後編・NGな要素について
……では、後編からは努力描写として個人的にNGだと思うことをお話ししましょう。
つまりは前編までの例の逆ってことなんですが、例えば
「派手な修行を一回しました、以上終わり。以後話の筋道は神様チートなんかと全く変わりません」
ってなやり方はとても好印象を得られるとは思えません。
極端なこと言うと、神様に「時間を気にせず無限に修業ができる空間を作ってもらい、そこで○○年修行したから最強になったぜ」の一行で努力描写終了とかね。
これで「そうか、この主人公は努力して力を得たからチートじゃないんだな」と納得してくれる読者を捕まえたら絶対に放してはいけません、何やっても受け入れてくれるでしょう。もう「俺の名は山田努力! 神様にもらった力だけで異世界を蹂躙しているけど名前が努力だから努力系主人公だぜ!」といっても納得してもらえるんじゃないかってレベルで。
そもそも「修行場所を神様に用意してもらう時点でチートじゃないか」というのは本題ではないので横に置いておきます。
とにかくですね、努力なのか努力チートなのかを判断するのは、作者の設定ではなく読者の感想なんですよ。
いくら努力しているんだと設定欄に書いても、その印象を読者に与えることができなければ失敗なのです。
その印象を与えられない大きな原因の一つが「とってつけたような努力」であり、「神様からチートパワーもらいました」と「努力しました」の文章を差し替えても問題ないって状況です。
努力家として主人公を設定し、読者に好感を持ってもらうためには「チートって言われるのが嫌だからチートを手に入れるシーンを努力ってことにしたな」と思われないように(精神面での成長などで)工夫しましょう。
一日練習をサボれば三日分腕が落ちるなんて言葉もありますし、昔頑張って強くなったからと言ってその強さが永遠に保てるわけではないですからね。
更に、真っ当に努力ものを書こうする際に、絶対に忘れてはいけないことがあります。
それは、主人公以外のキャラの存在です。以前「キャラ視点」エッセイで書いたことと被りますが、主人公が努力して強くなるのと同じように、他のキャラも努力しているはずです。というか、主人公が努力に縁遠いタイプであったとしても、他もそうであるってことはないでしょう。時間は主人公のためだけにあるのではありません。
物語の舞台設定はいろいろですが、どんな分野であれ上位に位置する強者は皆相応の努力と経験を積んでいるのは間違いありません。
そんな大前提を忘れて「主人公は努力して最強になりました。周りなんてぶっちぎりです」では納得が得られるはずもありません。
本当なら主人公がそれをやっている間に他のキャラだって成長しているわけですから、主人公以外成長縛りなんてすさまじいチートですよね。
まあ、こういうと「努力で最強になってはいけないのか?」とキレ顔で迫られそうですので補足しておきますと、もちろん努力で最強になること自体は何の問題もありません。
ただし、必ずその成果にふさわしい環境を用意すること。いわばハッタリのようなものですが、ようは「そこまでやれば主人公が最強になるわ」と読者に思わせるくらい「すごい努力」をすればいいわけです。
最初に言いました「日々の努力」とは大きく変わり、特別感あふれる何かを用意する必要があるわけですね。あくまでも「日々の努力」は『みんなやっている』に分類される話ですので(だからこそ、それすらやっていないと思われては努力系主人公として致命的)そこは勘違いしないようにしましょう。
毎日筋トレすることや、毎日勉強をすることは大切です。しかし、それだけでは成長はしても他を超越した存在にはなりません。
そこをはき違えると「毎日指導者もなく木刀で素振りしてたら最強の剣士になりました」とか「毎日一時間勉強していたらノーベル賞受賞しました」のような過程と結果になり、それこそ剣道経験者や研究者からすると「なめてんの?」とキレ顔で迫られることになるわけです。
常識的に考えて、何にも考えずにただ素振りしているだけでは腕の筋トレでしかないですし、毎日一時間の勉強なんて学生レベルだろうがって話ですからね。
ならば現実に経験者のいないファンタジーな分野で~となるかもしれませんが、その時は自分で考えた設定に後ろから刺されないように注意しましょう。
どんな内容であれ、それが誰でもやれる努力であるのならば相対的には大して変わらないのですから。
それと、忘れてはならないことがもう一つ。
努力すれば~なんて言いますけど、そもそもの大前提として「この主人公は努力する人間である」と読者に思わせる必要があります。
どういうことかといいますとね、先ほどから「誰でもできる努力をしているだけでは~」とか言っていましたけど、実はこの「誰でも」というのは「努力をする人間ならば」という注釈が入るんですよ。
ようするに、まず人間は努力できる人間と努力できない人間に分かれるってことです。もし主人公を「努力できない人間」という具合に見られていた場合、その時点でいくら努力していますアピールしても読者が没入できないってことになってしまうのです。
主人公のキャラ設定を無視して、作者の都合で努力させられてんだな。って感じに見られる、ということです。
より具体的に言えば、目標と根性の話ですね。
そもそも、人間目標もなく努力することはまずありません。「夢はオリンピックで金メダル!」って人ならばそれにふさわしい努力をするでしょうが、そんなこと考えていない人がその分野でトップを取れるほどの何かするってことはまずありません。
何事も、まず興味を持ったところから始まり、そこからその道の険しさ辛さを理解し、それでも続ける目標があって初めてその道の経験者って呼ばれるようになるんですよ。
なんの目標もなくただ日々努力していますって、その状況に違和感を覚えない人の方がいないのではないでしょうか?
