アンナちゃんとジュリーちゃんに学ぶ、「印象に残る」ということ
アンナちゃん
二◯一六年のルノワール展は、筆者にとってひとつの文化的なポイントだった。なぜなら、それまで美術作品を観ることをしなかった筆者が、年に何度も美術館に足を運ぶようになったのだから。
美術に興味を持ち始めたのは、前年のモネ展の駅ナカ広告を見てだったと記憶しているが、このときは訳あって足を運ぶことが叶わなかった。結局行かなかったのだからなんとも言いようがないが、もしも私の美術に対するほぼはじめての感動がモネだった場合、今の筆者はどのような美術観、いってしまえば価値観を持っていたかわからない。
ルノワール展の会場へ入って真っ先に観客を出迎えたのは、『陽光の中の裸婦』だった。木洩れ日のなかに立つ裸の女性、その肌には穏やかな光と影による陽光の表現。柔らかなタッチ、曖昧な輪郭。とにかく明るい、光に満ちた絵画だった。このときの感動は生涯忘れえぬといってもすぎることはないだろう。この瞬間に私は美術を、印象派を、そしてルノワールという画家の描く世界を愛したのだから。
ちなみに、「アンナ」というのはこの絵画のモデルの名前(愛称)である。という説明を、キャッチーさを狙ったタイトルのためにわざわざ付さざるを得なくなった。
ジュリーちゃん
先に明かしてしまうと、「ジュリー」というのは『ジュリー・マネの肖像(/猫を抱く少女)』という絵画のことである。これも同画家の作であり、二◯一六年の美術展で来日した作品である。
モデル、ジュリーは印象派画家ベルト・モリゾ(女性)の娘で、ルノワールは他にも彼女をモデルとした肖像を描いているが、この作品は上に記したように猫を膝に抱く少女ジュリーを描いたものだ。
実をいうと筆者はこの絵があまり好きではない。というのも、この作品は私の好きな柔らかなタッチで描かれた作品ではないからだ。特に少女の顔、その輪郭ははっきりとした線で描かれており、目や口の微笑みにもどこか冷たい印象が感じられた。(優しげな表情のため冷たくはないという人もあるだろうが、少なくとも筆者にはそう感じられた。)ルノワールという画家にはこの画風の作品が一定数あり、画業の年譜を辿っていくと画風の変遷がよくわかるのだが、ここでは割愛する。
さて、筆者としてはあまり好きになれなかった『ジュリー・マネの肖像』だが、どういうわけか、この少女の円く平面的な顔とそこへ浮かべられた微笑みは、筆者の印象に強く残った。
それはふしぎな感覚で、大袈裟にいうと強迫観念のようなもの、たとえば、外出先でたまたま耳にしてその後気持ちの悪いくらい脳内で繰りかえされる音楽のようなものだ。
筆者において、この場合は「好きでない」だけであって「嫌い」ということはないのだが、それはむしろ好き嫌いとは関係なく、ただ心に深く残っているという言葉にならない感動なのだ。これはある意味で、激しい賛美や共感からくる感動よりも得がたく、貴重なものかもしれない。
『怒りをこめてふりかえれ』
ここで筆者が思いいたったのが、イギリスの劇作家ジョン・オズボーンの戯曲『怒りをこめてふりかえれ』(一九五六年、ロンドン、ロイヤル・コート劇場初演)だ。この劇が成立した背景には当時成立したイギリス労働党による福祉国家的政策があるのだが、オズボーンの書いたこの劇はサロン劇風作品が中心であった当時のイギリス演劇に革命をもたらしたとされている。
劇の内容は、労働者階級社会を生きる青年が現代、既存の社会への不満をひたすらぶちまけるというものだ。もちろん劇である以上は恋愛や三角関係などの要素があり、それなりの筋の中で語られるものではあるが、本質的な内容を説明しようとするのであれば「散々文句を言い不満をぶちまける話」というような説明がもっとも腑に落ちる。
この劇は上記の社会情勢もあり、結果的には多くの共感を得て成功を収めたといえるが、そういった背景を抜きにしてこの劇を見たときに、主人公の青年による辛辣なセリフの数々は観客を楽しませるどころかむしろ萎えさせるのではないかと筆者は考える。現に作者オズボーンも、第一幕の最初のト書きでこの人物の煩わしい性格を冷静に分析して記してもいる。(こういった発表の場であるため、一々論文のように本文や解説文を引用することは割愛する。)
しかし、たとえ共感を抱かれずとも、この劇と主人公の痛烈な印象は観客、あるいは戯曲の読者には残るのではないか。それはある意味では、一時に終わる共感や賞賛の嵐にも優ることではないのか。
印象に残るということ
『陽光の中の裸婦』は「楽しませる」ことによって筆者の印象に残った。しかし一方で、『ジュリー・マネの肖像』はそのふしぎさによって筆者を感動させ、また『怒りをこめてふりかえれ』は強烈さによって筆者の心を動かした。これらは性質こそ異なるが、筆者の印象に残ったという点においてはなんら変わるところはない。
創作をする者として、作品を鑑賞者(観客、読者……)の印象に残したいと思うのは当然のことだろう。
しかし私たちは、日頃からこの「印象に残る」ということについて十分に考えているだろうか。何とはなしに、「共感」や「賞賛」、「人を楽しませること」を求めてはいないだろうか。
筆者は過去に、創作仲間からこんな言葉を聞いたことがある。「客を楽しませ満足させるのが我々の使命だ」と。しかしそれは幻想で、創作者をがんじがらめにする呪文にしかなりえないと、筆者は思う。
もちろん、個人や団体のポリシーやモットーであるならば、それは尊重すべき方針の一つであろうとは思う。しかし、それをあたかも創作者全体(あるいは作家全体、美術界全体、演劇界全体……)に普遍的に当てはまるもの、いわば義務のようなもののようにいうのであれば、それには否を唱える。
「楽しませる」ことは、人の心に作品を残すひとつの方法ではある。そして、そういった残り方にこそ創作の意義を見出す作者もいることだろう。しかしそうであっても、「印象に残る」ということの本質を考えるうえで、他の選択肢を無視してあたかもないもののように扱うというのは、創作者としてもったいないことだ。鑑賞者を楽しませるも怒らせるも悲しませるも、退屈させるにしても駄作だと言わしめるにしても、(それが意図的にであれ結果的にであれ)それは創作者の自由であり、守られるべき権利であると筆者は思う。
最終的な選択は別として、是非とも本エッセイの読者にも鑑賞者の「印象に残る」という現象について視野を広く考えてみることをお勧めしたい。
(平成三十年十一月 レモネード・イエロー)
参考
筑摩書房『世界文学大系 95 現代劇集』




