議題1「異世界なぞ無い」提出者:隠岐 利己
──営業一課は、今日も居酒屋『和い和い』に集っていた。
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「あ〜、俺も異世界に転生してーー!」
疎間 保がそう言うと、先程まで談笑していた、隠岐 利己と赤波 真中がすぐさま反応する。
「──うわ、きも。疎間さんって、そっち系すか」
「最近のオタクって、なんですぐ異世界に行きたがるんかね」
それは、昨今のオタクの大半を敵に回しかねない、危険な発言なのではないだろうか。一般女子の屈託ない意見は時に残酷だ。私はハラハラとしながら、今しがた眼前に届けられた、キンキンに冷えたビールジョッキを持ち上げ、その泡を喉ごしで楽しみながら、観戦を決め込むことにする。
「現実がクソだから、異世界で人生やり直したいんだよ!」
まあ、疎間 保の言わんとしていることも、分からんではない。かくいう、私も最近のテレビアニメや、ライトノベルの流行くらいは動向をチェックしている。現代の若者達が、終わりの見えぬ社会人生活に酷く絶望し、創作物の中でくらいは、RPGの主人公のように、強く、気高く、勇者のような存在でありたい。そうした思考に辿り着くのは、考えるに容易い──
などと、私が思考を巡らせている間に、赤波と隠岐は容赦ない指摘を、疎間に浴びせようとしていた。
「でも疎間が転生したって、所詮、疎間な訳じゃん」
「それな、です。疎間さんが転生しても、最初の街のスライムで死にます」
たしかに、何かと疎い疎間 保が異世界に転生できたところで、その世界の何が変わるというのだろうか……。いや、上司である私くらいが彼を信じてやらないでどうする。きっと何か彼にも秘策があるはずである。
「ちがう! 転生したら、女神様からチート能力がもらえるの! そんで最強になって無双できるんだよ!」
なるほど。昨今のテレビアニメでは、主人公であるところの”元無職”や”元社畜”なる者たちが、異世界において活躍できるような反則級の能力を、”女神様”から授かり、”最強”になっていたと記憶している。
「えっ、なんでいきなり、チート能力もらえるんすか? 疎間さん如きに? どういう理屈で?」
現実主義者である隠岐 利己は追撃の手を緩めない。まあ、確かに。何故、実社会で特に何もしていなかったような男達が、いきなり反則級の能力を授かるのか、それは私も甚だ、疑問に感じていた部分ではあったので、その回答は気になるところである。
「お、俺が死ぬ間際に、良いことするんだよ。猫とか、女子高生とかを庇って! そんでトラックに撥ねられて、女神様は可哀想で心の綺麗な俺に、すっごい能力を授けてくれんのよ〜」
疎間 保は恍惚な表情を浮かべ、そう言った。なるほど。そう言われると、どのテレビアニメでも冒頭で、そのような場面があったような。そして、決まって主人公は絶命し、女神から何かしらの能力を授かっていた。これに関して、どのような回答を隠岐 利己は寄越すのだろうか。私は横目でチラリと隠岐を見やる。
すると彼女は、ずれ始めていた眼鏡をクイと指で引き上げ、鋭い目を光らせる。
──いいオモチャ見つけた
とでも、恐らく思っているのだろうか。一瞬、彼女が口元をニヤつかせたのが、私には見え、背筋に悪寒が走る。
「疎間さんが転生目当てで飛び出してきたせいで、いきなり人生終了するトラックの運転手の方が、よっぽど可哀想じゃないですか? 疎間さんは、人一人の人生を故意的に、狂わそうとしているんですよ。異世界に行きたいってしょうもない理由で。それがどれだけ迷惑なことか、わかっていますか? そんな疎間さんのゲスい心の、どこら辺が綺麗なんですか? そんな人が実世界で轢かれそうな猫を助けますか? 助けませんよね? 女神様はそんなことも分からない無能な神様なんですか? 大体なんで、神様が女なんですか? そこに何の脈絡もなく女を出してくるあたり、男の下心丸出しガバガバ煩悩糞設定なんじゃないですか?」
現実主義の隠岐 利己は、早口でそう吐き捨てた。
彼女を怒らせないようにしよう。私は、プリプリとした真っ白に輝くその身を崩さぬよう、箸で摘んだ白子をそっと口に運びながら、そう誓う。うん、和い和いの白子ポン酢は、やはり絶品だ。
「隠岐ちゃん、隠岐ちゃん、言い過ぎ言い過ぎ。疎間、白目剥いてる」
赤波がそう言うので、白子とビールの組み合わせを楽しみながら、私もそちらを見やる。すると、先程まで異世界転生について豪語していた、疎間は放心し、煙でも出しているかのように、あんぐりと口を開けっ放していた。
「あ、あんまりだ……。妄想くらい、妄想くらいさせてくれたっていいじゃないか! お前みたいな現実主義者には聞いてない! ……ひまりちゃんっ! ひまりちゃんはどう思うよ!?」
疎間 保は、さっきから黙々と料理に舌鼓を打っている衣良皆 陽葵に訴えかける。あ、衣良皆の頼んでいる馬刺しも美味そうだな……次に来る時は頼んでみよう。
「む〜? ひまりアニメはよく分かんないけど、タモっちがもっと現実で頑張ればいいと思うよ〜♪ あ、この馬刺し美味し〜♪」
ぐうの音も出ない回答に、疎間は泣いた。
「うわああいやだー! 俺も転生したい! トラックに轢かれてチート能力もらうんだ! そんで美少女ハーレムするんだああ!」
「最後のは、割と叶ってるじゃないですか」
「叶ってないっ! JKとか、エルフとか、聖女様とか、そういうのがいいっ!」
「きも」
「トラックに轢かれるくらいなら、すぐ叶えられますけど」
「こっちのあん肝も美味し〜ぃ♪」
「……あ。お会計、お願いします」
『主任、ご馳走様で〜す!』
──こうして本日も、営業一課は打ち上がった。