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ラムネ色に恋をして

作者: 鈴谷なつ

 この恋は、叶わないと始めから知っていた。

 それでも何かしてあげたかった。彼女のことが、好きだから。


 瀬尾涼太は水曜日の昼になると、必ずそこに行くと決めている。

 病院の裏にある、小さな駄菓子屋。お店の前のベンチには、いつも彼女がいる。

 ラムネの瓶を両手で持ち、ぼーっと空を見上げる少女の名前は、もこ。フルネームは知らない。訊いても教えてくれないからだ。

 無表情でラムネの瓶に口をつける、彼女の隣に腰をかける。もこはちら、と涼太の方を見て、ひらひらと手を振った。

「今日もいい天気だね」

「夏だからねぇ」

「もこちゃんはいつもラムネだよね」

「爽やかで美味しいじゃん」

 彼女は表情を変えないまま答える。ラムネの瓶は太陽の光を浴びて、きらきらと輝いていた。


 もこが表情を失ったのは、半年前のことだと聞いている。涼太が彼女と出会った頃には、もうすでに表情を作れなくなっていて、最初は無愛想な子なのかと勘違いしたくらいだ。

 表情を失う病気。原因は不明で、おそらく多大なストレスによるものだ、ということである。とても珍しい症例らしく、治療法も分からない。もこは週に一度、水曜日に病院で診察を受け、その帰りに駄菓子屋に寄る。

 涼太も似たようなものだった。新卒で入社した会社がいわゆるブラックで、残業続き、そして上司によるパワーハラスメント。教えられていない業務を失敗して、理不尽に怒られる。そんなことを繰り返すうちに、精神が病んでいった。都内のはずれにある小さな精神科へ足を運ぶようになったのは、入社してから半年後。その頃には仕事へ行くために電車に乗ると、冷や汗やめまいが止まらなくなっていた。

 会社に行けなくなり、病院通いをすること一ヶ月。病院の周りを何気なく散歩しているときだった、もこに出会ったのは。


 もこのことはもともと一方的に知っていた。否、日本国民で彼女を知らない人の方が少ないだろう。

 人気急上昇中のアイドルグループ、リネットのセンター、もこ。アイドルらしいストレートの長い黒髪を二つにまとめた姿が特徴的で、ツインテールはもこのトレードマークになっていた。

 リネットはアイドル活動としてのライブや音楽番組への出演はもちろん、CMやバラエティ番組でも活躍している。その中でも圧倒的に見る機会が多かったのが、もこだった。

 そんな彼女は、ある日突然活動休止宣言を出した。病気療養のため、とニュースで見かけたが、病名は明かされなかった。もこを中心に活動していたリネットも、テレビで見る回数が減った。

 アイドルグループのセンターが活動休止なんて大変だな、とインターネットニュースで見たときには他人事のように思っていた。それなのに、どうしてこんな辺境の地で、人気アイドルと出会ったりするのだろう。否、人の少ない田舎だからこそ、多くの人に顔の知られているもこも、療養することが出来るのだろうが。


 閑話休題。

 涼太が初めて彼女と出会ったとき、あの人気アイドルのもこ、だということは分からなかった。テレビに映るもこは、いつだってトレードマークのツインテールに、とびっきりの笑顔を見せていたからだ。

 実際に会ったもこは、とても地味な印象だった。長い髪は三つ編みにしていて、ボーイッシュなキャップを被っている。それから黒縁の伊達メガネ。変装はそれで十分なのだろうが、何より印象的だったのは、やはりその表情だ。

 感情の抜け落ちたその顔は、アイドルの彼女からはほど遠い。まるで別人のように見えるもこのことを、何も知らずになんとなく声をかけた。それが出会いだった。

「ラムネ、美味しいの?」

 第一声は確かそんな感じだったと思う。もこはうつろな目で涼太を見上げ、うん、と無表情のまま頷く。全然美味しくなさそうに飲むな、というのが最初の印象だ。

 涼太も真似してラムネを購入し、瓶の蓋を開ける。ひょい、と開けてみせた涼太に、もこは驚いたような声を上げて、すごいね! と言った。

「私、全然開けられないの。いつもおじいちゃんにやってもらうんだ」

「おじいちゃんってこのお店の?」

「うん、優しいよ」

 そう言いながらも彼女の表情は変わらない。なんとなく違和感を覚えながらも、話しかけてきてくれるけど、無愛想な子なのかな、と涼太は自分を納得させる。

「お兄さんかっこいいね。名前は?」

 顔立ちの整った年下の女の子にかっこいいと言われるのは悪い気がしなくて、涼太は素直に名乗る。

「涼太。瀬尾涼太だよ」

「へぇー、爽やかな名前だね」

 ラムネみたい、という言葉がおかしくて、思わず吹き出した。彼女もふふっと笑い声を上げたけれど、表情が全く変わらなかったものだから、涼太は目を丸くした。

「あ、ごめんね。私……表情筋が死んでいるの」

「えっ?」

「普通に笑ったり、泣いたり、怒ったり。そういう表情の変化が出来なくなっちゃったの」

 そう言いながら、彼女は近くの建物を指差す。それは、涼太も通っている精神科だった。精神科医のお世話になっている、ということなのだろう。

 自分より年下の少女が、表情をなくすほど精神的に追い詰められる理由とは何だろうか。一番に思い浮かんだのは、いじめだった。明るく人懐っこそうな女の子だが、学校という狭い世界の中ではどんな些細なことがいじめの要因になってもおかしくない。

 しかし、彼女はあっけらかんとした口調で言葉を続けた。

「ストレスって言われたんだよね。でも思い当たることがなくて、困っちゃうよ」

「ストレス……学校とかじゃなくて?」

「学校なんてほとんど行ってないよ。どっちかと言えば仕事かなぁ」

 ストレスって思ったことはないけど、と少女は言った。

 仕事。見た目から判断するに、高校生くらいだろうか。学校にほとんど行かず、仕事をしているなんて珍しい。

 そこで、ふと気がついた。この女の子、誰かに似ていると思ったけれど、テレビによく出ているアイドルの少女に似ているのだ。涼太は、おそるおそる名前を訊ねる。すると、彼女はようやく訊いてくれた! と無表情で笑い声を上げながら、もこだよ! と答えた。

「もこってまさか、リネットの?」

「正解! お兄さん全然気がついてくれないから、私そんなに知名度ないのかなって不安になっちゃったよ」

 ふふふ、と言いながらも、やはり彼女の表情からは感情が抜け落ちている。

 リネットは知っている。今をときめくアイドルグループだからだ。特別アイドルに興味のあるわけではない涼太でも、テレビを普通に見ていれば目にする。それくらい有名なアイドルなのだ。

