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前編・努力系の演出とメリットについて

 皆様、前回チート主人公についてあれこれ語りましたので、今回は努力系主人公について語りたいと思います。

 基本、この二つってことある度に比較されているセットみたいなものですし、やっぱりチートについて語った以上こっちについても語らないとバランス取れないかなと。


 このエッセイには、私が実際に書いていたとき考えていたことがいろいろ滲み出ている主観率が極めて高い物であると先に宣言しておきますので、それでもと言う方はよろしくお願いします。


 前後編に分かれている理由は単に長くなったからってだけですので、深い理由はありません。

 考察系の内容で一度に20000字はちょっと重いかなと……。

 早速ですが、今回は努力系主人公について語っていきたいと思います。


 最初に、そもそも努力系とは何かってところから行きましょうか。

 ……努力系といえばまあ、一番多い認識は恐らく「コツコツ地道に誰でもできる手段で強くなっていった」って感じでしょう。かなりふわっとしていますが、正直これ以上の定義ができません。

 チートの対義語として考えるんでしたら、神様の力とかそういうのに頼らない主人公ってことになるわけですが……これチートの方でも言いましたが、何をすると努力、あるいはチートなのかは人それぞれなんですよね。

 その辺の話は「作者目線で「チート主人公」について語ってみたい」の方で散々しましたので割愛いたします。


 本エッセイで語ってみたいのは、作者として「努力要素」をどう表現すればいいのか、努力系であることにどんなメリットがあるのか、努力系をやるならやらない方がいいこと、に対する持論になります。

 なんの根拠もない「俺はそう思う」って話ですが、お暇でしたらお付き合いください。


 さて、まず「努力」というと、ここ数年ですっかり広まったチート主人公に嫌気がさしている人からすればそれだけで尊い物のように感じられるかと思いますが、しかし某少年漫画雑誌ではこのような定説があります。


「修行描写は人気が出ない」


 というものです。


 これはまあ、当たり前ですよね。

 創作キャラが30分腕立てしているだけのアニメなんてただの放送事故ですし、4週かけて延々スクワットしていただけの漫画なんてアンケート最悪以外ないでしょうし、ひたすら走っていますと10000字繰り返すだけの小説なんてもはや催眠術の類でしょう。

 修行描写なんてものは、地味なんです。見ていて面白いものではないんです。必殺技の修行のような特別で奇抜な何かならまた話は別ですが、毎日地道にコツコツ続ける類の努力なんて、そもそも見せられても困るんですよ。


 作者だってそれは知っています。その考えの極例がチートなのかもしれませんが、とにかく「地道にコツコツ頑張っている主人公」って印象を付けるのはかなり難しいんです。馬鹿正直にコツコツやらせても、チートとか努力とか以前につまらないでおしまいですから。


 んじゃあどうすんだよ、という問いに対し、私の意見は一つです。


「作者がやるべきことは努力している主人公を作ることではなく、読者に主人公は努力家であると思わせることである」


 というのが、いきなりですが本エッセイの結論です。


 どういうことなのかと言えば、結局、チートだ努力だなんてのは個人の印象にすぎません。所詮は主人公を構成する一要素にすぎず、他に物語として大切なことなんていくらでもあるのです。本当に力を入れるべきなのは力を得る過程ではなく、その力をどれだけテンションの上がる魅せ方で使うかですから。

 つまり「こいつは頑張っているな」と必要最低限の労力で思わせる……それが重要なんですよ。

 頑張っている人間を心の底から嫌うって人はそうはいません。こう言うと「結果が伴わなければ意味はない」なんて突き放す人もいますが、赤の他人の結果だけを見て評価するならばともかく、目の前でひたむきに努力していればそれだけで応援してしまうものでしょう?


 努力要素とはつまり、主人公へ好感を持たせるためのツールであると定義します。

 小説としてのテンポを崩壊させない最低限の文量で「頑張っているんだな」って印象を読者の皆様方へ与える……それが私の考える理想型となります。




 じゃあ具体的には?

