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第八章 ルウ子の敗北宣言

 9月30日


 孫の電話から三週間余りたった。

 その日の早朝。宮根島。

 港の桟橋では、バクとルウ子が激しく揉めていた。

 ルウ子が孫の招待を受けたと知って以来、バクはこの無謀な対決に反対し続けてきたのだが、ルウ子はいっさい聞き分けようとしなかった。

「奴がなんの策もなしに、あんたを迎え入れるわけないだろ!」

「あいつは最愛の母親に誓った。それでもあたしを騙すというのなら、あいつは自分の人生を否定することになるわ!」

 いったいどこで薬を見つけ誰に依頼したのか、ルウ子の双竜頭はすっかり黄金の輝きを取りもどし、くたびれきっていたブレザーやスカートは真っさらも同然だった。そのせいか、表情や言葉の端々からは、かつてのみなぎる自信がうかがえる。

 ルウ子は立ちはだかるバクを避け、桟橋に控える〈シーメイド〉のほうへ歩みを進めた。

「待てよ!」

 バクはルウ子の腕をぐいとつかみ、力ずくで引きとめた。

「放しなさい! でないと……死ぬわよ」

 ルウ子は腰の短剣を抜くと、切っ先をバクの鼻先に突きつけた。

 バクは動じない。

「ああ、やってみろ。やれるもんならな!」

「まだわかってないのね。あたしのこと」

 ルウ子は低く言うと、バクの首めがけてびゅっと剣をふるった。

 そのとき、海のほうから男の声があがった。

「報告します! 太平洋上に大艦隊発見!」

 着岸を待ちきれない船長が、偵察船の甲板から叫んだのだ。

「俺のこともわかってないようだな」

 バクはわずかに削がれた黒髪を払い落とすと、白い歯を見せた。

「あの声がなければホントに死んでたわ」

 ルウ子もちらと歯を見せた。

「いいや死んでねえ」

「いいや死んだ」

「何度でもかわしてやるさ!」

「今度こそ真っ二つよ!」

 一方、蛍は虫歯を煩ったような顔で、二人の意地の張りあいを見守っていた。なにを思ったか、彼女はバケツに海水を汲むと、ぎゅっと目をつぶり……。

「報告です!」

 と叫ぶや二人にぶちまけた。

 きょとんと蛍を見つめるバクとルウ子。

 蛍はひたすら頭を下げる。

「す、すみません! 私にできることは、これくらいしか……」

 ルウ子は空になったバケツを奪うと、蛍の頭にすっぽりかぶせた。

「フフ……さすがあたしが見こんだだけのことはあるわ。で、なに?」

「で、ですから外国の大艦隊が迫って……」

「それを早く言いなさい!」

 ルウ子は短剣の腹でブリキのバケツをガァンとたたいた。

「*!@☆@*%?」

 蛍は意味不明の声を発しながら、桟橋の上をふらつきまわった。

 と、そこに大村が現れ、「こんなときになに遊んでやがる」とあきれ顔で蛍を抱きとめた。

 離島海軍の全面協力の裏には、大村猛の存在があった。伊舞諸島の民衆は独立派に傾きつつあったが、海軍は方針を一転、討伐派に与した。その気になれば地球の裏側まで足をのばせる彼らは、各国の不穏な動きに危機感を募らせていたのだ。

 そしてついに、終末への歯車は動き出した。

 離島海軍は数日前、太平洋上で第二次大戦以来の大艦隊を見つけた。一番乗りを狙っているのか、列強諸国の船は競うように集まってきている。幸い、その針路を塞ぐように二つの台風が暴れまわっており、艦隊は足止めを食らっていた。まさに神風だ。

 ルウ子は剣を収め、鼻をならした。

「フン、やっぱ来たわね」

 欲にかられた列強は世論を無視し、いつか必ずしかけてくる。制裁を口にしてはいるが、その実はマスター・ブレイカーを手中にしたいだけなのだ(彼らはその存在を知っているはずなのだが、ライバルを出し抜きたいがために、あえてそのことを極秘にしているのだろう)。ルウ子の読みはあたった。ルウ子は孫の招待を受け〈シーメイド〉での上京を計画していたが、その一方、大村を通じて海軍にも出撃準備させておいたのだった。