 でも、リネットのもこと、目の前の彼女が結びつかなかったのは、変装しているから。そして何より、テレビで見せるとびっきりの笑顔がなかったからだ。

「じゃあもしかして、活動休止宣言をしたのって……」

「そう、急に表情を作れなくなっちゃったから」

 それはアイドルにとって、致命的な症状だったに違いない。

 涼太は彼女に何と声をかければいいのか分からず、黙り込む。するともこは、特に気にした様子もなく、「まぁ最近忙しかったから休めてラッキーだよね」と言ってみせた。

 ラムネの瓶の中で、ビー玉がからんと音を立てる。もこが残っていたラムネを飲み干し、ベンチから立ち上がる。

「お話、聞いてくれてありがとうね、涼太さん!」

「いや、全然。俺の方こそありがとう」

 涼太がお礼を言う必要はなかったかもしれないが、なんとなくそう口にする。それよりも、アイドルに名前を呼ばれたという事実が気恥ずかしい。

 もこはラムネの瓶をゴミ箱に捨て、くるりと振り返る。

「私、来週の水曜日もここに来るんだ。よかったらまた会いに来てね」

 きっと、病気でなかったらとっておきのスマイルが見られていたのだろう。彼女の明るい口調に、そんなことを考える。笑顔が見られなかったことを少しだけ残念に思いながら、涼太は「気が向いたらね」と返し、ラムネを飲み干した。それは一口目に飲んだときよりも、なぜかずっと甘く感じた。


 もこは言葉通り、本当に次の週の水曜日も駄菓子屋の前のベンチに座っていた。白い丸襟のついた紺色のワンピースは、小柄な彼女によく似合っている。先週と同じように三つ編み姿にキャップと伊達メガネをしていて、遠目から見ただけでは、あのリネットのもこだということは分からなかった。

 それでも近寄ってみれば、彼女がひどく人目をひくことが分かる。大きなまん丸の目は薄茶色で、吸い込まれそうなほど澄んでいる。白くやわらかそうな頬はほんのり赤く染まっているが、メイクをしているわけではなさそうだ。肌はきめ細かく、透明感がある。形の良い唇は、さくらんぼのように赤かった。一言でまとめるならば、顔がいい。さすがアイドルと言うべきだろうか。

「本当にいるとは思わなかったよ」

「週に一度の病院の日だもん。涼太さんこそ。本当に来るとは思わなかった」

 二人で顔を見合わせ、くすりと笑う。相変わらず表情は変わらなかったが、感情が声に滲み出ているので、なんとなくどんな表情をしたいのか分かる気がした。

 涼太は先日と同じように、彼女の真似をしてラムネを買う。まだ夏には少し早いけれど、じめじめとした気候に爽やかなラムネはよく合った。

「もしかして涼太さんも、病院に通っているの?」

 オブラートに包まない言葉が、ぐさりと涼太の胸に刺さった。

 精神科に通うのは悪いことではない。頭がおかしくなった訳ではなく、れっきとした病気なのだから、治療してもらって当然なのだ。

 それでも心が弱いからだと会社で責められたことを思い出して、冷や汗が出た。

「あっごめん、もしかして嫌なこと訊いちゃった?」

「ううん。あそこの病院、俺も通っているよ」

 彼女が責めるつもりで訊いたわけではないことは分かっている。だから涼太は素直に彼女の質問に答えた。

 もこはふぅん、と小さく呟くと、仲間だね、と明るい声で言った。相変わらずその顔に表情はない。

「私、お医者さんに通うのは抵抗があったの。病気なんかじゃないのに、って」

「…………」

 涼太から見ると、もこは病人だ。ずっと表情が変わらない、というのはやはり病気に思える。

「涼太さんは精神科に通っているのに、あんまり変じゃないよね」

 ドキッとした。もこの飾らない言葉に、思わず眉をひそめた。それはあまりにひどい表現だ。

「変、っていう言い方は良くないよ」

「えっ?」

「どんな病気であれ、その人なりに必死で生きているんだから、変だなんて言葉で一括りにするのは良くないと思う」

 少なくとも涼太は、今の自分の病状を変と評されるのは辛い。そう思って言ったことだったが、さすがに他人に対して説教はやりすぎだっただろうか。涼太はおそるおそるもこの表情を窺うが、当然彼女の表情に変化はない。

 数秒の沈黙が、ひどく長く感じた。からん、とラムネの瓶が音を立てたのをきっかけに、もこはようやく口を開いた。

「私、誰かに叱ってもらったの、初めてかもしれない」

「え?」

「お父さんもお母さんも、私の機嫌を損ねないように必死だから」

 それはもしかして、彼女がアイドルという特殊な職業だからだろうか。芸能界には詳しくないが、きっとリネットほど人気のアイドル、そしてセンターのもこならば、両親を軽く超えてしまうくらいには、稼いでいただろう。

 お金は人を変えてしまう。もこは詳しく話そうとしなかったが、なんとなくそんな事情なのではないか、と思った。

「でも子どもの頃とか、叱られたりしなかった?」

「私、小さい頃から優等生だったし。子役をやっていたから、大人の顔色を伺うのは得意だったの」

「ええ……想像つかないなぁ」

 たった二回しか会っていないが、涼太の前でのもこは、人懐っこい天真爛漫な女の子、というイメージだ。優等生のイメージには程遠い。

「涼太さんの前では素だから」

「どうして?」

「カウンセリングの時間、本当は三十分なのに、一時間だってお母さんに嘘をついているの。今この瞬間はそうやって無理矢理作った唯一の自由な時間だから」

 ここでは着飾らないって決めているんだ、と彼女は言った。たぶん、微笑もうとしたのだろう。口元がかすかにぴくりと動いたが、笑顔の形にはならなかった。

 活動休止中の人気アイドルが、表情を失ってしまった、なんて知られたら大ニュースになるだろう。もこの母親もそれを危惧しているのかもしれないが、自由時間が一週間のうちたったの三十分しかないなんて、さすがに可哀想だ。

「アイドルって大変なんだね」

「そうかな、もう慣れちゃった」

 分単位でスケジュールを管理されるのも、人目を気にし続けるのも。そう言ったもこは、どこか寂しそうな声をしていた。

 どんなに慣れたと思っていても、少しずつそれらは彼女を追い詰めていったのではないだろうか。その結果、ストレスで表情を失うことになったのでは。そんなことを、素人考えで思ってしまう。

 からん、とまたラムネの瓶が音を立てる。もこが残っていたラムネをごくごくと喉に流し込む。CMに出られそうなほど綺麗な横顔に、思わず涼太は見惚れながら、誤魔化すように自分もラムネを煽った。優しい甘さとしゅわしゅわした炭酸が、爽やかさを連れてくる。