もちろん、趣味という意味でならば特に意味はなくても毎日やることでしょうが、それだけで頂点を極められるくらいの特訓するかといえば……まあ、本当の意味で頂点極める人ならそれでやってしまえそうですが、常人には無理です。
趣味と言えば、ゲームが好きな人は沢山いますけど、その全員が世界大会に出場するような腕前になるまでやるかって言えばんなことはないですからね。
自分が楽しめる範囲で、ノリと勢いだけが原動力ですって状況ではそこそこの中級者になるのが精いっぱいなのではないでしょうか?
もちろん「楽しいからやっている。そこに限界はない」って本心から言える本物の天才たちの領域に主人公はいる、ということなら別に問題はありません。
ですが、そういう人物像をしっかりと描写しなければまず読者の理解は得られないでしょう。
大半の場合、そこがふわふわした状態で「毎日特に理由も目標もないけど過酷な練習をしています」をやった結果『あ、こいつ作者の都合で動いてるな』判定待ったなしになるわけですね。
以前書きました「キャラ視点」考察でも触れましたが、主人公が作者の都合で動いているという小説として極めて悪い評価がついてしまうわけです。主人公を強キャラにしたいんだろうけど、その結果が前提にあって過程を無視しとるなこいつってな話になるわけですね。
そして、根性の話ですが……まあ、ようするに「オリンピック選手になりたい」と夢見ても実際にそこまでやる人はほとんどいないってことですが、正直これは主人公設定だけの話です。
「主人公は○○という過去を持っている」という設定の中に「こいつ辛い練習とか続ける根性ないだろ」と思われるような、努力系主人公として相性最悪な属性入れていなければまず問題ありません。
大抵の場合、根性の有無なんて結果論ですので、やれたんだから根性あったんだなってだけで終わりですから。
では、その相性最悪な属性って何なのかというと……別に一つだけってわけではないですが、昨今のネット小説でいえば断トツで「引きこもり(あるいはニート)だった主人公が異世界転生して大活躍」ですね。
言い訳しておきますと、実在の引きこもりやニートの方を中傷する意図があってのことではありません。中には複雑な事情をお持ちの方も多いでしょうから。
ですが、小説として考えるなら……世間一般的なイメージからして、まず継続的な努力とか無縁の人種であるって印象が強くつきますよね。
異世界転生したことで心機一転頑張りました、現実世界には存在しない魔法の練習なら頑張れました、ステータスが可視化できるのでモチベーションが保てました……まあ大いにあり得る心境の変化ですけど、それだけで頂点取るのは極めて難しいと言わざるを得ません。
自分が楽しいと思える範囲で頑張った程度で身についた力。それだけで満足するならそれでもいいですけど、繰り返しますが、その程度なら他のライバルたちもやっています。何なら根性、ダメージ耐性が常人をはるかに下回るニート主人公よりも大半がより過酷なことをやっていることでしょう。
所詮「楽しい」を越えて辛いこともあるって段階まで来てしまえば、その時点で止めてしまうって事実には変わりありませんから。
ここまで言うと「引きこもりとニートに喧嘩売ってんのか!」とか「底辺から逆転するから面白いんだろうがこの陰険野郎!」と思われるかもしれませんが……厳しいこといいますと、努力なんてゼロからいきなり始められることではないんですよ。
そもそも、簡単に努力すればといいますけど、それには積み重ねが必要です。
それは数式やら英単語をいくつ覚えたとかそういう話ではなく、本当の意味で「何かを努力した経験」の積み重ねということです。
ここで、誰でも共感できるだろう例を挙げましょう。
全国の少年少女が恐らく内心で思っていることですが……
「毎日学校で勉強させられているけど、こんなもん知って将来何の役にたつの?」
皆さん、現役か卒業組かはわかりませんが、いずれにせよこれ人生で何度も思った経験があるのではないでしょうか?
