48話 傷付いた蜀
俺、北郷一刀は今目の当たりにしている現実に驚愕している、翠の表情を見る限り、彼女も驚いているらしい
俺達二人が驚く理由は一つ、つまりもう一人…白蓮の様子だ
今白蓮は弓を持っている、先程敵から奪い取った物だ…それは良い
問題は彼女がその弓でしている事だ
当たり前なんだが弓である以上やる事は射る事
…射る事なんだが…
彼女は今『騎乗のまま』弓を射ている
弓が相手を射殺せる射程はせいぜい100m前後、確かにそれくらいなら弓を扱うのに長けた人間なら余裕だ
…しかしそれは『拓けた場所で地に足を付けて』という条件での話だ、『森の中で騎乗のまま』ではまず不可能
…しかし目の前でそれが展開されている
両腿で馬体を締め、上半身を斜め前方を向き固定しそのまま射る
草むらがガサリと揺れた、何者かがいたらしい
「すげぇなぁ…」
「あ、あぁ…」
…白蓮は前方の敵を索敵中、俺達は何もせず後ろをついて行くだけ
どうやら白蓮はこちらに矢を向けている人間を発見しては矢を撃ち込んでいるらしい
薄暗い森の中で銀色の鏃や人のいそうな場所を見極めるのはかなり難しい
(なんだ…白蓮、すごいじゃないか)
昨日あれ程自身の事を思い悩んでいたとは思えない
「しっかし白蓮がここまでやるとは…」
「これなら白帝城までは白蓮に任せても大丈夫だな…でも白蓮にここまでの弓の腕があったなんて正直驚きだよな」
「いや〜…紫苑のように速撃ちならともかく一矢ずつしか撃てないあたしなんて…」
謙遜なら良いのだが白蓮は本気でへこんでいる
「「………」」
白蓮はただ自信が持てなかっただけなのかも知れない
…言われ続けた『普通』という言葉が彼女の自信を奪い取ってしまったのだろう
多分騎乗で弓を射る事ができる事を彼女が周りに伝えれば魏も蜀との戦はかなり苦戦していただろう、彼女の技量はそれだけのものがある
しかし彼女には言い出せなかった、先程の発言を聞く限り、
紫苑さんには勝てないという思いからの本音だろう
秋蘭と撃ち合う紫苑さんの技量は並大抵のものではない、互いに三矢続けて放つ程の腕、魏武の閃光と蜀の神弓の異名をもつ、それに比べ白蓮は自分の言う通り一矢ずつしか撃てないのだろう
しかし秋蘭も紫苑さんもあくまで地に足を付けてだ、騎乗で命中させるなんてできない
(…白蓮、気付いてないのか?いや、というよりはまるで…)
…騎乗で当てられるのが普通という認識しかないような…
「白蓮!」
「待ってくれ、後ちょっとなんだ」
首と視線を廻らせ前方を注視している姿に違和感はない、つまり彼女はこの相手が見えない状況に『慣れている』のだ
「…よし、と…で、何か用か?…ほっ…一刀」
「いや、少し話したい事があってさ…いや、悪い、後にしよう、今話すような内容じゃないし」
「な、なんなんだよぉ…」
「帰ったら話すよ」
「おい!一刀ぉ!」
この件は孔明ちゃんに頼んでからだ、真桜がいれば良かったのだがいないのだから仕方ない
「おいっ!二人ともふざけてる場合じゃないぞ!!城が見えてきた!!」
「うぅ〜…」
「よし!俺は南門へ向かう、二人は北門へ頼む、厳顔さんと魏延さんを撤退させてくれ!!」
「わかった!」
「…無理するなよ、一刀」
「応、必ずホウ統ちゃんは連れて戻る、任せてくれ、行くぞ絶影!ハイヤッ!!」
「私達も行くぞ!桔梗達もそろそろ戦始めちまう頃だ!!」
「あ、おい!?翠!待ってくれよ〜!!」
………
……
…
白帝城南門、正面に竹林があり身を隠す場所に困る事のない攻めるに易く、守りに難い地形である
もちろん現城主である張任も気付いているはずである
(…あわわぁ…お、おかしいよぉ…)
もう蜀が来ているのはわかっているはず、しかし南門に変化はない、『普段と全く変わらない』
…明らかに罠、森に隠れる場所などいくらでもあるというのにこの警備はいくらなんでもお粗末過ぎる