「もう行かなきゃ」

 お母さんが待ってる、と立ち上がったもこの後ろ姿に、涼太は声をかける。

「来週も会えるかな」

「……気が向いたらね」

 それは先週、涼太が使った言葉だった。無表情の彼女が、とても優しい声を出したせいだろうか。涼太は、もこの笑顔が見たいと、強く思ったのだった。


 もこのことをもっと知りたいと思ったのはどうしてだろうか。興味本位なのかもしれない。でも、彼女のことを調べる手を止めることは出来なかった。

 インターネットの普及した社会で、人気アイドルグループ、リネットのもこのことを調べるのはとても簡単だった。

 もこという名前は芸名、本名は非公開。リネットでのメンバーカラーは赤、天真爛漫で素直な性格。ツインテールはアイドルらしいからという理由でしている。アイドルになったきっかけは、子役の仕事をしていたときに社長にスカウトされたから。それ以外にも、身長に体重、スリーサイズまで公開されていた。

 活動休止のニュースには、いろいろな憶測が飛び交っていた。彼氏ができてアイドルをやめたくなったのではないか。ファンが多い分アンチも多いので、精神的に追い詰められてしまったのではないか。気分屋な彼女だから、アイドル活動に飽きてしまったのではないか……。

 調べれば調べるほど苦しくなった。もこはどんな気持ちでこれらのコメントを見るのだろう。突然表情を失って、原因不明のまま苦しんでいるのに、あることないこと騒がれている。まだ十七歳の少女には、あまりに酷なように思えた。


 今日は水曜日、病院に行く日だ。電車に乗ると息苦しくなりめまいがするので、歩いて行くしかない。最初はタクシーを使ってみたが、同じ車内に人がいるというだけで緊張してダメだった。

 パニック発作はいつも突然涼太を襲う。ひどいときには過呼吸を起こしてしまうこともあった。どんな発作のときも、決まって目の前が真っ白になって、耳が遠くなる。世界から自分だけ切り離されたような感覚。それが怖くて、公共交通機関は利用できなくなったし、人混みにも行けなくなった。

 運転免許は持っているが、自家用車は持っていないので、必然的に移動は徒歩になる。散歩する時間が増えたのは、かえってよかったのかもしれない。会社をやめてから、ほとんど家を出られなくなってしまった涼太にとって、数少ない運動の機会だ。

 今日も太陽の下を、家から病院まで往復する。病院ではいつも通り薬を処方してもらい、カウンセリングを受けた。発作のことを話すのは辛かった。その瞬間にトリップしたように錯覚し、混乱することもあった。辺鄙なところにある精神科だが、医師もカウンセラーの先生も優しくて、涼太が落ち着けるよういつも静かな声で話しかけてくれた。

 病院の隣の薬局で薬をもらった後は、ぐるりと病院の裏に周り、駄菓子屋に寄る。今日も彼女はそこにいた。白い足を惜しげもなくスカートから出し、ぷらぷらと揺らしている。

「パンツ見えるぞ」

 セクハラかな? と笑いながらそう言うと、意外なことにもこは顔を真っ赤に染めてみせた。そして無表情のまま怒った声を上げる。

「えっち!」

「見てないよ。見えるぞ、って注意しただけで」

「足は見たってことでしょ!」

「そりゃあ、それだけ露出されてたら見るでしょ」

 男だもん、と開き直る涼太に、もこはむむむ、と声を上げる。涼太さんは爽やかそうなくせにスケベだ! なんて言葉を大きな声で言うものだから、涼太は焦って彼女の口を手で塞いだ。

「誤解を招くようなこと言うなよ!」

「本当のことじゃん!」

「……一応言っておくけど、どうでもいいと思っている女の子の足は見ないよ」

「それってフォローしてるつもり? それとも口説いてるの?」

 こてん、と首を傾げるもこ。その顔に表情があったなら、と涼太は思った。もしも彼女が表情を失っていなければ、二人が出会うことはなかった。だけど、もこの笑った顔が見たい。怒った顔も、泣いた顔も、拗ねた顔も、照れた顔だって見てみたい。そう思うのは、欲張りなのだろうか。

「どっちだと思う?」

 もこの真似をして首を傾げた涼太は、いたずらに笑ってみせた。それから駄菓子屋のおじいちゃんからラムネを二本購入し、一つをもこに手渡した。

「開けられないのに」

「ああ、そうか」

 ぷしゅ、と音を立てて、涼太の手の中の瓶が蓋を開く。それをもこに差し出して、先程渡した瓶を受け取る。もう一本の瓶の口を開けると、ぐい、とラムネを煽った。

 じわじわと夏が近づいてきている。だいぶ暑くなってきてので、ラムネの爽快感がたまらなく美味しく感じる。

「涼太さんは、何で精神科に通っているの」

 もこがふいに質問してきたので、涼太は目を丸くする。彼女と初めて出会ってから、一ヶ月ほどの月日が経っていた。今までにも幾度となく質問する機会はあったはずなのに、どうして突然そんなことを訊くのだろう。涼太の疑問は顔に出ていたようで、だって訊いてもいいか分からなかったから、ともこは小さく呟いた。

