39話 馬超の信念、呉懿の意地
ガーン!!ガーン!!ガーン!!
銅鑼が激しく音を立てる、続いて朱里が声を張り上げた
「左の兵士さん達は騎兵隊が迂回する進路を塞がないよう注意して下さい!敵兵に対しては盾の隙間から槍襖を構えて極力敵の進行を遅らせて下さい!」
スッスッと羽扇を動かしながら右に左に指示を送る朱里、その無駄のない動きは盤面上の駒を操るが如く、目まぐるしく姿を変える戦場を数手先まで見据えているかのようだ
「伝令!左翼騎馬隊馬岱殿より、騎馬隊出撃す、後方弓隊にて援護されたし。とのこと!」
「わかりました、騎馬隊は一度左翼真正面にぶつかるふりをしてから左へと転身して下さい、弓隊はその後一斉掃射をかけます」
「はっ!」
すぐさま馬に跨がり走り去る伝令
「では私達も行きます!本隊は左翼援護のため左よりに陣を移動させます!後方弓隊は私の銅鑼を合図に一斉に左翼へと弓を射かけて下さい!右翼は後退して弓隊の護衛と本隊の後方を援護して下さい!」
控えた伝令さん達が走る、後は自分の指示が通るのを待つだけ
「翠さん…蒲公英ちゃん…お願いします…」
…朱里は天へと祈るのだった…
蒲公英SIDE
三千の騎兵は一つの槍となり突出してきた敵を薙ぎ払っていく、陣形は雁行の陣、左前方から右後方へと延びる隊の流れに巻き込まれた者に生きる術はないだろう
…しかしあくまで巻き込まれた『者』の場合だ
人としての機能が欠落した人形のような兵士達は槍が嵐のように来る死の河を槍を突き出しながら渡ってくる
腕がちぎれようが足が吹っ飛ぼうがお構い無しに突き進んでくる敵兵
こちらも速度で抜けようとしてはいるが槍が馬体に迫れば勢いを殺して応戦するしかない
更にまずい事にここにきて陣形に問題が起きた
左外側へと展開していた雁行の陣が更に外へと流されているのだ
外へ外へと迂回するうちに長坂橋までの道を大きく外れてしまい着実に崖へと進路を取らされている
守りに特化した陣形だが如何せん攻めにはあまり有効とは言えず、一度立て直さねば進軍などできようもない
「お姉様の隊は!?」
後方を振り返れば五体の人形を一瞬にして薙ぎ払う姉の姿、その勇姿はまさに『誉れも高き錦馬超』その人である
しかし戦場は一人の武勇を評価してはくれない、どんなに個が強かろうと軍で攻める相手には意味をなさない
「…お姉様でも駄目、これじゃ一度下がった方が…」
「馬岱殿、待って下さい!あれを…」
兵の指した先に目をやるといったいどういう事か、突然波が引くかのように人形兵が後退していく
その間を赤髪の少女が進んでくる
「蒲公英、兵を下がらせろ、あたしがいく」
いつの間にか翠が前に来ていた
「お姉様…私…」
翠に耳打ちする
「っ!?本気か、蒲公英」
コクリと頷く
「お姉様には残った兵をお願いするね」
「…わかった、あたしに任せろ」
一歩一歩馬を前に進める翠、引いた波の間から出てきた少女に相対する
「出てきてくれたね、馬孟起、さ、勝負だよ!」
スタッと馬から飛び降りる呉懿
「ま、一騎打ちなら馬上よりこっちの方が楽か」
呉懿に習い馬から降り、すぐさま槍を構える翠
しかし呉懿は一向に武器を構えない、いや、武器を持ち合わせていないようだ
「一騎打ちに武器も無しか?」
「そう思うならかかって来なよ」
「………」
…軽口を叩いてはみたが実際攻めあぐねていたのは翠の方だ
長年の修練で得た『心眼』が何処から攻めていっても反撃で討たれる姿を映し出す
…今ならはっきりわかる、彼女は強い、間違いなく一流の武人だ
「…来ないならこっちから行くよ!…ハッ!」
