ヒナちゃんが売ってるのはフォーマットでありコンテンツではないということにそろそろ気づこうか?
小説家になろうというサイトはなろう作家製造装置として機能している。語弊があるかもしれないがマイナーな作品はなろう作家製造装置によって排除される。読者にお届けされるのは、どこからどうみても『なろう小説』だ。
ここ、小説家になろうというサイトのデザインは書籍化のための道筋がほぼ決定されているということにもはやほとんどの作者、読者は気づいていると思う。
要するにランキングに載るってことなんだけど、ランキングに載るためには、ほぼ毎日投稿し続けて、タイトルをあらすじのように長くしてというふうに、だいたいやりかたが決まっているというのも気づいていると思う。
中身としても、『面白さ』つまりコンテンツに到達するためのスピードをともかく重視することが求められていて、それがテンプレという呼び方をされていたりもする。
ヒナプロジェクト。つまり、小説家になろうというビジネスモデルはフォーマットを売るという形態である、ということにはどうなんだろう、あんまり気づいていないような感覚も受けるんだけど。
でも、ぶっちゃけ、そんなこと作者さんたちにとっては関係ないよね。
だから、あまり話題になったりもしないんだけど。
たぶん、作者は素朴にともかくおもしろい作品を書けば売れるんだみたいに考えてるんじゃないだろうか。あ~あ違うんです。違うのです。小説家になろうにおける作者の在り方はフォーマットに従った、フランチャイズよりも窮屈な契約を結ばれているようなものなのです。
作者視点だとさっき述べたようなランキングに載ればとか、投稿スピード重視でとか、そういったフォーマットばかりに目がいきがちだけど、あるいは『ハーレム』『追放』『チート』『悪役令嬢』『スローライフ』とかそういうのをコンテンツの表層に目がいきがちだけど、それらはすべてフォーマットによって押し出されたものなんだ。テンプレとは微妙に違う。テンプレはコンテンツに向けた言葉だろう。テンプレは媚だ。そうじゃなくて、なろうにおける売れ線はということになると、そういったフォーマットに収斂されていく。要は書籍化されるためにはどうすればよいかということが決まっているということだ。
よく考えてほしい。世の中で『なろう系』という言葉が既に使われてたりするし、○○太郎とか○○花子とか、まあこれは蔑称なんだけど使われたりするのは、完全にフォーマットとしてビジネススキームになっているからこそ、そういう『名づけ』がおこなわれているわけだよね。
なんの話をしているかわからない?
わかりやすいのはブイチューバーとかかな。
大量のブイチューバーをアイドルみたいに囲っているところがあるけど、ひとりひとりにキャラクターをたてて、定番のゲームをやったり、キャラどうしを絡ませたりして、収益を上げているわけで、あれもフォーマットなの。
で、フォーマットから逸脱するようなブイチューバーとかいないわけ。あくまでキャラづけとしていろんなことをしたりするけど、想定外なコンテンツというものは発生しない。さっき述べた『ハーレム』『追放』『チート』などなどはブイチューバーのキャラづけみたいなもんなんだけど、キャラづけはコンテンツであり、ブイチューバーの自由だよ。でも、売れないキャラは打ち切られちゃうけどね。要するに売れ線の属性をコンテンツの中に組み込むのはフォーマット上強制されているの。まあ強制というほど強制じゃないけどね。読まれたかったら人気タグ入れろって話ならわかるでしょ。これは作者の自由じゃないし、読者の自由でもない。例えばジャンル分けはフォーマットの領域で、フォーマットで異世界恋愛が上部にあるのはヒナちゃんがそうしたいと考えたからだ。割合的に女性を増やしたいとかそういう感じの意図があるって気づかないとダメ。
このフォーマットの概念はどんなメリットがあるかというと、拡散スピードだよ。
売却がしやすく素早く売れるというのがメリットなの。
ともかくフォーマットに従うことで、死ぬほど素早く拡散する。いくらかのバージョン違いはありうるけど、ともかく早い。早い。早くて拡散する。
これを小説という媒体で考えてみよう。
なろう小説は、読まれなければ書籍化されない。厳密に言えば評価点がついてお気に入りがついて、点数がつく。その点数が、いまはよくわからんけどもだいたい4万から5万点くらいつけば書籍化されるみたいじゃないかな?