 こうなると日本の命運の如何は、孫だけでなく時間との闘いでもある。民の血判がどうのなどと言っている場合ではない。まずは一刻も早く孫を打倒し、戦争を回避する。その先のことはそのときだ。

 ルウ子は足の速い海軍の船で上京することにした。

「作戦は『プランZZ(ダブルゼータ)』に変更。いいわね?」

 大村は舶刀を華麗にふるってみせた。

「どうやらもう、あんたらに賭けるしかなさそうだな。護衛はまかしときな」 

「あんたたちは船を出してくれればいいの」

「だがなあ……」

「こっちが約束守らないでどうすんのよ」

 実際は、ルウ子と孫は言葉で約束を交わしたわけではない。だが、当事者以外の武装解除は二人の暗黙の了解だった。

 大村は剣を収めると、笑った。

「あんたの肝っ玉は狂気そのもんだ」 

「百回も死を覚悟したら、狂気だってもうお友達よ!」

 ルウ子は両肩にかかる竜巻毛をパァンと払うと、大村の帆船が控える隣の桟橋へさっそうと歩いていった。



 10月1日


 離島船団は追い風に乗って北上し、その日の昼すぎ、統京湾に突入した。

 ルウ子は護衛の船などいらないと言い張ったが、足を提供するのは海軍である。不満はあっても彼らの方針に従うしかなかった。船団は南北に散らばる島々を通過するたびに一隻また一隻と増え、結局、十隻という大所帯となった。彼らはその船倉に武器ではない『なにか』を隠し持っているようなのだが、軍の機密だと言って、バクたちには明かそうとしなかった。



 バクは帆船〈臣蔵(おみくら)〉の甲板に立ち、薄暗い空の下に広がる左右の半島を見渡していた。

 しばらくの間そうしていたのだが、物々しい雰囲気はほとんど感じられなかった。軍用の艦艇は港で大人しくしている。戦車の姿も兵員輸送車が走る様子もない。NEXAは約束を守っている、といえばそうなのだが……。

 バクは首をかしげずにはいられなかった。

 本土の姿が見えた頃からぽつぽつと降り出した雨は、列強艦隊との差を伝える警鐘のごとく、徐々に強まってきている。



 日没まであと少し。

 離島船団はいよいよ統京港に近づいた。

 船室で控えるバクとルウ子は、丸窓をはさんで向きあい、雨のカーテン越しに湾岸地帯を見つめていた。

 今からちょうど五年前、バクが蒸気船から見た景色とはまるでちがっていた。壊れた工場や倉庫などどこにもなく、ゴミ捨て場で泣いているオモチャのようだった遊園地は見事に復元され、湾岸道路では自動車が行き交い、高層ビルの窓のあちこちに白い光の粒が点り出す。