「ここまでは順調ですね、ホウ統様」
兵士達はうまくいきそうな気配に浮かれている、確かにここまで一切敵にも出会わず来れた
このまま後は敵の交代の際に突入し、北門の開閉装置さえ抑えてしまえば内から制圧できるはず
…たとえ罠だとしても北門ではもう桔梗と焔耶がもう舌戦を開始しているかも知れない、迷う時間はないのだ
「あぅぅ…わかりました、皆さん、内部に侵入後外壁伝いに北門へ回り込んで城門を解放します…!」
「「「………!」」」
皆の返事が風切り音に掻き消された
「ぐわっ!!」
「ぎゃ!?」
「がぁっ!?」
代わりに響く兵達の悲鳴、いや、悲鳴というより断末魔といった方が適切だ、矢を受けた者達は既に事切れている、自分の周りだけ矢を撃ち込むのを避けたらしい
「…申し訳ありませんホウ統様、それ以上城に近づくのはご遠慮下さい」
後ろからは聞き覚えのある凛とした声
「れ…冷包将軍…?」
「いえ、今の私は将軍ではなく張任様に仕える一介の兵に過ぎません」
弓を番え照準をこちらに向ける冷包、その瞳には冷徹な色を湛えている
「ホウ統様、裏切る結果になり申し訳ありません」
謝罪の意志を伝える冷包
「…ですが私は張任様に仕える身、始めから貴女方とは敵対する運命だったのです」
「あぅぅ…そ、そんな…」
「…申し訳ありません…敗軍の将である私などを取り立てて下さった、貴女の恩に報いる処か、仇で返すような所業、武人として恥ずかしく思います…ですから恥を忍んでお願いいたします、我等に降りて下さい、鳳雛と呼ばれる貴女の事ならば張任様は喜んで迎え入れて下さる事でしょう…」
「…で、できません!」
「…部下の命が掛かっても、ですか?」
周りには無事な兵士達が20名ほど、まだ倒れて息のある者もいる
「っ!?そ…それは…」
「貴女が受け入れて下さるならばそこの者達の命は保証致します…受け入れて戴けますね?」
…内心、麟濡(冷包)は自分がこのような酷い選択を迫っている事を後悔し激しく自分を呪っていた、…本当ならば虫も殺せぬ程に優しい少女、戦の世でなくば人殺しなど絶対に望まない幼い少女に人の命を天秤にかけさせたのだ…何と酷な事だろう
…それでもこの少女にはそれだけの価値がある、もし彼女が自分を恨むのであれば甘んじて受けよう、殺されても構わない、…全ては己が主の為、自分の命の対価が蜀の中核の一つを失わせる事ならば安い物だ
…蜀軍軍師ホウ統、我が主の為、落ちて貰おう…
………
……
…
…今雛里の頭の中はぐちゃぐちゃだ、自分の命など冷包達にとってはまるで玩具同然、それこそものの数秒、弓の一射であの世行きだ
しかし従えば待つのは大切な仲間との殺し合い、助言などする気は無くとも朱里一人に軍略、補給、兵站の確保等の仕事が一極化し、機能は著しく低下するだろう、元々朱里は軍略家ではなく政治家だ、軍事を一挙に引き受けるには荷が重い
…そして何より問題は今から逃げ帰る暇があるかという事だ
逃げ道は完全に閉鎖、逃げるならば竹林の中だろうがあれだけ乱立する竹の間を駆けるなど自分の技量では不可能だ
それに逃げれば自分の周りの兵達は…
「ホウ統様」
掛けられた声に意識が現実へと引き戻された、隣にいる若い男からだ
「…逃げて下さい」
「…え?」
その言葉の意味が現実感を伴わなかった
「私達が時間を稼ぎます、ですからお逃げ下さい」
周りの兵達も頷いた
「そ、そんな事っ…」
つまり彼等はこう言ったのだ
自分の為に死ねと命じろと
「…確かにここで大人しく投降すれば命は助かるでしょう…ですがそうなればホウ統様の身柄は奴らの下、貴女様がいない蜀は間違いなく混乱する…」
「それは…」
「…私には幼い娘がおります…まだ生まれて半年足らずで戦を知りません、親としてできる事なら娘には戦など知らずに暮らして欲しいのです」