 って話に移りますが、これは作者ごとに持論があると思いますが……私は「小出しにして刷り込む」方式がいいと思っています。

 サブリミナルじゃありませんが、章の開始時とか何かしらのイベントの発生前とかに「日課の素振りをしていたら物音が聞こえてきた」という具合に、さらっと努力していましたって一文を加えておく。そのくらいで問題ないと思います。


 もちろん、オリジナリティを出せる(と作者的に思っている)特別な修行シーンなんかはまた話が別ですが、印象に残すという意味ではこのやり方が一番無難かなと思います。

 努力努力といいますけど、勉学にせよスポーツにせよ、結局その大半は地味な反復練習ですからね。

 力で何をするかという結果ではなく、どうやって力を得たかって過程を重視する(あるいはその過程がしっかりしていないと話に入り込めない)人が気にするのは恐らくそこなんだろうなと思っています。


 要するに、強いことに後ろめたさを感じないようにするのが重要。この力は他の人間と同じ正規ルートで得たものなのだから、使っても文句を言われる心配は一切無い。

 という認識が安心感に繋がり、より話を面白く感じさせる一因なのでは無いかと。


 そして、その認識を得るために一番効果的なのは「地道な日々の努力をしっかりやっているのか」なのです。

 派手な技の練習しかしない奴と地味な基礎練習を徹底的に繰り返す奴なら、何となく後者の方が大成しそうでしょう?


 また、自分自身が努力家である人の場合、特に日々の積み重ねの大切さを知っているでしょうからね。

 そんな自分の努力を鼻で笑うようなインチキパワーで成功を収める人種に嫌悪感を持つのはもっともですし、やはり「地道にコツコツ感」は努力系として演出するならば大切なことでしょう。

 努力しているって印象を与えられるのは突発的に行う派手な修行ではなく、描写すらしなくとも「この主人公は毎日頑張っているんだろうな」と思わせるさりげない描写なのだと私は考えます。




 また、努力家主人公を描写するにあたり、もう一つ重要なポイントがあります。

 それは、内面の変化です。武道において鍛えるのは心技体と言われますが、武道に限らず何事も頑張っている人間ってのは精神的にも何らかの変化が起きるものです。

 まあ、その変化が必ずしもいい変化であるとは限りませんし、物語としての属性によってその方向性は様々ですが、まあ王道であればいい変化が起きるほうがいいでしょう。

 修行した。力が付いた。すごい技を覚えた。でも精神面は全く成長していません……って言われると「初めからチートをもらいましたでよかったんじゃないの?」と私は思ってしまいますね。

 人格とは現在に至るまでの様々な経験の蓄積によって作られているものであり、何もしないでダラダラ40年生きてきた人間と、幼いころから真面目に勉学やらスポーツやらを励んできた20才の青年ならば、精神的に成熟しているのは確実に後者ですし。


 これただの愚痴ですけど、転生者が「前世30年、今10才だから現地キャラ(20~30才)より精神年齢では上なんだよな」って論調、私嫌いなんですよね。

 いや、赤ちゃん、幼児扱いされている経験なんて精神年齢的にはマイナスでしょ。甘やかされて何やっても凄いねーと言われて当たり前の、超イージーモード過ぎて気が狂いそうになるような10年もやっていた奴が、一人前の大人扱いされて揉まれている奴よりも何精神的には上って顔してんの?