 ルウ子は感慨深げにそれらを見つめていた。

「元通りになってる。なにも……かも」

 そこには、ルウ子が地獄の底で思い描いた『2026年の統京』があった。孫はルウ子の夢をルウ子の代わりに完璧にやってのけたのだ。

「あたしがずっとNEXAの玉座に居すわっていたら、これほどの復興はなかったかもね」 

「才能があるからって、なにをやってもいいってわけじゃないさ」

 バクは埠頭で待ちかまえる戦闘服姿の男たちに目をやった。

 ルウ子は窓に背を向けた。

 今にも泣き出しそうな(うなじ)がのぞいた。

「ルウ子……」

 バクはルウ子の背中に寄ると、両肩に手をやった。

「そこじゃない」

 ルウ子は腕を交わしてバクの両手をつかむと、ぐいと前に引き寄せた。

 ルウ子の手はひどく冷たかった。



 〈臣蔵〉が接岸した。

 バクとルウ子と蛍、招待を受けた三人だけが船を降りた。

甲板に立つ大村は、喉に魚の小骨が刺さったような顔で三人を見下ろしている。

 埠頭ではNEXAの兵隊たちが二列に整列して道を作っていた。武装はしていないが、そこしか通るなと脅しているようなものだ。

 バクたちは雨に打たれながら列の間を行った。

 その先には黒い高級車が待ちかまえていた。運転席のドアが開き、ピンクの傘がぱっと咲く。

 スーツ姿の和藤は微笑んだ。

「孫がタワーの上でお待ちしています」

 ルウ子はためらうことなく後部座席に乗った。

 バクと蛍はしばし顔を見あわせ、ルウ子に続いた。

 助手席は空いている。和藤にボディガードはない。

「少し、遠まわりしますよ」

 和藤は車を走らせた。

 ルウ子と乗った蒸気自動車が野牛の大移動なら、こちらは池の上の鴨。ワイパーのこすれから隣席の息づかいまで、なんでも聞こえる。

 バクが車の性能に感心していると、和藤が口を開いた。

「橋本ルウ子。あなたをここで捕らえ、薬でアルの番号を吐かせようと思えばいつでもできる。わかっていながら、なぜ島を出たのです?」

「……」

 ルウ子は窓の外を見つめたまま黙っている。

「私には理解できない。自分からすべてを奪った者の言葉を信じるなんて」

「……」

「どんなに忠実な部下でも、上司の命令を必ず守るとは限りませんよ?」

 和藤はちらとルームミラーに目をやった。ルウ子と目があう。

「フ」

 和藤はアクセルを踏みしめた。

 雨夜の街道をしばらく走り、坂を下っていくと、広々としたスクランブル交差点に出た。そこで信号待ちとなった。

「!」

 バクは思わず窓にへばりついた。

 和藤はその様子をミラーで見ていた。

「懐かしいでしょう? バク君」

 バクは『夜目』を細めながら、眩しすぎる街の様子を眺めた。

 そこはバクのアジトがあった街だった。だが、懐かしさなど微塵も感じなかった。瓦礫がない、ひび割れもない、屍もない、そもそも闇がない。

 交差点を行き交う傘の群れ。傘の下はどれもシミ一つないおろしたての服。

 ガラスの壁の向こう側に集う少女たち。巨大なハンバーガー、山盛りのアイスクリーム。

 これが、ほんの少し前までボロを身に纏い、一つの米袋一つの缶詰をめぐって血を流してきた人々の姿なのか。

 街角には生ゴミの入った袋の山々。

 車の窓ガラスに滴る雨水は不気味に黒ずんでいる。

 脳裏に一つの記憶がよぎった。赤ヶ島を探索した帰り、昭乃はたしか別れ際にこう言い残した。

 ……電気など無いままのほうがよかった。そう思うときが必ず来る。必ずな……

 信号が変わった。

 和藤は郊外へ車を走らせた。

 住宅ばかりが密集する、ある私鉄の駅のそばで車は止まった。

 それまでひと言も発せず、ぼうっと統京の街を眺めていたルウ子の顔が一変した。

「!」

 和藤は自慢気に言った。

「懐かしいでしょう? ルウ子さん。この街はひどく荒れていたのですが、パワーショック以前の写真や地図をもとに、街並みを再現してみました」 

 そこはルウ子が生まれ育った街だった。

 ルウ子の手がすうっと街へのびていく。その指先を、ガラス窓が遮った瞬間、生命維持装置が切れたアンドロイドのように、ぱたと手が落ちた。

 ルウ子の涙が頬まで伝ったのを、バクははじめて見た気がした。

 和藤は続けた。

「あなたの望みはすべて叶った。飢餓や争いは消え失せ、街並みは蘇り、大好きなスマホさえも使えるようになった。あなたがこの世にしがみつく理由はもうないはずです。ちがいますか?」