ともかく、点数がいくらかつけば書籍化のお声がかかるというのはわかるよね? これを否定する人はたぶんいないと思いたい。否定する人はなにか違う世界が見えているんだと思う。
で、さ。
この点数をつくためのってのが、サイトデザイン的に半固定されているんだと思う。
整流器がサイトデザインと人間心理によって施されている。
それが、フォーマット。
わかりやすく言えば執筆スピードとかどうだろうか。
毎日3千文字は少なくとも書けるというのがランキング上位にあがる条件だとすれば、ヒナちゃんとしては日産3千文字の作者を商品として確保できる。厳密には小説そのものを売ってるわけではないけど、小説家になろうというサイトを利用する作者は『3千文字を毎日書ける』という属性持ちでなければならない。そういうふうに型にはまってる。
3千文字で出せる物語のうねりは、1万文字で出せる物語のうねりとは異なる。
3千文字で読者に楽しんでもらうためには、あまり複雑なことは書けない。
フォーマットという型枠が、そのコンテンツをトコロテン式に同じ系列にしてしまう。ウニュって押し出されてるの。なろうを卒業したら立派な『なろう作家』になっているの。ラベリングされて、○○太郎とか○○花子とか言われちゃうのもフォーマットに従ってるからだ。
フォーマットというのはどういう系統のものを書いて、どういう頻度で投稿して、どういうところを売りとするかというのが半ば決まっているということなんだ。
他にも点数のつき方とかどうだろう。
対比のために他サイトの話をすれば、ハーメルンというサイトでは平均点なる概念があって、小説のタイトルの横に色つきバーとして表示される。赤だと平均点が高く青だと低いみたいな感じに。
だいたい7点以下は平均点を下げるみたい。正確なところはわからんけどね。
で、そういうサイトデザインだったら『嫌われないように書こう』というふうになるでしょ。あまりむちゃくちゃなことを書いたらあっという間に平均点が下がって読まれにくくなる。
なろうは逆。平均点がなく、たとえ1:1でも点数になる。ランキングは純粋に期間内の点数によって決定されるため、『少数の人間に嫌われようがマジョリティが好むものを書け』というふうになる。
むしろ嫌われようまであるかもしれない。
炎上したら読む人多くなって、とりあえずその作品を低評価1:1しようという人が増えるということもあるかもしれないし、感想欄閉じて護身完成させとけば、点に寄ってくる読者は見た目的にはランキング上位の優秀な作品だと思うかもしれないから。
この整流器の中になろう作家は身を浸しているということ。
なろう作家はヒナちゃんの望むとおりのコンテンツを生み出すようになっている。
作者はフォーマットに逆らえない。もしも読まれようと思ったら。
このエッセイをここまで読んだひとは、そろそろ気づいているよね?
フォーマットを売るという手法はビジネス的にはとても優秀なんだよね。ともかく、投網のように作者がたくさんいる状況で、一定の質が担保されたまま出荷されるとか。そういう感じなわけで。
でも、小説というのは、コンテンツであり、その文章群体はモノ的に作者の価値観を反映させているものであると思いたい。
作者は無限の自由をもって、無限の価値観を描くというのは、空想かもしれないけれど、トコロテン式に押し出されて出荷されるというのはちょっと残念でもある。
あ、べつにフォーマットだからコンテンツに自由がないわけではないよ。ブイチューバーだってアイドルだって個性はあるでしょ。個性はコンテンツだし。コンテンツはあるからわたしはなろうのフォーマットで書くんだって人がいていい。
でも、適者生存という考えからすれば、フォーマットという売り物は全滅しやすいという特徴がある。
ユーザーが飽きるということによって、全滅するということはありうる。
ただ、なろう系において非なろう的なフォーマットを超えるコンテンツを有する作品だけが生き残るかもしれない。いや、まあアイドルと同じで何らかの形で続くかもしれんけどね。
フォーマットというのは常に進化し続けるわけで、ヒナちゃんの提示するフォーマットも微妙に変化しているように思うし。例えば『異世界転生』とかは別に追いやられてるんだっけ。これもフォーマットの進化だろう。
ただ、フォーマットではない小説を書くというのもありなんかねと思ったりもする。なろうというのをアイドルフォーマットと捉えれば、なろう読者はアイドル見に来ている人なわけで、今のヒナプロジェクトのやりかたは間違いじゃない。
でも、作者の側からはコンテンツがフォーマットを突き破るということを狙ってもいい。そんなことができるのか。わたしにもわからんけど。
フォーマットから逃れ逃れて、自由なコンテンツを目指す。
でも全然読まれませんというのは結局あかんのよ。だからといってフォーマットに沿う形で自分から形をあわせていく要するにテンプレと呼ばれているのもコンテンツに限界を抱えることになるしなぁ。
じゃあ、なろう以外で書籍化目指せばいいじゃんと言われるかもしれないけど、
なろうのことは嫌いじゃないです。念のため。
むしろおまえのことが好きだったんだよまである