クリームソーダ クリームが先か ソーダが先か?
クリームソーダ。
甘いメロンソーダに真っ白いバニラアイスを乗せた夢の飲み物。子供の頃、あれは夢の、最高の飲み物だった。親に連れられて喫茶店や食堂に行けば、必ず注文した。
家でも、駄菓子屋にあるような水に溶かしてつくる粉ソーダに100円のバニラアイスを乗せた自家製クリームソーダを作っては喜んで飲んだものだ。
その頃、私にとって儀式と言って良いほど必ずしたことがある。
目の前にクリームソーダを置かれたら、ストローの飲み口を指で押さえ引き抜く。するとストローの中にメロンソーダが入ったままになる。
それをソースのようにバニラアイスに上からかける。2度、3度。白いアイスの表面に緑のソースがうっすらと広がり落ちていく。それから柄の長いスプーンに持ち替え、アイスを削って食べる。
まさに至福の一時。
ソーダのかかった部分がなくなったらまた同じようにしてかける。そしてまた食べる。
そしてアイスを食べきった後、ソーダを飲む。表面に微かに残ったバニラアイスが浮く中、その下のソーダを吸うと、強い刺激が口の中に拡がっていく。
これが私のクリームソーダの食べ方。いや、飲み方と言うべきか。
時が流れ、子供とは冗談でも言えない年齢になった。今でもクリームソーダは好きである。が、それを口にする機会はめっきり減った。いつの間にかクリームソーダが「甘すぎる」飲み物になってしまったからだ。それでも、たまに無性に口にしたくなる時があるが。
代わりによく注文するのが「コーヒーフロート」である。なんてことはない、メロンソーダがアイスコーヒーに変わっただけである。コーヒーフロートの良さは、ミルクやガムシロップで甘さを調節できることだ。
食べ方もクリームソーダと変わらない。
が、今、子供の頃には思わなかった疑問を感じるようになった。
ソーダやコーヒーに乗っているアイス。これはどのタイミングで食べるべきなのだろうか?
それを感じたのは、アイスを食べている時、妙に食べづらいからだ。スプーンを差し込み、削ろうとするとアイスがくるくる回る。力を入れればくるくるくるくる水車のように回る。回るばかりでアイスはいつまで経ってもスプーンに載ってこない。
仕方なく、コップ(グラスなどという洒落た言い方はしない)の内側にアイスを押しつけてブレーキをかけ、削って食べる。
あるいは先にコーヒーを氷が頭を出すぐらい飲む。すると、氷がアイスのストッパーとなって回ることなく食べられる。
そして空になったコップを前に私は考える。
(これって、コーヒーとアイスを別々に頼んだほうが良くないか?)
さすがにカレーとは違う。コーヒーフロートを、クリームソーダをアイスも飲み物もいっしょにぐちゃぐちゃに混ぜて飲むことはしない。だったら別々に頼んでも良いだろう。そしてアイスをすくい、しゃぶしゃぶのように飲み物にくぐらせて食べれば良い。
だが……違う、違う、断じて違う!
私が欲するのはコーヒーフロート、クリームソーダだ。コーヒーとアイス、メロンソーダとアイスではない。
しかしそうなると、ある問題が浮かび上がる。
クリームソーダは、まずアイスを食べるべきか、ソーダを飲むべきか。である。
※以下、コーヒーフロートの場合は、ソーダをコーヒーに置き換えてお読みください。
アイスを先に食べるのは、まず上に乗っかっているから食べるという順番説だ。私が子供の頃したようにソーダをかけることにより華やかさを増す事も出来る。
この場合、アイスこそメインであり、下のソーダはデザートのようなものだ。また、溶けたアイスがソーダと混ざって味がまろやかになる効果もある。
ただ、アイスを食べた後、ソーダをストローですすっていると、何か寂しさを感じた。なんだかソーダが残り物のように感じた。アイスを食べることで、クリームソーダがただのソーダ水にランクダウンしてしまうのだ。
ソーダを先に飲む場合、まずソーダの清涼さを味わうことが出来る。溶けたアイスの混ざったソーダ水は、味がまろやかになるが、ソーダ感に濁りが生じる。鮮やかな緑が濁ってしまう。しかし、ソーダを先に味わえばそれはない。純粋なメロンソーダが味わえる。
その後のアイスも、先述したような不安定さがなくなり安心して食べられる。しかし、やはり最後のアイスに一抹の寂しさを覚える。食後のデザートに食べるアイスとは違うのだ。
子供の頃はそんな不満はなく、ただ純粋にクリームソーダを楽しんでいた。いつからあれこれ注文を付けて満点ばかり求めるようになってしまったんだろう。
私の心がアイスの溶けたソーダのように濁ってしまったのだろうか? 以前はこの濁ったソーダもまたクリームソーダ特有のものとして楽しんでいたはずなのに。
そんな先日。連日の人間の体温を超える猛暑に
(いかん。まるで全裸のおっさんに抱きつかれて全身をペロペロなめ回されているようだ)
不快感に負け、駅前のイトーヨーカドーに駆け込んだ。冷房に浸りながら外では外していたマスクをつける。このマスクから解放され、思いっきり深呼吸できる日は来るのだろうかと思いつつ、店内をぶらぶらしていると、小さなジューススタンドがあった。
クリームソーダもコーヒーフロートもある。300円。
一休みしようとコーヒーフロートを注文したら
「乗せるのはアイスにしますか? ソフトクリームにしますか?」
最近はアイスではなく、ソフトクリームを乗せるバージョンもあるらしい。
珍しさからソフトを選ぶ。アイスと違って安定感はある。が、上部を覆っているため、問答無用で先に食べるのを要求される。ソフトの場合、飲み物を先にして氷の上で、というのが通じない。形が崩れる。コップの縁に押しつけると柔らかすぎて潰れてしまう。
こうしていると、むしろアイスの時に感じたくるくる回って削りにくいのがこのメニューの魅力のひとつだったのだとすら感じる。そうだ、子供の頃はむしろあのくるくるを楽しんでいた。
いつの間にか楽しさが苦しみに変わっていたのだ。クリームソーダは子供の飲み物。時折耳にするクリームソーダ評の意味を知る。
そうだ。クリームソーダを楽しむには純な心が必要なのだ。だが、ソフトクリームもまた悪くない。アイスと同じように食べようとするから駄目なので、ソフトクリームの柔らかな清涼感はアイスとは別の魅力がある。それを否定すると、ソフトクリームの魅力を殺すことになる。
考えるな。食べろ、飲め。これに思考は似合わない。
大人の思考が邪魔をする。考えれば考えるほど深みに入っていく。
クリームソーダ、コーヒーフロート、そのアイスは氷山のように白く、ソーダは密林のように蒼く、コーヒーは大樹の幹のように色濃い。
何だかんだ言いながらも、私は夏、これらを楽しむことを忘れないだろう。