そう、「誰だかも知らん作者の気持ちを答えよ」とか「水何リットルに塩何グラムを溶かした食塩水の濃度を求めよ」とか「トラップだらけの英文和訳」とか「植物細胞と動物細胞の違い」とか「鎌倉幕府が何年にできたか」とか……そんなん、社会に出た時何の役にたつの?
その問いに、一応学生を卒業した立場の私が独断と偏見でお答えしましょう。
そんなもん、学校のテストとクイズ番組以外で役にたつわけないじゃない。
作者の気持ち? そんなもん作者に聞きなさいというか、答えとされるものって問題を作った奴がどう思ったかでしょ。重要なのは自分がどう思ったかです(作者的にはこちらの意図を常に100%把握してくれる読者しかいない方がそりゃ楽ですが)。
食塩水の濃度? 料理するなら食塩水がしょっぱいかどうかを判断する感覚があれば十分です。19%でも20%でも大して違わないよ。
間違えやすい英文? よほど嫌われていない限りわざわざ間違えやすい文章でコミュニケーションとろうって人はいないでしょ。
細胞の構成の違い? 逆に日常生活のどこで使うのか知りたい。目に見えないし。
鎌倉幕府が何年にできたか? タイムマシンでも開発されない限りは知らなくても問題ないですね。というか、私の使った教科書と今の教科書で内容が違うらしいけどどういうことなの。
知らないと恥をかくってのを除けば、実用性で言えばそんなもんですよ。
正直なところ、テストを終えた2秒後に全てを忘れても何の不都合もないですね。
では、学生時代に義務の期間だけでも10年近くかけてやってきたことは無駄だったんでしょうか?
生憎ながら私は教育の専門家でもなんでもない一般人ですので、肯定的にも否定的にも客観的なデータを元に断言することはできません。
ですが、個人的な感想を述べるのならば、決して無駄ではないはずです。
というのも、覚えた知識自体は専門職に進まない限りほぼ無意味です。それは否定しようがありません。
もちろん、その知識に一度触れることで「専門職に進むかどうかを判断する」という意味では大切なのですが、実用性というだけで言えばまあいりません。
しかしですね、勉強なんてクソくらえと日々思っている少年少女に、その過程を終了したからこそ言えることがあります。
学校の勉強とは、知識そのものを生涯記憶するためにやっているのではなく、どうすれば知識を頭に入れられるのかを経験するためにある。
繰り返しますが、これは何の根拠もない私個人の持論です。
そのうえで言いますが、社会人になると「学校では教わらなかった知識」が求められることは多々あります。それこそ専門職であろうとも「大学で教わったこと」だけで仕事の全てをこなせるなんてまずありえないでしょう。
当然習っていないし知りもしないことなので一から学ばなければならないのですが……そこで、学生時代に勉強してきた人間としてこなかった人間の差がはっきり出るわけです。
そりゃこっちも仕事ですからね、給料が出る以上やる気がないってことはありません。ですが、努力の仕方を知っている人間と知らない人間ではやはり効率や能力に雲泥の差が出るわけです。
学生時代にもいたでしょう? 教科書さらっと流し読みしただけで要点を理解して、問題集あっさり解けるようになる奴と、教科書の重要なところにライン引いて満足して終わる奴とか。ひどいのになると「全部重要」と言って教科書の文字を真っ赤に落書きしているだけで終わってしまっているようなのとか。
当然、この両者の成績には大きな差が出るはずです。前者は一時間勉強するだけで80点は余裕なのに、後者は10時間はやらないと60点もきつい……くらいの差が。
