空想前世
夏日が差し込む、何事もない普通の日曜日だった。昼下がり、六畳の小さな部屋で、大きな引き戸のガラス窓を開け放ち年季の入ったアコースティックギターを鳴らしている。河原のすぐそばに建てられた家賃三万ほどの賃貸アパート。狭いし古い、設備も整っている訳ではない。しかし窓を開け放つとすぐ川に面しているからか、流れるような水音が聞こえ爽やかな風が頬をこする。何の気なしに覗いてみたこのアパートをひどく気に入ったのは、川にしかない風と音だった。
六畳という狭さに特に問題はなかった。自分の持ち物などこの古びたアコースティックギターと何度も読み返してかすれた文庫本たち、聞き込んだ好きな音楽だけ。家具は机と薄い布団、そして本棚。殺風景に見えるかもしれないが、別に寂しさを感じるわけではなく逆に居心地がいいもので。今は心地よい風と音を感じながらギターを鳴らせるので大変満足している。
ポロ、ポロと落ち着いた音色を奏でる。何度も何度も学生時代から聞いていた曲、今では目を瞑ってでも弾けるようになってしまった。弦を弾いて、懐かしい音色に耳を澄まし、風を肌で感じる。幸せだと胸にこみ上げる気持ちに微笑むと、すぐそばから優しい歌声が聞こえてきた。
ふと弾く手を止め、視線を移すと、黒い髪に青い瞳で着物を着ていて窓際、自分の隣に座る少年がいた。足元はやけにゆらゆら透けて揺らめいていて、ああ幽霊なんだなと妙に納得してしまう。暑さにやられているのでは、と思ったが別に今日は苦しいほどに暑いわけでもなく。まあいいやと脳内の何処かで声が聞こえると、優しげな歌声を響かせる幽霊に合わせてギターを奏でる自分がいた。
最後の歌詞を綺麗に歌い切る幽霊に、ぱちぱちと拍手をしてみると、幽霊は歌っていたことにやっと気づいたらしく恥ずかしそうに頭を下げた。こんにちはと挨拶をする。幽霊もこんにちは、勝手に歌ってすみませんと再度深く頭を下げた。
素敵な歌声だった、と弦を拭きながら返すと幽霊は頭を上げ嬉しそうに微笑んだ。
お互いの間に沈黙が訪れる。キュッキュッと弦を拭く音と川のさざめきだけが響いていた。
しばらくの沈黙の後、幽霊が鼻歌を奏でた。相変わらず優しい音色だ。
この曲、お好きなんですか、そう幽霊は言った。
幽霊はこちらを向いた。青い瞳にカチリと見つめられ、その黒髪がつつと額を伝う。
ああ、もう何十年も聴いているよ、弦を拭く手を止めず答えた。
そうですか、と幽霊は俯くとまたこちらを向きなおす。
僕もこの曲が好きです。見てお分かりの通り僕は幽霊なんですけれど、ずうっと昔に聴いていた曲とよく似てて、そう幽霊は言った。
なんか気に入っちゃいました、そう言ってにへらと幽霊は笑う。
そうかと返すと、はいと幽霊は頷いた。
相変わらず弦を拭く音と川のさざめきが沈黙の中に流れていた。
それは、心地の良い沈黙だった。
それから、日曜日の昼下がりに幽霊はよく現れるようになった。
変わらず自分は安いボロアパートのガラス窓を開け放ち、川の風と音の中ギターを弾いているだけなのだが、優しげな歌声が聞こえるとそこには幽霊が座っている。その歌声に合わせ音を鳴らし、奏でる。ひとりだけの幸せが、ふたりだけの幸せに様変わりしたようだ。ふたり、というのはおかしい気がするけれど。
挨拶を重ねるだけには飽き足らず、気づけば幽霊とたくさんの話をするようになった。
幽霊が誰かを探して四百年近く彷徨っていること。言えなかった言葉を伝えたいこと。また出会えると信じていること。
自分は口下手で、おしゃべりは得意ではなかったのだが幽霊と話しているとなんだか楽しかった。
幽霊は物憂げに川を眺めていることが多かった。どうした、と聞くと昔を思い出していたんです、と決まって物憂げに笑っているのだ。
昔のことが何を指すのかわからないが、彼が生きていた頃のことだと推測している。
その大切な人に巡り会えたらどうするんだ、そう聴いた。
伝えたい言葉があったけれど今は一目見れれば十分です、彼はまた寂しげに微笑んだ。
それで十分なのか、そのあとはどうするんだ、聞き返すと彼は答える。
ええ、消えてしまうと思うので、と。
河原に咲く花の種が弾け飛ぶように、と。
大切な人に会いたいのならどうしてここに居るのか。
こんなボロアパートの住民なんかと一緒にいていいのか。
もっと人気のあるところに行けば会えるかもしれないのに。わざわざ、ここに留まる必要性はない。
日曜日以外にも彼のことを考える時間が増えた。ぐるぐると考えて、どうしても彼とその大切な人を会わせてあげたいと願った。
そう吐き出す、昼下がり。彼は考えるように押し黙った。
しばらく沈黙に包まれた。川のさざめきが響くと彼に出会った頃のようだ、と思わせる。
長い静寂の後、彼はようやく口を開いた。
きっとこの川の風と音が、僕らを会わせてくれると思うんです、と答えると少しためらった後こう言った。
「この川は僕らの大切な思い出だから、あの子も忘れていないはず。」
彼がそう言うと、さっきまで聞こえていた風の音やさざめきが環境音ですらなくなってしまったように感じた。
胸にすとんと何かが落ちたような感覚がした。
喉が渇いた。唇が別の主を宿したように勝手に動いた。ああ、君だったのか、と答える。
まるで夢のなかにいるような感覚のまま、一度たりとも忘れたことなどないよと言った。
やっと思い出したかのように、川の風が頬をこすった。
彼のその青い目をカチリと捉えたまま、見つめ、そしてただ黙っていた。
昼下がりだった空に日が傾いて、川の色が少しずつ染まっていくようだ。風もさらに冷たくなったように感じる。
それでも互いに見つめることは変わらなかった。
長い長い沈黙の後、彼は視線を外して、あなたが君だったんだねと言った。
そしてこちらに視線を戻すと、ありがとうと唇だけを動かした。
彼の姿は、パチンと花が弾けるように消えていった。
それから、この川岸で俺はギターと歌を奏でていた。
風も音も、何も変わらず、そのままだった。