 と思ってしまいます。


 閑話休題、じゃあ、精神面での成長ってどう演出すんのって話です。

 あくまでも一例であり、元の性格(キャラ)にもよるのですが、基本的には『自信がつく』というのがわかりやすいですね。

 元が気弱だったのならば自然とセリフから自信があふれ出るように意識し、元々強気なキャラだったとしても今までは子供の強がり、成長後は確かな自信に基づいた大人の余裕というものを漂わせるように意識すればいいでしょう。

 まあ、最初からそういうキャラとしてやってもいいんですけど、わざわざ努力系ってスタイルを取るなら精神面でも最初は未熟にして後から成長させた方がよりわかりやすいって話です。


 この話題は『努力系主人公』という枠組みから少し外れますが、まあ「努力と共にこういう感じの主人公に近づいていくってのもありじゃないかな?」ということで少々語ろうと思います。


 成長前の人格に関してですが、他者を見下したり自分にはないものを否定したりと、自信のない人間というのは得てして攻撃的になります。自分の本当の立ち位置を理解しているからこそ、他を下げることで精神的に上位に立とうとするという心の動きです。

 現実で言えば、今や社会問題にもなっているいじめなんかもそこに分類されますね。誰かを攻撃していないと自分が攻撃されるかもしれない。そうなったら太刀打ちできない。だから自分は殴る側でいればいい――というのがいじめの心理の一つだといわれています。

 であるならば、成長後はいじめを止める側に立てれば主人公としての拍が付きますし、あるいはいじめの情けなさに気が付くなんてことでも十分成長は感じられますね。


 ……念のため補足しておきますが、ここで出した例はあくまでも強者に立ち向かう勇気を得たというのが重要なのであって、圧倒的な力を得たからいじめる側に回った(いじめっ子たちをいじめた)では全く意味ないですからね?

 精神的な成長というのは、時に耐えることを覚えるということでもあります。修行して強くなったからひたすら暴力に訴えるぜ、では精神的に全く成長していません。それ力の上下があっただけで、主人公も元いじめっ子も同じ穴の狢であり、これで元いじめっ子がまた強くなったら立場が逆転するを繰り返すだけのクズ蟲毒ですから。

 いじめられたから道場に入門して力を手に入れた。その後「その力でいじめっ子にねちねち復讐した」男と「他のいじめられっ子を守った」男……どっちが格好いいのかって話ですよ。

 自信を得るのと、慢心し傲慢になるのは全くの別物。これは常に頭に入れておきましょう。


 あるいは、他のキャラとの交流で成長を表現することもできます。

 精神的に未熟、弱い人間の特徴の一つとして攻撃的になると言いましたが、それはつまり『自分は成長することができないから、他を落として自分の優位を保とう』ってことです。

 更に言えば、常に「○○よりも僕は強いんだ、正しいんだ、賢いんだ」と宣言し続けないと自信を保てないってことでもあります。

 つまり打たれ弱い。自分を否定する、自分とは違う考え方をしている、自分とは価値観が違う。そういうのに耐えられないってことです。

 本当に精神的に強く、自分に自信を持っている人間の場合、他者を認めることができるようになります。簡単に言えば、人の話を聞ける人間になるのです。

 ただ耳で聞くって意味じゃ無いですよ。相手の言葉に耳を傾けた上で「そういう考え方もあるんだな」と受け入れることができるって意味です。その上で「自分の考えと、この場合はどちらが相応しいかな」と判断し、結果相手の方が優れていると判断すれば素直にそれを受け入れられる。それができればまさに「大人の余裕と度量」って奴を感じるには十分でしょう。

 言い方を変えれば、自分の間違いを認め、他人の美点を褒められるってことですね。


 一例として、異世界転移、転生者系の話でやたらと文明的に地球より遅れている現地人を主人公が内心で見下したりすること、たまにありますよね?

 別にお前が考えたわけでも無い地球の文化、技術を「地球に生まれた」ってだけでよくそこまで自分の手柄面できるなって感じの。

 あれも、これを認識した上での演出なのでは無いかと私は分析しています。異世界という自分の立ち位置が全く存在しない環境への不安から、とにかく「(自分の手柄じゃ無くても)自分は凄いんだ」とアピールすることで精神的な安定を図っているのかと。