「……勤めていた会社で、まぁパワハラにあってね。残業続きだったのもあって、ストレスが爆発して……気が付いたら電車に乗れなくなってた」

「電車に? どうして?」

「俺もよく分からないけど……電車に乗ると、突然発作が起きるんだ。目の前が真っ白になって、耳が遠くなって、息がうまく出来なくなる」

 そんな発作。と涼太が言うと、もこは暗い声でそっか、と呟いた。

「東京で電車に乗れないのは辛いね」

「うん。しかも、バスとタクシーでも発作を起こしたことがあって、乗れなくなっちゃったよ」

 はは、と苦笑しながら語る涼太に、もこは無表情ながらも、優しい声をかけてくれた。

「涼太さんなら、いつかきっと、また乗れるようになるよ」

「そうだといいけどな」

「ううん、きっとじゃない。絶対」

 もこと目が合って、ドキッと心臓が音を立てる。最近ではこの無表情にも慣れてしまい、表情を失ってもかわいい子はかわいいんだな、なんて思っているくらいである。

 もこはラムネをごくりと一口飲んで、自分の足元を見やった。ぷらぷらと揺れる足は細く、それでいてほどよく筋肉もついているのは、ダンスをしているからなのだろう。

「私はね、見れば分かると思うけど、表情がどこかにいっちゃったんだ」

「うん」

「ストレスと疲労がどうのこうのってあの先生は言ってたけど、私はあのお仕事、楽しんでやっていただけなのになぁ」

 からん、と瓶の中のビー玉が音を立てて、ぽたりと水滴がこぼれ落ちる。じりじりと暑くなってきた外気温と、冷たいラムネの温度差が浮き彫りになるようだ。

 一口ラムネを煽り、涼太はもこに何か言わなければ、と思った。表情では分からない。でも、彼女が落ち込んでいる、そんな気がしたのだ。

「俺はさ、人混みも苦手なんだ」

「えっ?」

「周りにたくさん人がいるときも、パニックを起こしやすいというか……トリガーは分からないし、毎回ではないんだけど、発作が起きる確率は高くなる」

 うん、と頷きながら、もこが首を傾げる。今は彼女の話をしていたはずなのに、突然涼太の話に戻ったから、不思議に思ったのかもしれない。

「……いつかさ、ライブに行きたいな」

 俯いていたもこが、顔を上げる。大きな瞳が涼太を捉えて、ゆらりと揺れる。

「もこちゃんの帰ってきたリネットのライブ。客席が満員になるくらい人がいる中で、俺も発作を起こさないし、もこちゃんも笑いながらアイドルしているんだ」

「……そんな日がくるかな」

「くるよ、絶対」

 さっきのもこの言葉を借りて、力強くそう言うと、もこは再び俯いた。ぽつり、とラムネを握る手に涙がこぼれて、涼太は息を飲む。

 いつも明るく振る舞っていたけれど、彼女も辛かったのだ。ストレスという名の原因不明の病気。アイドルなのに、笑顔を作ることも出来ない。そんな自分を、きっと責めてしまっただろう。

「もこちゃん、ライブではさ、絶対ファンサしてね」

 キャップの上からぽんぽんと頭を撫でると、彼女はぐす、と鼻をすすり、うん、と頷いた。そして指先で涙を拭うと、ピースサインを作ってみせる。

「涼太さんを客席に見つけたら、とびっきりの笑顔でピースしてあげる!」

「うん、楽しみにしてる」

 アイドルからのファンサービス。それよりも、もっと魅力的なもの。失われた、彼女の笑顔を見ること。それが涼太にとっては何より楽しみなのだった。


 夏が始まり、本格的に暑くなってきた。もこと出会ってから数ヶ月。涼太はいつの間にか、彼女に惹かれていた。もこのいろんな顔が見てみたい、でも一番見たいのは、やっぱり笑顔だった。

 そう願ってみても虚しくて、彼女は今日も相変わらず無表情だ。

「涼太さん、アイス食べたくない?」

「あっおねだりしてるな?」

「バレた?」

 上目遣いに見上げてくる彼女に、ドキッとする。仕方ないなぁ、と言いながら、半分こ出来るタイプのアイスを購入し、片方をもこに手渡す。

「半分こだ」

 どこか嬉しそうなその声に、涼太も自然と笑みが溢れる。表情なんてなくても、彼女の感情表現は豊かだ。アイドルをしていたからか、身振り手振りも大きいし、声にも抑揚がある。今どんな顔をしたいのか、話していれば想像がつくのだ。

 もこは真っ白のワンピースに身を包み、カンカン帽を被っている。避暑地にいるお嬢様みたいだ、と思ったが、それは気恥ずかしいので言わなかった。

 片手にラムネ、もう一方にアイスを持ち、ふあー、と気の抜けた声が漏れ聞こえる。

「どうしたの?」

「暑いねぇ……」

「夏だからね」

 冬になったら、寒いねぇ、冬だからね、というやり取りをするのだろうか。そんなことを考えて、ふっと微笑む。

 こんな病気、早く治ってほしいと切に思っている。もこの症状だって、早く良くなればいい。それなのに、もこと過ごす時間は続いてほしいと願ってしまうのだ。それが矛盾した望みであることには気がつきながら、そっとしておいた。どちらであれ、叶わない恋であることは間違いないからだ。

 リネットのもこを調べたときに何度も目にした、恋愛禁止の文字。いくら活動休止中とはいえ、アイドルの彼女には、自由に恋愛する権利がない。

 たとえ恋愛禁止でなかったとしても、年の離れた精神科通いの男を、もこが好きになってくれたかは分からないが。

 しかし、どんなにもしもを重ねても意味がないことは、涼太も知っている。もこが人気アイドルであることは変わらない事実であり、涼太が彼女に想いを寄せていることもまた。

「涼太さん大丈夫? 何か今日はぼーっとしてるね」

「ああ、大丈夫。ありがとう」

「……ねぇ、来週も病院だよね?」

 毎週水曜日、同じ時間に病院を予約しているのだから、改めて確認する必要はないように思えた。そもそももこと涼太は約束してこの場で落ち合っている訳ではないのだ。

 そうだけど、と頷くと、上目遣いに彼女がいたずらな言葉を囁いた。

「それなら、とびっきりおしゃれをしてきて。私とデートしようよ」

「っ、デート?」

「うん!」

 人生初デート、とアイスを口に運びながら嬉しそうに言うもこに、恋愛禁止じゃないの、と問いかける。

「リネットのもこは恋愛禁止だよ。でも私は今、アイドルでも何でもない、普通の女の子のもこだから」

「……もこって芸名じゃないの? 本名は?」

「それは内緒」

 唇に人差し指を押し当てて、彼女がいたずらっぽい口調で言う。

 普通の女の子としてデートはするのに、名前を教えてくれないのは矛盾していないか。そう疑問に思うが、もこが楽しそうなのでそれで構わないと思った。

 名前なんてものはただの記号だ。どんな呼び方でも、彼女が自分のことだと思えばそれはもこの名前になる。そういうものだろう。

「来週、楽しみにしてるね」

 無表情のもこが背伸びをして、涼太の頬にそっと口付ける。ドクン、と大きく胸が高鳴った。慌ててにやけそうになる口元を隠したところで、ラムネの瓶が地面に落ちた。からんころんと音を立てて転がっていく瓶と、地面に広がる炭酸水。

 涼太は頰が熱くなるのを感じながら、走り去っていくもこの後ろ姿をいつまでも眺めていた。


 おしゃれって何だろう。

 涼太は完全に迷走していた。涼太だって今までに彼女がいなかったわけではない。見目は良いと褒められる方だし、自分で言うのは恥ずかしいがそこそこ女子にもモテる方だ。だからデートだって人並みにはしてきたはずなのだ。

 でも、と涼太は心の中で呟く。

 さすがに涼太も、アイドルとデートなんてしたことがない。イケメンやおしゃれな男性を見慣れているであろうアイドルに、おしゃれだと思ってもらえるような服とは何だろうか。

 クローゼットの中を漁り、服を出しては仕舞うこと数十分。結局涼太はシンプルな白のシャツにカーキ色のチノパンを選んだ。下手に着飾るよりも、シンプルにまとめた方がいいはずだ、たぶん。

 緊張しながら迎えた水曜日。涼太は病院に赴き、カウンセリングを受けた後、いつものように駄菓子屋へ向かった。

 もこはツインテールでもおさげでもなく、ふわふわに巻き下ろした髪を胸のあたりで揺らしている。真っ白なシフォンブラウスに、赤いミニスカート。それからいつもは持っていない小さなブラウンのリュック。いつも通り伊達メガネはかけているが、キャップは被っていない。