…仲間と戦うという事は自国を戦火に巻き込むという事だ、そして彼等には自国に家族が在る
「…申し訳ねぇ…申し訳ねぇホウ統様…」
「…何ですか…?」
矢が数本刺さっている、早くに治療しなければ命に関わる傷、だが彼の言葉は止まらない
「無理を承知でお願いだ…逃げてくれ…あんたが蜀にとって大事なのは俺達だってわかってるんだ…頼む…俺達が少しでも長く持たせる…逃げてくれ…」
倒れた体をなんとか起こし、短弓(馬上で引きやすい短い形状の弓)を腰から抜く
「…わかりました、…お願い…します」
「…ご承諾戴けるのですね?」
冷包は勘違いしたようだ、ならば…
「…ごめんなさい…皆さん…ハッ!!」
「ホウ統様を守れ!!突撃っ!!」
「「「おぉぉぉっ!!」」」
「何っ!?…くっ…雷銅!!ここを頼む!!私はホウ統様をっ!!」
「はっ、お任せ下さい」
急ぎ追い縋る私の前に一人の兵士
「行かせん!!うおぉぉ!!」
「邪魔を、…するな!!」
高速で番えた弓で眉間を撃つ
爆ぜた木偶の脇を駆ける、あの方を逃がす訳にはいかない、どうあっても首を縦に振ってもらえないなら…
「申し訳ありません…ホウ統様…」
麟濡をきつく唇を噛み締めた…
………
……
…
ガン!!ガン!!ガン!!ガン!!
「蜀軍が将兵の一人、厳顔!!貴公らの主、張任にお会いしたい!!何者かおらぬか!!」
城門の前で激しく銅鑼を鳴らし桔梗が大声を上げる
「誰をお探しかな?蜀軍前将軍、厳顔殿?」
「出おったな、鳳蓮」
「出た、とはご挨拶だな桔梗、求めに応えこうやって出てきたというに」
「はっ!笑わせるな、どうせ兵が揃うのをそこで待っていたのだろうが」
「…ふっ、お見通しか」
「…貴様に問う、何故今更蜀に仇為す、…国は定まり!治世の時を迎えた今!戦を起こし民に要らぬ苦痛を強いる意味が何処にあるっ!!」
びりびりと空気が震える程の怒声にも張任は涼しい顔で受け流す
「…蜀の現状の調べがつきそろそろ頃合いだと思ってな、今こそ蜀を正しい政治に導く、私はその為に立ったのだ」
「正しい政治、だと?」
「一つは偽王劉備を排する事、そしてもう一つは蜀を昔の姿に戻す事だ」
ニヤリと笑う張任の意図がいまいち理解出来ない
「さぁ、話は終わりだ桔梗、さぁ、蜀の皆さんがお帰りだ、お前達、丁重にお送りしろ…」
口を歪めて笑う張任
「…あの世へ、な…」
…兵士達の間で鮮血が舞った
………
……
…
槍を振るいだしてからどれくらい経ったのか…、一刻か二刻かそれともまだ四半刻も経たないのかそれすらも曖昧、一刀殿達は無事なのかもわからない状況で焦りばかりが募る…
「てりゃぁぁぁ!!」
突き出す槍は不様に空を切り、襲いくる刃をどうにか弾き返す
ここにきて姑息な山賊共め、我等の間合いより一歩離れて弓で牽制しながらこちらの槍をかわす事に専念し始めた
普段の我等ならばこの程度、苦もなく突破できるだろう…『普段ならば』
だが二人は今仲間を守りながらの戦を強いられている、剣や槍の壁を抜き、弓兵全てを薙ぎ倒すのは不可能だ
(進退ここに窮まれり、か…せめて弓兵だけでも片付けば…)
近付く者など一掃できるというのに…
「あの〜、星ちゃん」
「どうした?風」
「風の事は良いですから構わず戦って下さい」
それはつまり…
「見捨てろというのか?」
「平たく言えばそうですね〜」
「そんな事出来るかっ!!」
あやうく星は激昂しそうになった、友を見捨てるなど出来るわけがない
「そうです!!待っていればきっと機は訪れます!!今は皆で耐えるんです!」
「涼華の言う通り、この様な輩に我等の頚はくれてやる事もあるまい、この程度で音はあげられんさ」
(くっ…一刀殿さえ戻ってくれれば…ん?…なんだ?)
今視界の隅の森の中を黒い影が通った…様な気がした
森の中に変化はない、5人の山賊が弓を構えているのが見える
(…気のせい…か?)