もちろん持って生まれた頭の出来も多々ありますが、効率のいい記憶術、思考術を知っているかは学ぶという点において非常に大きい。それも、塾の講師が教えてくれた~ではなく、自分で試し、自分に適していると自信を持って言えるそれが「ある人」と「ない人」の能力差はドン引きするくらいにあります。
レアケースですが、学生の中には「塾に通い始めたら成績ががた落ちした」なんて人もいますからね。その場合は「塾に行く」だけで満足して勉強したという気分になった結果、ほとんど知識が頭に入っていなかったのが原因だそうです。
高卒と大卒で給料に違いが出るのもそれが理由なんでしょうね。
別に大学で学んだ知識があるかないかなんて、実際会社側からすればほとんど関係ないですよ。テストの成績ではテストを受けた時点での知識しか判断できませんし、結局は一から実務について教育しないと大半が使いものにならないんだから。
じゃあ給料の差は何なんだって言えば、毎週のレポートや卒業論文などを書くために培った「思考力」の有無であると私は思っています。
実際に仕事に使う知識は0から始まっても、それを100にするまでの時間が大きく違い、更にその100の知識を100の成果として出せる経験値があるかどうかはそりゃでかいに決まっています。
そして、それは学問に限った話ではありません。効率よく学ぶにはどうすればいいのか、辛いときにどう自分を励ますか、どう気分を変えるか、テンションをどう上げるか――それを知っている「努力してきた人間」ならば、よほど不向きな分野で無い限りやる気一つである程度のところまでならすぐに行けるはずです。
ですが、そんなこと考えたこともないって人種を主人公に据えているのならば、まず努力するモチベーションから徹底的に積まなきゃならないんですよ。
じゃあニート系主人公は努力しちゃいけないのかっていえば、もちろんそんなことはありません。
効率の良い努力の仕方を知らない、辛いときに継続するだけの根性がない。そんなキャラを主人公に据えてなお「努力系」にしようと思う理由は、ほぼ間違いなく『最初が低いほど成長が書きやすいから』だと思います。
そりゃ最初から成熟した人間として書くよりも、未熟な人間の方が伸びしろはありますよね。
ですが、そこからスタートしているのにいきなり「我、道を究めるために生を受けた者」なんて悟りをいきなり開いて理由なき努力を延々続けられても作者と読者の温度差は広がり続けるばかりでしょう。辛くとも苦しくとも、日々の鍛錬を続ける――なんて、それもうかなり成熟した精神のなせる業ですから。
重要なのは「コツコツ努力してる感」だといいましたけど、そのコツコツを続けられるとは思えない、続けたとしても教科書真っ赤人間の努力ではろくに成長しないだろう、ってな評価を受けたまま努力系やるのは極めて困難であるということです。
コツコツやるだけの理由、目標をでっち上げたとしても、結局今まで述べてきた「そんな根性あるなら引きニートにはならんだろ」に結論してしまうわけです。
主人公を最強の領域まで上げるつもりがないのなら全然問題はないのですが、血のにじむような努力をしている競争者を超えるほどの力を努力で身に着けようってなら……その精神性も重要なのはわかっていただけたと思います。
そこで、重要なのが「環境」です。
ここまで散々「努力できるだけでその人間はある種特別な精神の持ち主である」と言ってきましたが、じゃあ凡庸以下の精神力しか持たないところから始めるにはどうすればいいのか?