「もこちゃん!」

 涼太が少し離れたところから声をかけると、彼女は振り返って大きく手を振った。

「涼太さん!」

 いつもより弾んだ声が、もこの気持ちを表しているようで、涼太も自然に笑顔になる。小走りでこちらに向かってくる姿に、胸がきゅんとした。

「早く行こう! 今日はお母さんにわがまま言って時間作ってきたの! いっぱい遊べるよ!」

「うん、いいけど……どこに行くの?」

「原宿!」

 その言葉を聞いた瞬間、涼太は自分の表情が強張るのが分かった。

 原宿といえば、最も若者の多い栄えた場所だ。東京の中でも僻地に位置するこの駄菓子屋からは、どう考えても電車に乗らないと辿り着けない。

「えーっと、もこちゃん? 俺、電車に乗れないんだけど」

「知ってるよ。……もし発作が起きそうになったら、一緒に電車を降りよう」

 各駅停車の電車にするから、と上目遣いに見つめられる。彼女が何を考えているのか分からない。パニック発作が起きたら、一番迷惑がかかるのは一緒にいるもこだというのに。

 もこは真っ直ぐに涼太を見つめている。

 電車に乗る、久しく避けてきた行為だ。毎回発作が起きるわけではない、でも、起きてしまったら……? そう考えると、正直こわい。

 何も言えずにいる涼太に、もこはしばらく黙っていたが、ぎゅっと涼太の服の裾を掴んだ。

「私もね、一回だけあるの。涼太さんの発作に似たような経験」

 そのときは病院に行かなかったから、パニック発作だったのかは分からないけど。

 もこが小さく呟く。

「ステージの上だった。狭い会場で、やけに他のメンバーのペンライトが目立って見えた。ううん、赤のペンライトはなかったんじゃないかな」

 そんなことがあるのだろうか。

 リネットといえばもこ。圧倒的人気メンバーで、絶対的なセンター。それが彼女だ。ときおり開かれる握手会でも、もこの列はうんざりするほど長く、それでもみんなが彼女と触れ合える数秒を求めてやって来る、以前見た特番でそう取り上げられていた。

 ステージ上から見て、自分を応援してくれるファンが少ないときは、どんな気持ちなのだろう。きっと心細いに違いない。

「MCのときに野次が飛んできたの。アンチの人から、センターを降りろって。他のメンバーの方がセンターにふさわしいって。急に世界に私ひとりぼっちになっちゃったような気がして、目の前が白くなって、息がうまく出来なくなって……」

 ぎゅ、とシャツを握る手に力が入る。もこは俯いて、それからゆっくり顔を上げた。その顔に表情はない、だけど、やわらかな声で言った。

「あれからずっとステージに立つのがこわいよ。またあんな風になったらどうしようって思うの。だけどね、一人じゃないから」

 メンバーがいてくれるから、頑張れるの。

 優しく紡がれる声に、涼太はぐっと唇を噛んだ。自分よりも年下の女の子が、恐怖に立ち向かっているのに、自分はどうだろう。逃げてばかりでみっともない。一人で電車に乗るわけじゃないのだ、もこがそばにいてくれる。

「もこちゃん」

「うん」

「行こうか、原宿」

「…………うん!」

 嬉しそうな声を上げて、彼女がパッとシャツから手を離す。絶対にそばを離れないからね、と男前なセリフをかけられて、涼太は苦笑しながらよろしくお願いします、と返すのだった。


 電車がゆっくり目の前に停車する。両開きのドアが、涼太たちを迎え入れるように開いた。もこが一歩先を歩き、ステップを踏む。そうして振り返り、涼太さん、と小声で呼びかけた。

 バクバクとうるさい心臓。かっこ悪いくらい震える足で、電車へ乗り込んだ。

「……どうしよう。俺、今すごい緊張してる」

「ふふ、実は私も」

 一緒だね、と明るい声でもこが言ってくれたおかげで、少しだけ緊張が和らいだ気がした。

 プシューという音と共に、電車の扉が閉まる。これで、次の駅までは降りられない。平日の昼間だからか、もしくは東京といえど田舎の方だからなのか、電車は比較的空いていた。

「涼太さん、席空いてるよ、座ろう」

 くい、とまたシャツを引っ張られて、もこの隣に腰掛ける。いつも駄菓子屋のベンチに座るときより、ずっと近い距離感。手と手が触れ合いそうな距離に、思わずドキドキする。

 そうしている間にあっという間に次の駅に辿り着いていて、たった一駅といえども電車に乗れたことに涼太は感動した。

「……もこちゃんのおかげだよ」

「ん? 何が?」

「また電車に乗る日が来るなんて、想像も出来なかった」

 いつ発作を起こすかも分からない。原宿までの道はまだ長いし、油断も出来ない。でも隣にもこがいてくれるというだけで、なんだか安心出来る気がした。


 同じ都内にあるはずの原宿が、ひどく遠く感じた。それでも途中下車を何度か繰り返しながら、発作を起こすことなく目的地に辿り着けたのは、間違いなくもこのおかげだろう。

 呼吸が速くなり胸が苦しくなったときには、必ずもこが手を繋いでくれた。「大丈夫だよ、涼太さん。私がいるからね」と言って冷たくなった手を握ってくれる彼女のおかげで、現実に返ることが出来た。

 でも残念ながら、原宿に着く頃には涼太はへとへとになっていた。いつ発作を起こすか、という恐怖と緊張のせいで、疲弊してしまったのだ。

「ごめん、もこちゃん。デートどころじゃなくなっちゃったね」

 疲れ切った涼太を気遣ったもこは、近くのカフェへ連れて行ってくれた。アイスコーヒーとアイスミルクティーを買って戻ってきた彼女に謝ると、こてんと首を傾げる。

「なんで? 私は楽しいよ」

「楽しいって……まだ電車に乗っただけだよ」

「うん! 電車に乗るの久しぶりだったし、何より涼太さんが一緒にいてくれるもん!」

 それだけでもうデートでしょ? といたずらっ子のように首を傾げる姿に、胸の奥がきゅんと鳴く。きっと表情をなくしていなかったら、もっとかわいかったのだろう。もしかしたら直視出来なかったかもしれない。

「もこちゃんは本当に天性のアイドルって感じだよね」

「そう? 全部計算かもしれないよ?」

 上目遣いでそう言う彼女に、涼太はそれもありだな、と考える。天然でかわいらしいのはすごいことだと思うが、全て計算してかわいく見せているのだとしたら、それも素敵だと思ったのだ。