 そんな状態から素直に周りを認めるように徐々に変化していけば、なるほど心の安定がなされていったのだなと何となく思いますからね。


 ようするに、未熟なときなら、とにかく自分の考え、プライドが第一。自分に従わない賛同しない奴には敵意むき出しになり、自分以外の立場から物事を考えることをしない。

 成長すれば寛容さを身につけ、相手の主張を受け入れることができるようになり、相手の立場に立って考えることを覚える。

 って感じですかね。

 別に何かしらの努力をすれば誰しもがこんな人格になるというわけではないので、あくまでも一例ですが。


 極端な具体例を出しますと、好きな人は大好きな「殺す覚悟」ってのがありますが……それの成長前の例として、一つ。


『犯人捕縛を試みているお巡りさんに向かって「相手を殺さずに勝利しようなど戦士としての誇りは無いのか! 殺す覚悟を持て!」と説教した』


 その説教している人は「殺す覚悟」とやらを持っているのかもしれませんが、お巡りさんは当たり前ですがよほどの事情が無い限り殺しちゃいけません。捕縛が仕事であり、殺さずに倒すのが目的なんですから。殺す覚悟どころか、最小限の被害で事件を解決する覚悟を持ってお仕事しているはずです。

 こんなことを言う奴がいれば、間違いなく「未熟な精神」と断言できます。仮に「死ぬか殺すか」の世界で生きている人だとしても、真っ当に成長していれば武人に自分の主義を語ることはあってもお巡りさんにそれを言うことは無いでしょう。

 本当に誇りを持っているのであれば、自分とお巡りさんでは立場が違う事は言われなくてもわかるはずですから。


 まあ、これはあくまでも極端な一例ですが、とにかく自信を持つ人間、本当の意味で強さを得た人間は「強がらない」ということです。選挙に出たり組織のリーダーであるというような、特に自分の強さを周囲にアピールする必要がある立場というのならまた話は別ですが、少なくとも自分を騙すために強がることはしません。

 何か一つ自分に絶対の自信を持てるものさえあれば、この分野に関しては自分よりも相手の方が優れていると素直に認められるもんなんですよ。

 道徳の授業じゃありませんが、人の欠点よりも美点を探せる人間になればキャラとしての成長が非常にわかりやすく表現できるってことですね。


 と、言っても先ほども言いました通り、キャラなんて千差万別なわけですし、努力して成長すれば皆が皆こんな感じになるべきだってことではありませんのでそこは誤解無きようお願いします。

 今述べましたのは、あくまでも「こうすれば精神の成長をわかりやすく表現できるんじゃ無いかな?」ってだけの一例ですので。





 ……と、脇道に逸れまくって怪しげな自己啓発みたいになってきたんで、次行きましょうか。

 努力系を描写するにはってことをここまで語ってきましたので、ここからは努力系を書くメリットについて持論を述べていきます。


 努力系主人公のメリットは、言うまでも無く「ひたむきで健気」とか「立派」みたいな印象が強いことでしょう。

 国民性なのか、特に我々日本人は努力と苦労を尊ぶ傾向にありますし。楽して宝くじで3億円手に入れた人間と人生を費やして額に汗して稼いだ3億円だったら、何故か後者の方が立派な人間扱いされたりとか。金だけ見て時給換算で言えば明らかに宝くじ当選者の方が上なんですけどね。

 その手の逸話として、ピエロのメイクに涙がある理由ってのがあります。諸説ありますが、あれ日本でピエロって概念を持ち込んだとき「ヘラヘラしているばかりの道化者などけしからん!」って認識が大半だったので「明るく滑稽に振る舞っている裏で、涙を流すような苦労をしているんですよ」って設定追加したらヒットしたって説もあるそうですよ。昔テレビで見ただけのにわか知識ですので本当かどうかはわかりませんが。


 では、他にメリットがあるかというと、私は「言動に説得力がつく」という効果があると考えています。

 上でも「殺す覚悟~」の例に出しましたような「説教ではなくSEKKYOU」なんて言われて馬鹿にされる行為に「相手のことを考えること無く、自分のことは全力で棚に上げ、理不尽極まりない罵倒を説教の名目で行う」というのがありますが、なんでそんな風に言われるのか。

 それはですね、現実でも同じなのですが……大体の場合、言葉というのは何を言ったかではなく、誰が言ったかで評価されるためです。一言でいうと「お前が言うな」現象。

 そんなことはない、と言いたいかもしれませんが、正直なところこれは事実であると考えます。

 暴飲暴食を繰り返す奴に「規則正しい食生活を送れよ」と言われたら、一週間は風呂に入っていなさそうな奴に「清潔感は保て」と言われたら、権力の恩恵を十二分に受けている貴族に「権力を振りかざすのはよくない」と言われたら、言葉自体は正しくとも殺意しか沸かないでしょう?

