた男がいた。
ホールの壁際なんてどこでも開いているのにわざわざイーディスのそばを選んで、自信なさげに聞いてきた。
「ええ、構いません」
それに考える間もなく適当に思いついた返答を返す。するとほっと安心した様子で彼……その時は名前も知らなかったがアルバートはとなりに来た。
物珍しさに、イーディスはアルバートをじっと見つめた。
彼はイーディスの方を見ずに俯いていて、たびたび、確認せずにはいられないという様子で、ちらりとホールの一点を確認してから、また視線を下げる。
アルバートは見れば見るほどなんだかしょぼくれた様子で、目には隈が浮かび、草臥れたシャツを着ている。しきりに手を手で揉んで不安な様子を見せていた。
……何かに怯えてる? どうしたのかしら。
イーディスはこんなに大きな男なのに、小さすぎる態度にあまりにウォーレスやダレル、王宮の同僚たちと違って、心配になった。声を掛けてきて隣にいるのだから話くらいは聞いてみようかと思う。
何か、誰かに脅されているとか家庭で酷い目に合っているなら、人に話すだけでもまずは進歩だ。そこから変わる事態だってあるだろう。
そんな風に考えて、何か気の利いたことを言うつもりだった。
「……すみません。その、あまりに痛々しかったので」
しかし、先に話し出したのは彼で、光を纏った水の魔法がフワフワ漂ってイーディスの胸元をさらりと撫でる。そうするとすうっと痛みも痣もなくなってその魔法は温かくて心地よかった。
「余計なことだとは思うけど、貴方みたいな可憐な人が、傷ついてこんな場にいるというのはおかしいと思うんだ。どうか自分を大切にしてください」
心底優しい言葉を言われて、痛みのあった胸元に触れてみた。
ウォーレスによく胸元を殴られるので最近、仕事中もずきずき痛んで仕方がなかった傷がまっさらに消えてなくなっている。
イーディスは彼のなりを見ただけですぐに彼の心配をして、何かしてあげられることは無いだろうかと考えていたが、それはアルバートもまったく同じようだった。
ということはつまり、イーディスは今他人に心配されるような状況にあるという事だ。自分が心配するようなアルバートと同じ姿をしている。
「っ、それでは、失礼します」
まだイーディスはお礼すら言っていないのに、アルバートは突然急いだ様子で歩いていって、そのまま彼を目で追っていると、赤髪の少女と合流していた。
文句をつけられているというか、怒鳴られている様子だが、周りは我関せずといった具合で、ついには手をあげられて、それにアルバートは心底怯えている様子だった。
被害者が女の子だったなら周りだって止めに入っただろう。しかし、彼は図体の大きな立派な男性で、そのぐらいでは到底揺るがない。けれども殴られれば痛みを伴う。
彼に怒鳴られる理由があったのかわからないが、怒気を向けられれば委縮する。
それでも誰も彼に手を差し伸べない。彼自身は差し伸べて、イーディスを心配してくれるような人間なのに。
……あの人のいる状況は私と同じだわ。私も人から今は心配される立場……。
その時初めて自覚して、そしてこれではだめだと思った。これでは、アルバートを心配しても助けてやれる手立てがない。
そして、ぱちんとスイッチが入った。まずは自分が、人から心配されない立場になろうと、そういう決意ができた。
それからのイーディスの行動は早かった。
元から行動力だけは人一倍ある方で、自分はただ淡々とやることをこなしているだけなのだが、他人からはどうにも突発的な行動に見えるらしい。
だから婚約破棄について一時の気の迷いではないかという意見に反論するのが少し面倒だったが、日ごろから習慣であった業務日誌にウォーレスの言動や行動が事細かに記載されていたので、それを証拠にさっさと婚約破棄をすることが出来たのだった。