「計算でもいいと思うよ。かわいいことに違いはないし、何よりもこちゃんが頑張っている証拠だと思うから」

「……ファンの人はそんなこと言ってくれないなぁ」

 あざとい、って言われちゃう。そう言ってミルクティーのストローをくわえると、一気に半分ほど飲んでみせた。

 涼太もコーヒーにミルクを少し入れ、喉を潤す。電車の中でひどく緊張していたせいか、やけに喉が渇いている。もこと同じように半分ほど飲んだところでようやく満足して、ストローから口を離す。目線を上げると、彼女がこちらをじっと見つめていた。

「どうしたの?」

「すごいなぁって思って。コーヒー、苦くて飲めないから」

「そういえばいつもラムネを飲んでいるもんね」

「美味しいじゃん、ラムネ」

 ぷく、と頰を膨らませたもこは、お子ちゃまだと思ったでしょ! と拗ねたような声を上げる。

「そりゃあ俺より年下だし?」

「涼太さん年いくつなの」

 言ってなかったっけ? と首を傾げて、二十歳だよ、と答える。

 今更だが、二十歳の男が十七歳の少女とデートしている、というのはアウトなのではないだろうか。法律的な意味でも、世間の目という意味でも。

 暑いはずなのに冷や汗が額を伝う。そんな涼太に気づくことはなく、もこは三歳しか変わらないじゃん! と言ってみせる。

 成人すれば分かることだが、成人してからの三歳差と、それ以前の三歳差では天と地ほどの違いがあるものだ。

 もこのことが好きだと思う。だけど、涼太ともこの間にはいろんな壁がある。

 年の差。アイドルと一般人。そして、病気。

 こうしてデートをしていても、涼太はもこの本名すら知らないのだ。病気のことだってよく分かっていない、それはもしかしたらもこ本人もかもしれないが。

「あっ」

 ふいにもこが声を上げる。驚いて顔を上げると、もこが外を指差して、はしゃいだ声で「私も新しい帽子がほしいな」と言った。彼女の視線の先には、奇抜な形の帽子を被ったカップルが歩いていた。

「……まさかあれが欲しいわけじゃないよね?」

「違うよ! かわいいやつ!」

 涼太さん、一緒に選んでよ、という明るい声が涼太の沈んだ心を引き上げてくれる。本当にデートをしているみたいだ、と自然に笑みが浮かぶ。そんな涼太を見て、もこは嬉しそうな声を上げた。

「やっと笑った!」

「えっ?」

「今日の私の目標。涼太さんをいっぱい笑顔にすることなの!」

 だからたくさん楽しんでね!

 そんな言葉をかけてくれるこの少女に、どうしたら恋心を抱かずにいられただろう。

 この恋は叶わないと知っている。それでも、彼女を好きにならずにはいられなかった。


 少し休んだ後は、ショップ巡りをした。もこの欲しいと言っていた帽子を中心にいろんなショップを見て回る。

 人混みの中発作が起きないか心配だったが、今日は調子がいいのか、発作が起きることはなかった。

 そしてもう一つ心配だったのは、リネットのもこが原宿にいる、とバレてしまうことだった。活動休止中のアイドルがデートをしているなんて知られたら、大ニュースだ。しかし涼太の心配をよそに、もこは平然としていた。

「無表情だから別人に見えるみたい」

 あっけらかんと言ってみせた彼女に、胸の奥がずきんと痛む。人混みで騒がれないという点に関して言えば、それは利点かもしれない。でも、別人に見えるということはつまり、彼女がアイドルとして再び活動することの難しさも物語っているのだ。

 アイドル活動について、もこはあまり話そうとしない。早く復帰したいと言うこともなければ、もう少し休んでいたいと言うことも。

 もこが何を考えているのか、涼太にはさっぱり分からなかった。

「ねぇ、涼太さん! この帽子どうかな?」

 つばの大きめな赤い帽子を被ったもこが、はしゃいだ様子で涼太に呼びかける。きっと気に入ったのだろう。何度も鏡を覗き込んでいる。

「かわいいよ。今日のスカートにもよく似合ってる」

「本当? じゃあ買っちゃおう!」

 もこはあまり買い物に時間をかけるタイプではないようだ。いいと思ったら即決して、商品をレジに持って行く。このまま被っていきます、と言ってタグを切ってもらうと、もこは嬉しそうな声で「女優さんみたいでしょ」と言った。

 今の本業はアイドルとはいえ、もともと子役として活躍していたもこだ。少女漫画原作の実写映画で主演していたのも記憶に新しい。

「アイドルだけど、女優でもあるんじゃないの」

 涼太がそう言うと、もこはふふ、と笑い声をこぼした。

「そうだよ! 私、楽しいことは全部やりたいの」

 天真爛漫な彼女らしい言葉だった。

 じゃあ、今この瞬間、涼太とのデートも楽しんでくれているのだろうか。

 そんなことをふいに思う。楽しんでくれていたらいいな、と考えるのは、涼太がこの時間を楽しいと思っているからなのだろう。

「あ! クレープ売ってる!」

「食べる?」

「もちろん!」

 ワゴンカーで販売しているクレープ屋だったが、行列ができていた。平日の昼間だというのにやけに若い子が多いのはどうしてなのだろう。もこのように何か事情があって学校に行けない子たちなのだろうか。

 二人でクレープ屋の列に並び、メニューを眺める。もこはいちごカスタードと白桃フロマージュの二つで悩んでいたので、「俺が白桃フロマージュにするから一口食べたら?」と提案してみる。すると、もこはじわじわと頰を染めて、恥ずかしそうな声で「……デートみたい」と呟いた。その反応がかわいくて、涼太はにやけそうになるのを抑えながら、デートなんでしょ、と言ってやった。

 出来上がったクレープを持ち、一緒に写真を撮った。もこは相変わらず無表情だったが、写真を見て嬉しそうに「大切にするね」と言ってくれた。

 二人でクレープを食べ、いつものようにたわいのない話をする。違うのは、閑散とした駄菓子屋のベンチではなく人混みの中にいる、ということだけだ。

 クレープが食べ終わる頃、もこが言った。

「そろそろ帰ろっか! あんまり遅くなると、電車が混んできちゃうし」

「うん、そうだね」

 人が多ければ多いほど、もこがバレてしまう確率も上がる。そして何より、発作のことが心配だった。満員電車では高確率でパニック発作を起こしていたように思う。だからできれば空いているうちに帰りたい。

 久しぶりに楽しい時間を過ごしたな、と涼太が一人考えていると、横からもこが「楽しかったね!」と無邪気な声を上げる。同じ気持ちだったことが嬉しくて、そうだね、と笑いかけると、彼女は目標達成だ! と嬉しそうな声で語った。