本人の精神力なんて無視すればいい。泣き言なんて許さん。できなきゃ殺す。やらなきゃ死ぬだけだ。
という環境にぶち込んでやればいい、というのが私の結論です。
人間、理由なく努力することはできません。目標を持っても、挫折せずに最後まで続けられる人間はほんの一握りです。
それでも凡庸な主人公にやらせようと思ったら、無理やりやらせるしかないでしょう。
やりたくない上にやる必要もないことなんて、やらなきゃいいんですよ。って当たり前の発想を否定するには、どんだけやりたくなくてもやらなきゃいけない状況を作るしか無いんです。
私の前作長編を読んでいただけた方ならこの結論は「そういうと思った」って話かもしれませんが、とどのつまりは通知表や体力測定、給料明細や履歴書というステータスを上げる努力すらできなかった人間が「できなくても大きな問題はない」なんて趣味の範囲で努力してますなんて言っているから違和感が出るんです。
例え「毎日30分散歩します」宣言して3日後には止めている人間であってもライオンに追いかけられれば全力疾走するでしょうし、いくら「ピーマンは嫌い」と言っている子供でも3日絶食の後にピーマン出されれば生のままかじりつくことでしょうからね。
努力できない人間ってのは、切羽詰まらなきゃ努力しないのです。特別な事情がない限りはテストが直前に迫らない限り勉強なんてしなかった私が保証します。
テンプレ的な人気ジャンルでも、似たようなスタイルをとっているものはあるでしょう?
悪役令嬢が必死こいて地位向上を目指すのは「未来に没落するという切羽詰まった事情」があるからですし、パーティ追放もので追放されてから突然覚醒するのも「一人で生きていかなきゃならなくなったから」とも取れますし、ハロワに行くことすらできなかったニートが異世界の冒険者ギルドなんてコミュニケーション難易度MAXな場所に行けるのも「養ってくれる親がいないから」と考えれば納得できるものがあります。
が、その程度では「生きていける程度の努力」をする理由にしかなりません。
作者の都合で動く人形から、自らが作り出した世界で生きる一人の人間として主人公を見たとき、そいつは余裕ができれば怠けてしまうタイプなのではないですか?
もし怠けるタイプであるならば、生活ができるところまで環境を整えたら満足してしまうってことになります。
そこから最強になるまで主人公を怠けさせないためには、最強になるまで艱難辛苦を矢のように撃ちまくってやらなきゃならないでしょう。
その果てに「まあ、問題は解決したけど日課の訓練くらいはやっておくか」となれば「成長したんだなぁ」と微笑ましく感じられ、さらなる地獄に叩き落す準備ができるってもんなわけですよ。
また、要は怠けさせなきゃいいわけですから、指導者を用意するのも有効ですね。
親ですら逆らえない発言力なんて持っている腑抜け系主人公が日々の努力なんてするはずもないので、怠けようとすれば「起き上がらないと死ぬぞ~」くらいのテンションで走らせる鬼の指導者が必須と言えるでしょう。
それに、指導者がいれば「努力の仕方がわからない」問題もある程度は解決しますしね。
主人公が他のキャラに頭を下げるのは嫌だって場合は……おとなしくチート路線に切り替えた方が無難かと。
纏めるとですね、今まで低い位置で燻っていた人間がいきなり努力するなんて言ってもできるもんじゃないですし、やっても続かない上に効率も悪いのが当たり前。
じゃあどうすんだといえば、やるやらないなんて聞いてねぇ、やるか死ぬかだってくらいに主人公を地獄の底の底に叩き落しましょうってことになります。
私が作者として主人公を書くときは、主人公の人権なんて踏みにじりますから。主人公名乗ってんだろ? 最後に栄光を掴むってんなら地獄巡りくらいは最低限の義務ってテンションで行きますから。
義務を果たさずに権利だけ得ようなんて甘えてんじゃねぇ! って常に思ってますから。
まあ、そんなことしなくても「○○になる! なれなきゃ死んだほうがましだ!」くらいの強い意志を持った主人公にすれば問題はないんですけど。
あるいは、前世が競争社会で常に勝者になってきたエリートサラリーマンであり、他者を出し抜く利点と手法を心の底から理解しているというような、自己研鑽はライフワークって人にしても関係ない問題点ですね。
作者がいちいち地獄を用意しなくても自ら飛び込んでくれるので。
あ、一応補足しておきますが、この「強い意志を持つ主人公」系はその意思の方向性を間違えないように注意してくださいね?
ここまでの話ですと、例えば『日本では○○(バスケとかテニスとか)の選手として頑張っていたけれど、不慮の事故により身体に障害を抱えてしまった。情熱だけを持て余したまま絶望して引きこもってしまったが、ひょんなことから異世界に転移し、健康な体を手に入れた』とかにすれば「引きこもりでありながら努力家としての下地ができている」ってことになるとか考えている人いません?