その瞬間飛来した『何か』を頚を動かして避け胸に飛んできたそれを弾く
弾いた瞬間それが見えた、小さな矢のような物、彼女はそれを高速投げたのだ
矢を弾いた槍は反す間もない
「っ、このっ!!」
振り抜いた槍の勢いを利用し、裏拳の要領で槍を放つ
しかし突進してきた呉懿の姿が一瞬にして掻き消えた
咄嗟に踏み込んだ足に力を込め跳ねると案の定足元を蹴りが通過していった
そのまま回し蹴りを放つがいつの間に体制を立て直したのか跳びはねるように距離を取る
「驚いた〜…私の動きについて来る人なんて初めてだよ〜、姐御だって私が跳び回る前に片を付けにくるのに…嬉しいよ、本気にさせてくれて!」
ニコニコしてる顔とは裏腹に肌を刺すような殺気は消えない…獲物を前にした蛇が舌なめずりして自分の元へ来るのを待っているかのようだ
一方の馬超は彼女の身体能力の高さと戦闘における勘の鋭さに内心舌を巻いた
先程の蹴りは足払いをかわして放ったもの、あのままであれば完全に顔面を捉えたはず
だが彼女は不意打ちで放った足払いをまるでかわされるのが予想済みだと言わんばかりに引っ込め後退したのだ
「そっちも凄いな、あたしの一撃を見切れるのは蜀じゃ張飛くらいなんだけど」
あれの動く物を見る目は異常だから仕方ない…と今まで言い聞かせてきたがどうも今日で年貢の納め時らしい
彼女には銀閃の動きが『見えている』、それもはっきりと
ならばやることは一つだけ、彼女がかわせなくなるまで攻め続ける
幸いあの矢は投げる為の物らしい、投げられる間合いよりも内側、槍の間合いで仕掛け続ければ勝機は必ず見えてくる
そして何より自分は蒲公英に頼まれたのだ
『後半刻』それだけ持たせればいい
「………」
「………」
互いの息遣いのみが二人を二人だけの戦場へと引き込んでいく
「ハァ!!」
先に仕掛けたのは翠
間合いの内側まで入るには先に接近するしか手はない
それは呉懿も予想済み
両手合わせて八本の手投げ矢を左右交互に連続で投擲し続ける
低く腰を落とし、己の愛槍を『突く』
剣などが『線』で攻撃する事のできる武器であるのとは違い矢は『点』で攻撃する武器だ、線は上下左右自由に攻撃できるのに対し、点はただ一点のみを真っ直ぐ突くしかない
…しかし点は受ける相手には恐怖だ、受ける為にはそのたった一点を弾くかかわすしか無いのだ
翠にはかわすという選択肢は無い、かわせばその後は彼女の独壇場、狩られるだけの獲物にされてしまう
…自分の間合いまで後10歩…後は彼女との技量比べだ
的確に急所や致命傷になる場所のみを狙って投げ付けられる矢を左右に弾きながら1歩ずつ距離を詰める
距離が詰まればその分だけ矢が自分に至る速度も上がる…まるで自分から死へと向かって行くようなものだ
しかし翠は攻める、自分の間合いまで後8歩、ジリジリと進んでいく
…ここにきて狩る側と狩られる側、立場が完全に逆転していた
矢が途絶えれば馬超の槍は直ぐさま呉懿に襲い掛かるだろう、先程あそこまで呉懿が肉薄できたのは槍をすぐには使えないように体勢を崩したからだ、今は最小限の動きで手投げ弓を弾く馬超に隙など無いだろう
ここにきて実戦経験の差が大きく出た、幾多の戦場を越えた劉備軍と大きな戦を経験した事の無い劉璋軍ではその差は歴然たるものだ
馬超の間合いまで後5歩
その瞬間馬超にとって決定的、呉懿にとっては致命的な事が起こった
手首に仕込んだ矢が切れたのだ
翠はそれを見逃さなかった
7
6
5
4
3
2
1…今!
ジリジリと進んでいた間合いを一瞬にして詰める
「もらった!!」
戦場に真っ赤な鮮血が舞った…