 帰りの電車も、各駅停車のものに乗り込んだ。行きの電車より少しだけ混んでいて、席は空いていなかった。

 吊り革につかまり、電車に揺られていると、あの会社に通っていた日々を思い出す。サービス残業続きで疲れ果てているところに、飛んでくる上司からの理不尽な言葉。

 一瞬で過去にトリップしたような、そんな感覚だった。

 ぐらり、と視界が揺れる。涼太さん? と自分を呼ぶもこの声がやけに遠くに聞こえる。目の前が白くなって、息がうまく出来ない。ついには立っていることが出来なくなり、電車の床に座り込んだ。

「涼太さん!」

 息が出来ない。世界から取り残されたような、そんな感覚。頭が真っ白で、指先がやけに冷たく感じる。

 目の前に座っていた人が涼太に席を譲ろうとしてくれたが、立ち上がることさえ叶わなかった。

 揺れていた電車が停車する。駅に着いたことがアナウンスされたが、涼太には聞こえていなかった。乗客ともこが肩を貸してくれて、下車することが出来た。

「駅員さんを呼びましょうか?」

「いえ、大丈夫です、ありがとうございました」

 やり取りがひどく遠く聞こえる。少しずつ息が出来るようになり、指先の震えがおさまってくる頃。もこが涼太の手をぎゅっと握ってくれていることに気がついた。

「……ごめん、もこちゃん……」

 ゆっくり視界が戻ってきて、一番に見えたのは大きな目に大粒の涙をたたえているもこの姿だった。

「ごめんなさい、涼太さん……私が原宿に行きたいなんて言ったから……」

 ぼろぼろと涙をこぼして、もこがか細い声で呟く。

「大丈夫だよ、心配かけてごめんね」

 まだ指先は冷たいし、心臓の鼓動もやけに速い。それでももこを安心させたくて、涼太は笑ってみせた。

 その瞬間、もこが眉を寄せ、目を細めて泣き出した。ぐしゃぐしゃの泣き顔に、涼太は思わず息を飲む。

「もこちゃん……!」

「ごめんなさい、ごめんなさい……」

「そうじゃなくて! もこちゃん、表情が……!」

 目線を上げたもこは、未だぼろぼろと涙をこぼしていて、それでもきょとんとした顔をしていた。

 初めて見る表情の変化。感極まって、涼太は握られていた手を握り返し、もこに呼びかけた。

「ねぇ、もこちゃん、笑って」

 もこはまだ状況が掴めていないようだった。流れる涙はそのままに、口角を上げる。

 それはぎこちない笑みだった。でも確かに、涼太がずっと見たいと思っていた、もこの笑顔だった。

「表情、戻ってるよ」

 涼太がそう言うと、もこは自分の手で顔をぺたぺた触る。そして、くしゃりと顔を歪めると、またぽろぽろ涙をこぼし始めた。

「っわ、私……もう二度と、治らないのかと思ってた……」

「……うん、こわかったね」

「アイドルにも戻れないまま、このままひとりぼっちで死んでいくのかなって、そう思ってたの……」

 いつも明るく振る舞っていたもこ。でも本当は不安も恐怖も一人で抱え込んでいたのだ。

 どれだけ辛かっただろう。どれだけ苦しかったのだろう。もこの気持ちを考えると、胸の奥がぎゅっと痛んだ。

「絶対良くなるよ、これからもっともっと、たくさん楽しいことをして、笑顔を増やしていこう」

「……うんっ」

「俺も頑張るから」

 発作が起きた瞬間は、死んでしまうんじゃないかという不安に襲われた。それでももこが隣にいてくれた。手を握って、涼太が落ち着くまでずっとそばにいてくれた。そして涼太のために泣いてくれた。こんなに嬉しいことが、他にあるだろうか。

 泣き笑いの表情で、もこがありがとうと呟いた。そんなの俺のセリフだよ、と返した涼太の声はみっともなくかすれていたけれど、もこはやわらかく目を細めて笑った。


 初めて赤いペンライトを買った。物販コーナーで売られていた、メンバーカラーの赤いTシャツも購入する。その場でシャツの上からTシャツを着ると、なんだか気恥ずかしいような、それでいて余所者ではなくなったような、そんな気分になる。

 リネットのライブ開始時刻が迫っている。ざわめく会場の中は、きっとリネットのファンで埋め尽くされているのだろう。

 涼太は握りしめたチケットに書かれている席の番号を見たが、それが良い席なのか、判断はつかなかった。なんせ涼太がこのドーム会場に来るのは初めて、むしろアイドルのライブに来るのも初体験なのだから。

 そろそろ会場内に入ろうか。時計とにらめっこをして、そんなことを考える。あまりギリギリだと、席を見つけるのに時間がかかってしまうかもしれないからだ。

 人混みは今でも緊張する。最後に発作を起こしたのは、彼女と一緒に電車に乗ったあの時だ。あれから一年。その間は、一度も発作を起こしていない。

 精神科の薬は内科の薬と違い、症状がなくなったからすぐにやめられる訳ではない。未だに涼太は抗精神薬を飲んでいるし、僻地にあるあの精神科に通い続けている。

 変わったことといえば、週に一度だった病院が、月に一度に変わったこと。新しい会社に入社したことによって平日通院出来なくなったので、土曜日に通院するようになったこと。そして、病院の裏でひっそりと営業している駄菓子屋に、足を運ばなくなったことだろう。

 もこは半年前に活動を再開した。テレビで見る彼女の笑顔は、活動休止前のそれと同じもので、何度も心の中でよかったね、と呟いた。

 リネットのライブのチケットは、なかなか取れなかった。人気アイドルだからなのか、それとも涼太がアイドルオタクではなく初心者だからなのか、なかなか先着順のチケットはゲット出来ない。今回のチケットは抽選だったので、初めてライブに来ることが出来たのだ。

 ドキドキと高鳴る胸を押さえて、会場に足を踏み入れる。瞬間、ぶわ、と熱気が伝わってくる。ドーム内の客席はほぼ満席。きらきらとメンバーカラーの五色のペンライトが光っている。その中でも圧倒的に多いのが、赤だった。

 もこを応援している人がこんなにいるのか、と涼太は息を飲む。改めてすごい子と知り合いだったんだな、なんてことを考えながら、チケットに記されている席を探す。なかなか見つけられずにいると、スタッフが案内してくれた。

 涼太の席は、センターステージからかなり近い、前の方に位置していた。これなら見やすそうだ、と安心して荷物を椅子に置く。周りの人が立っているので、涼太もそれに倣いペンライトを持って立ち上がる。

 ぱっ、と音がして、会場の電気が一段階、二段階、と段々暗くなっていく。同時に周りから上がる歓声。これは、始まりが近づいているということなのだろう。緊張しながらペンライトをぎゅっと握りしめる。