ですが、そのパターンだとそこで「異世界に来たんだから最強の魔法使いになるぜ!」って言いだすと「いや異世界でもバスケとかテニスとか頑張れよ」以外の感想でないですよね。
なに速攻で情熱捨ててんだって話ですし、異世界にその競技がないなら自らが異世界でのパイオニアになるくらいの情熱見せろよとしか思わないですからそこは注意しましょう。強い意志を持っているんだったら、その意思は貫かないと意味ないので。
要するに、努力してきた人間であったとしても、だからと言ってどんなことでもやるのかといえばそれはまた話が違いますってことです。
というところで、そろそろ全体のまとめと行きましょう。
努力系主人公を書く場合、一番大事なのは言うまでもなく「努力すること」ですが、ただだらだら文字数使って見栄えのしない努力シーンを延々と書くのは止めた方が無難です。一から十まで全部書くのではなく、読者に「努力しているんだ」って無意識に思わせるくらいに散りばめるくらいにしましょう。
そして、努力の成果として、強い能力とかだけではなく、精神面の成長にも気を配りましょう。何かを頑張っている人間ってのは何もしていなかった時よりも自信を持つようになるはずです。
逆に、努力しました! と最初に言ってお終いではいけません。努力しているという印象を与えるのに大切なのは「日々コツコツやっている感」です。
また、主人公の設定次第では「コツコツやらなさそう」って印象を与えている恐れがありますので、自分の書いている主人公がどっちのタイプなのかは客観的に判断しましょう。
判断の結果「甘やかすとすぐサボるな」となったのならば、サボることなど不可能な修羅地獄に叩き落しましょう。
……となります。
最後の蛇足。
作者として決して忘れて欲しくないことなのですが、自分で一から考え、容姿年齢性格などの設定を作り、その人生を構築した主人公とは特別な存在でしょう。
しかし、その特別はあくまでも作者本人だけが感じている特別なのであって、読者の皆様方からすれば「星の数ほどある小説の主人公の一人」でしかないということは覚えておきましょう。
努力家であるという印象を与えるのも、初見の読者からすれば路傍の石と大して変わらない主人公を認めて貰うための作業の一環なのです。
読者的には何も知らない主人公が作中のキャラクターに「主人公さん凄い!」と連呼されていてもウザいとしか思いません。苦労してきた道程を知っているからこそ「認めて貰えて良かったなぁ」と感じて貰えるようになるのです。
もちろん、主人公に好感をもってもらう方法はこれ一つではないですが、人に見せる以上は「第三者からすればどう感じるか」は常に忘れないようにしたいものです。
今まで書いてきたエッセイの中で、恐らく私の個人的な趣向が一番にじみ出ている内容……というか、途中から謎の自己啓発みたいになっちゃってますが、ここまで読んでいただきありがとうございました。
異論反論多々あるかと思いますが、以上で私の持論を終了とします。
今回と前回で「チート主人公」と「努力系主人公」について語ってみましたが、小説としての面白さにはぶっちゃけ「どうやって力を得たのか」なんて、それ自体が重要な伏線であったってことでもなければあまり関係ないということはお忘れなきようにお願いします。
主人公を強キャラにしたいなら「理由なんてないけど強いんだ」でも別に問題ないんですよ。
それこそ、主人公以外の強キャラも大抵の小説では出てくると思いますが、それを見て「こいつは努力して力を得たのか、それともチートか?」なんて一々思わないでしょう?
主人公だってそれと同じ。特別な理由を一々描写しなくても「熟練の傭兵の主人公」とか「王国騎士団に所属する主人公」とか、そんな初期設定のハッタリだけで強いって表現は十分できますからね。
最初に「本来戦闘力も魔力も技術も愛も勇気も持たない日本の学生が主人公~」とかにするからこんな苦労しているわけですので、成長過程を描写したいのでなければ(最初から最強にしたいのならば)それ相応のキャラにすればいいだけであると私は思います。
日本人としての知識や文化で異世界相手に革命起こしたいからそれじゃダメ?
それはそれでいいですけど、それが目的なら戦闘力求めるの止めたらいいんじゃないですかね?
何でもかんでも主人公が一人で無双する義務はないんですよ?
自分にできないことを認めて人に頼る。それもまた立派な強さです。