「……」

「アルの番号を教えてください。その代わり、我々NEXAは『初代局長・橋本ルウ子』の偉大なる功績を未来に語り継ぐことを約束します」

 和藤はルウ子に引導を渡そうとしている。名は残してやるから死ねと言っているのだ。

 ルウ子はそこでようやく口を開いた。

「悪いけど、答えはノーよ。しがみつく理由、あんたたちが新しいのを作ってくれたから」

「!」

 和藤は懐に手をやると、ふり向きざま、ルウ子に銃口を向けた。

 ルウ子は微笑んだ。

「なかなかやんちゃな部下だわね。上司の顔が見たいものだわ」

「……」和藤は呼気をふるわせながら銃を収めた。「余興はこれでおしまいです。行きましょうか」

 和藤がアクセルを踏もうとしたとき、バクは言った。

「ずいぶんと見せつけてくれたが、その余裕は諦めの境地なのか?」

 和藤は前を見つめたまま言った。

「諦め? なにを諦めるというの? まだなにもはじまっていないわ」

「そうか……やっぱ知らないのか」

「?」

「明日の朝、何千何万もの軍隊が日本に上陸するんだ」

「プフ……」和藤は吹き出した。「なにを言い出すかと思えば。どんなに立派な軍備をそろえたとしても、戦争なんてそう簡単に起こせるものじゃないのよ坊や。どうせならもっと上手な嘘を考えてきなさい」

「できれば……嘘であってほしいさ」

 バクと和藤はルームミラー越しに見つめあった。

 せわしなく左右に揺れるワイパー。

 和藤は油の切れかけたロボットのように、ぎこちなくふり返った。

「本当……なの?」

「俺たちを本土(ここ)まで送ってきたのは誰だった?」

「離島海軍……が動いた!」

 和藤はカッと目を剥き、あちこち懐をまさぐりスマホを探しあて、目にも止まらぬ速さで指を動かし、孫につながると、熟練アナウンサーのごとき滑舌で状況を報告していった。

 しばらくの間、和藤の単調な返事ばかりが続いた。

 やがて孫のあるひと言が、和藤の声を上ずらせた。

「ほ、本気で言ってるんですか?」

『……』

「そう……ですか」

『……』

「はい、予定通りそちらへ向かいます」

 和藤はそこで電話を切り、力無くシートに沈んだ。

 バクは訊いた。

「孫はなにを企んでいる」 

「……」

「おい!」

 バクは和藤の肩をつかんだ。

 よく見ると、和藤はむせび泣いていた。

「お願い……あの人を止めて……」

「孫はなんと?」

「乗りこんできた兵もろとも、首都を灰にすると……」

「孫は核を使う気なんですね?」

 蛍が訊くと、和藤は素直にうなずいた。

「あの野郎……人の命をゲーム盤の駒だと思ってやがる!」

 バクがそう叫んだときだった。

 それまで賑わっていた街から急に人の姿が見えなくなった。

「こ、これはいったい……」

 蛍はせわしなく辺りを見まわす。

 和藤はその謎を明かした。

「甚大な災害が起きたとき、都民は地下シェルターへ避難する手筈になっているの。地下には都民を半年養えるだけの食料や物資がそろっているわ。でも、それは表の顔。実際は戦争に備えて、あの人が造らせたものよ」

 バクは訊いた。

「都民はそれで本当に助かるのか?」

 和藤はかぶりをふった。

「手筈はあくまで手筈よ。相手は数百万の都民。避難命令を発したからといって全員が従える状況にあるとは限らない。一パーセント……たった一パーセントの人が逃げ遅れただけでも、数万の命が灰になる。あの人はそれを承知の上で核のスイッチを押そうとしているのよ!」

 和藤はステアリングにもたれかかった。

「彼ね……たくさんお酒を飲んで私を抱くと、必ず『母さん』って叫ぶの……。あの人の人生、あの人の生き甲斐はもう、三十年も前に終わっていた……。私なんか……私の声なんか届くわけない……」

 和藤は被災地のように乱れきった顔を上げた。

「死んだ人には絶対勝てないもの!」

 ワイパーの音だけがしばらくあった。

 ルウ子は言った。

「一つ、方法があるわ」

「え?」

和藤はふり返った。

「あたしをタワーに連れてくこと」

 和藤は吃逆(しゃく)りながら笑った。

「どっちが勝ったってダメじゃない……」

「じゃあ、このままここで灰になる?」

 ルウ子はハンカチを差し出した。

 和藤はルウ子の手をパァンと弾くと、アクセルを踏んだ。



 四人を乗せた車は外門内門と二重のゲートをくぐり、低層のビルが立ちならぶNEXAの敷地をしばらく走った。

 めざす統京スカイタワーは敷地のほぼ中心にすわっている。NEXAの中枢がある周囲の施設群とあわせてその区画だけが天高く突き出ており、他を圧する存在感を示していた。

 和藤はタワーの麓で車を止めると、ダッシュボードの収納に拳銃を収めた。四人は車を降りた。和藤が三人を先導し、エントランスへ通じる階段を上っていく。入口の左右に控えていた丸腰の警備員たちはこちらを一瞥しただけだ。バクたちは一階ホール中央のシースルー型エレベーターに乗った。