「みんな、いくよー!」

 聞いたことのあるやわらかい声が、会場中に響いた。一瞬で泣きそうになったけれど、涼太は必死に堪える。

 ぱあん、という破裂音と同時に、ステージ上にリネットのメンバーが飛び上がる。もちろんセンターは、ツインテールに赤いリボンのもこだ。

「今日も楽しんでいってね!」

 涼太がずっと見たかった笑顔で、もこが両手を大きく振る。それからオープニングとして曲のメドレーが始まった。もこと知り合ってから、リネットの曲にはだいぶ詳しくなった。

 それでも知らない曲が一つあって、ポップな曲調で片想いを歌うその歌詞に、心惹かれる。後のトークパートで、その曲がもこの作詞したものだと知り、もっとそのCDが欲しくなった。物販コーナーに売っているのだろうか、帰りに寄ってみよう、と考えていると、リネットのメンバーがセンターステージの前までやって来る。

「次はCMでお馴染みのあの曲いくよー!」

 聞き覚えのある曲のイントロで、涼太は自分のテンションが上がるのが分かった。リネットの曲の中で、一番好きな歌だ。

 近くで踊る、もこのツインテールが揺れる。彼女に見惚れてペンライトを振ることすら忘れていた。ぎゅっとペンライトを握りしめたまま、ステージ上のもこを見つめる。

 そのときだった。

 ぱ、と視線が合い、もこの表情に一瞬驚きの色が混ざる。

 そして次の瞬間、とびっきりの笑顔で涼太に向かってピースサインを向けてくれたのだ。

 ばくばくと心臓がうるさい。両隣の人が、俺に向けてくれたファンサだ! と騒いでいたけれど、涼太だけが知っていた。あれは、涼太のためにしてくれたファンサービスだ。

 そこからの記憶は曖昧で、終了後の疲労感から、全力でライブを楽しんだことだけは確かだった。

 物販コーナーで気に入った曲の入ったCDを買い、電車に揺られる。発作に苦しんでいたあの頃が嘘のように思えるほど、涼太は多幸感でいっぱいだった。


 病院に通い始めて三年の月日が経った。「今日で一旦終わりにして経過観察をしましょう」という医師の言葉に、涼太は心から喜んだ。

 ひどく長い闘病生活だった。もしかしたら、短い方なのかもしれないが、涼太にとっては長く感じた。

 気持ちがやけに明るい。

 久しぶりに裏の駄菓子屋でラムネを買って飲もうか。

 そう考えて、軽い足取りで駄菓子屋に向かう。店の前のベンチには、誰かが座っていた。真っ白なワンピースに、赤い女優帽を被った女性。近づいていくにつれて、彼女が手にラムネを持っているのが見えて、涼太は息を飲む。

「すみません、ラムネを一本ください」

「あら、お兄ちゃん。久しぶりだねぇ。いつもの子も来てるよ」

 駄菓子屋のおじいちゃんの言葉に、ドキッと心臓が高鳴る。お金を支払って、きんきんに冷えたラムネを受け取った。

 涼太はラムネを片手に、店の前のベンチに座る。隣に座っている女性は、こちらを見ようとはしない。

「ラムネ、美味しいの?」

 緊張しながら声をかける。ラムネの蓋を開けて、からからになった喉を潤した。

「すごいね、私全然開けられないの。いつもおじいちゃんにやってもらうんだ」

 ずっと前に交わしたやり取りを、三年の時を経て繰り返している。

 赤い帽子の彼女が顔を上げる。視線と視線がぶつかり、互いに黙り込む。先に口を開いたのは涼太だった。

「久しぶり。ずいぶん大人っぽくなったね」

「私ももう二十歳だもん」

「そっか。あれから三年経つもんね」

 リネットのもこは、アイドルを卒業した。女優業に専念するという理由だったが、アイドルとしては早すぎる卒業に、多くのファンからは嘆きの声が上がっていた。

「一回、ライブに来てくれたよね」

「うん。ファンサしてくれて、びっくりした」

「来てくれて嬉しかったし、約束したでしょ。……あれから何回もここに来てるのに、全然会えないんだもん」

 拗ねた顔で呟いた彼女は、ラムネの瓶をベンチに置いた。

「今日は久しぶりに来たからね。病院卒業記念」

「そうなの? おめでとう」

 嬉しそうに笑って、手を叩く。もこは帽子のつばを少し上げて、上目遣いに涼太を見つめる。

「あのね、私も、この間リネットを卒業したの。もうアイドルじゃないんだよ」

「ニュースで見たよ。女優に専念するんでしょ」

「そうだけど、そうじゃないでしょ。アイドルじゃないってことは、もう恋愛禁止じゃないんだよ」

 彼女の目に、熱がこもる。どくん、と心臓が音を立てて、涼太は喉を鳴らした。

 見つめ合うこと数秒。彼女の言いたいことは分かっている。涼太が言うべきことも。

「…………今度は聞いていいかな、もこちゃんの本当の名前」

「心菜。出雲心菜」

 いずもここな。だから、もこ。納得して思わず笑みがこぼれる。彼女もやわらかく笑った。

「私、涼太さんの笑顔が好き」

「……俺も。心菜ちゃんの笑った顔が好きだよ。拗ねた顔も、泣き顔も、怒った顔だって見てみたい。だけどやっぱり、一番見たいのはとびっきりの笑顔かな」

 からん、とビー玉が瓶の中で揺れる。ラムネの瓶を伝う水滴が、地面に染みを作った。瓶をそっとベンチに置いて、少し離れたところにある彼女の手に自分のそれを重ねる。

 心菜が潤んだ瞳を涼太に向け、じっと見つめる。

「好きだよ、あの頃からずっと。俺と付き合ってくれますか」

 心臓が早鐘をうっていた。でもそれも今は心地良い。

 心菜は大きな目から一粒の涙をこぼすと、涼太の大好きなとびっきりの笑顔で言った。

「よろこんで!」


 この恋は叶わないと始めから知っていた。

 叶えてくれたのは、他でもない彼女だった。


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[良い点] もこを見た目を表現する『大きなまん丸の目は薄茶色で、吸い込まれそうなほど澄んでいる。白くやわらかそうな頬はほんのり赤く染まっているが、メイクをしているわけではなさそうだ。肌はきめ細かく、透…
[良い点] 全体的に純粋で可愛らしい恋物語、と言う印象を持ちました!私も精神科に通っている身なので共感できる部分もあり、パニック障害に対する知識を持っていた為、主人公の苦しみや戸惑いにも親近感を覚え、…
[良い点] 主人公の真面目で誠実な人柄が丁寧な心理描写からよくわかります。病気にもなってしまうのも、もこちゃんが待ち続ける恋の相手になったのも納得できる素敵な主人公でした。 [一言] 切なくなるくらい…
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