 また、同じ言葉であっても料理人が「料理は工夫」というのとメシマズが「料理は工夫」というのでは受け取る側の感想が180度変わることでしょうし、テレビの前で酒飲んでいるおっさんとプロ野球選手が語る野球論が仮に同じものであったとしても、その説得力には天と地の差がでます。

 そもそもこのエッセイ自体「どっかの誰かAよりも作者って肩書で語った方が説得力出るよね」って考えて書いている物ですし。


 小説内でのキャラのセリフも同じことです。上記の例のように言っていることがそもそも的外れというのならばどうしようもないですが、使いどころはあっていてもそのキャラの背景によって読者の感想は大きく変化するのです。

 例えば、そうですね……、どこかで聞いたような格好良くて真似してみたくなるセリフって皆さん、誰にも言わないけどありません?

 これから戦うってのにへらへらしている奴に「戦場をなめるな、死ぬぞ」とか凄んでみたり、散々説教した後「じゃあどうすればいいんだよ!」と叫ぶ相手に「自分で考えるんだな」とか言ってみたり、震える新兵に「殺す覚悟を持て」とか決めてみたりとか。

 こういうこと言えるシーンを作ることも、作者ならば当然可能なんですね。実際、バシッと決まればかなり格好良くなることもありますので。

 そんな動機でつい主人公に格好つけさせること、あると思います。ですが、


「戦場を~」←戦争なんてテレビでしか見たことの無い人が言っています

「自分で~」←責任を持たず、基本周りに流されているだけの人が言っています

「殺す覚悟が~」←無傷で制圧できる最強チート持ちが言っています


 と悪意に満ちた注釈を入れてもなお、このセリフに魅力感じます? どっちかというと「うわぁ」って感じじゃないでしょうか。

 こういうセリフは、いくつもの戦場を生き延び苦汁をなめてきた猛者が言うから、自分の考えと責任の下に行動する芯のある人が言うから、自分の死を常に身近に感じている必死な人間が言うから格好いいんです。安全地帯で何にも知らない、やらない、考えないで生きてきた人間がいきなり言っても「誰の物まね?」と笑われるだけなんですよ。

 そんな悪意に満ちた解釈いれるからいけない? 残念ながら、読者は作者の味方ではありません。全員が全員とは言いませんが、上記の通りの状況であるのならば大半は素直にそう評価することでしょう。


 努力系主人公とは、きっちり段階を踏むことによりこの手のセリフが映える人間を演出しやすくなっています。これは0からいきなり100になり間が存在しないチート系にはない利点ですね。

 まあ、チート系でも「力は最強、心は凡庸」であるってところから始めて「心の努力、成長譚」ってことならば同じ話ですが。



 纏めますと、努力描写は最低限に、さりげなく印象に残るよう散りばめておく。

 努力したというのならば、その後の言動にも心の成長を感じさせるように気を払う。

 そして、努力の結果だけではなく、主人公が努力の過程で何を感じたのかを考える。

 となります。


 以上で前編は終了となります。

 後編からは「努力系って軸でやるならやめておいた方がいいこと」についてです。

以下、後編に続きます。

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― 新着の感想 ―
[一言] これ読んでいて思ったのが ファンタジー不朽の名作かつ黎明期を支えた名作 ロードス島戦記ってまさにこのエッセイで書いてることを無理なく表現してるなぁということですね 最初はパーンとエトの二人…
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