いや、違うな…
先ほど視認した数より山賊の数が2人減っている
黒い影が木の上から飛び降りると同時に下にいた山賊が崩れ落ち、影がまた木の上に消える
次々と弓兵が倒れる内に向こうも周りの様子がおかしい事に気付き始めたらしい
「おいっ!!向こうの弓はどうしたっ!?」
「わ、わかんねぇ!!おい!!お前ら!!どうしたっ!!」
返事はない、気絶させられたのか、既に今生との別れを告げたのかは定かではないが森の中に得体の知れない何かがいるのは確かだ
「お、おい!手空きの奴は森の様子を見てろ!!弓はなるべく一カ所に固まれ!!」
恐怖からかわたわたと森からはい出てきた部下達の数は20人ほど、もともといた弓は40以上いたはず、それほどの数がやられたのかと今更ながら恐怖している山賊達、言われた通りに一カ所に集まっている
…今が好機!!
「涼華!一気に破るぞ!!」
「はい!!」
星が穴を開け涼華が広げる、風は涼華にピタリと張り付き着実に前進を重ねる
弓兵達も焦って弓を構えるが石が木の上から落とされ、次々と矢を叩き落としてくれている
(何処の誰かは知らぬが助勢感謝!!存分に活かさせて頂く!!)
弓がなければ後は星と涼華の独壇場、槍と斧が血飛沫の中を舞う
瓦解した山賊達は統率もなく逃げ出し始めた
「今だ!一気に攻め立てるぞ!!」
「はい!!」
「二人共〜、さっき指示を出していた人は確保して下さい〜」
「はぁ!!」
「せいやぁぁぁぁ!!」
………
……
…
「…風、面目ない…逃げられたようだ」
「ごめんなさい…」
「いえいえ、無事で済んだだけ僥倖でしょう」
「…でも助けて下さったいったい何者だったのでしょうか?」
「ふむ、確かに礼くらいは言わねばな…そこにおるのだろう?出てきたらどうだ?」
「はぅあ!?…ばれちゃいましたか…」
シュタっと軽い音を立て、木から降ってきたのは…
「おや、明命ちゃんではないですか」
「はい!お久しぶりです、風様!」
ペコッと頭を下げる明命
「いったいどうしてこの様な所に?」
「あの、えと、その…た、たまたまです!!」
…残念ながらここは呉の細作部隊の隊長がたまたまで居ていい場所ではない
「…明命、それでごまかせたつもりか?…」
「ご、ごまかしてなんかいないですっ!!」
「………ぐぅ」
「…風様、いくら周泰様の言い訳が苦しくても聞かなかった事にして現実逃避するのはどうかと…」
「で、ですからごまかしてないです!!」
「明命ちゃん、呉で何かあったのですか?」
「…うぅ〜…言えませぇん…」
悲痛そうな表情を浮かべ否定する明命…こうなった明命が頷く事はないだろう
しかし明命の表情をみれば彼女が今どういう状況なのかは推測できる
まだ明命と面識がなかった涼華にはわからなかったが星と風には彼女のこの態度の理由がわかった
…呉で彼女に圧力を掛けられる人物はそう多くない、雪蓮、蓮華、冥琳の三人くらいだろう
その中でこれほどの強制力を発揮する類の命令を下せるのは…
(冥琳だな)
(冥琳ちゃんでしょ〜ね)
…しかしその冥琳が何を考えているのか、…明命を問い質したところで彼女が口を割る事はないだろう、それに今は時間が惜しい
「星ちゃん話はそれくらいにしましょ〜、早くお兄さんを追い掛けないと〜」
「あ、あぁ、そうだな、明命、お主、これからどうする気だ?」
「明命ちゃんさえ良ければこのまま風達と一緒に白帝城にいきませんか?」
「え?…は、はい!わかりました、お供いたします」
質問をやめられた事に明らかに安堵している明命
(風の奴、どうする気だ?この状況では明命が味方かどうかもわからんと言うのに…)
明命だけならば信用も出来ようが冥琳、周瑜が後ろにいるならば話は別だ
だが風には何か考えがあるようだ、ならば風に任せるのが正しいのだろう
「星ちゃ〜ん、早く行きましょ〜」
「…本当に何か考えあっての事なのだろうな…?」
普段と変わらない風の様子に星は些かの不安を覚えるのだった…
巻き上がる大乱の炎はやがて歯止めの効かぬ大きな炎へと………