 和藤は最上階のボタンを押した。ほどなく、2026年当時に劣らぬ煌びやかな夜景が広がった。規則的に視界を遮る鉄骨。透き通った壁を流れ伝う雨粒。無数に散乱する光が明滅して、四人をつかの間の幻想に(いざな)う。

 ルウ子はふとつぶやいた。

「統京スカイタワー。この日本で一番高い建物を、NEXAの象徴に据えようと提案したのが、孫英次。そのときに気づくべきだったわ」

 バクは鼻をならした。

「いかにも野心家らしい発想だな。この高みから見下ろす自分以外の人間は、みんなバカだと言いたいんだろ」

「そうじゃないのよ。そうじゃない……」

 ルウ子は小さくかぶりをふった。

「じゃあなんで……」

 バクが言いかけると、ルウ子は遮った。

「こーれだから男って面倒くさいのよねぇ」

 そのとき、ベルの音とともにドアが開いた。最上階だ。

 外に出ると、思わず顔を歪めたくなるほどの蒸し暑さだった。足もとの淡い間接照明が、夜の植物園をぼうっと照らす。ここは地上450メートル、タワー完成当初は特別展望台と呼んでいた場所。そして、バクのひと言がきっかけでルウ子がアルの封印を解き、大河の流れが変わりはじめた場所でもある。

 そこは以前とは少し趣がちがっていた。壁がガラス張りになっておらず、部屋が縮んでしまったような妙な圧迫感があった。

 和藤は三人を引き連れ、外壁に向かって歩道を歩いた。四人はのっぺらぼうの扉の前で立ち止まった。扉は自動で開いた。一歩進むと、鬱蒼とした庭から一転、視界が180度に開けた。一面のガラス越しに雨の夜景。あとは絨毯と天井しかない。照明は暗いままだ。四人はドーナツ状の空間を半周した。

 窓際で外を眺める隻腕の男が一人。孫はふり返ると、屈託のない笑顔で言った。

「やっと来てくれましたね。待ちわびていた」

 電話のときは素顔だったが、今日は黒縁メガネをかけている。

「このバカが無茶するもんだからね」

 ルウ子はバクの耳たぶを引っ張った。

 バクはそれを手で払う。

「俺のせいだってのかよ!」

「あんたがまともに歩けない間、誰が食わしてやったと思ってるの!」

「じゃあ、シバの奇襲から守ってやったのは誰だ!」

 二人が睨みあうと、蛍がそこに割って入った。

「こ、こんなときにケンカしなくても……」

 孫は笑顔のままルウ子に言った。

「彼女の言うとおりだ。日本の命運を賭けようというときに、不謹慎ですよ」

「悪かったわね。十秒前までは、このマヌケを教育することのほうが大事だったのよ」

「フフ……」孫はメガネのブリッジに手をやった。「ま、いいでしょう」

「時間がないわ」ルウ子は短剣を抜き、切っ先を孫に向けた。「さっさと決着つけましょ」

「その前に、こんな危険を冒してまで私がアルに執着するのはなぜか。知りたくありませんか?」

「どうせ話したくてしょうがないんでしょ?」

 ルウ子は剣を収めた。

「テスランの属性が二つに大別されることは知ってのとおり。私が持っているニコは地属性。火力や水力など、手軽に電気を作れるのが長所です。ただし、多くの電力を生むには多くの資源に委ねなくてはならない。残念なことに、わが国は化石資源に乏しく、水力をはじめとする自然エネルギー利用に必要な国土もそう広くはない。そこで救世主アルの登場です。

 天属性のアルには、無限の可能性が残されているのです。私はある大学の廃墟から発掘した、太陽エネルギー利用に関する資料を見て愕然としました。四国の形を想像してみてください。その三分の一の面積に太陽電池のパネルを敷きつめるだけで、日本の総発電量が半永久的にまかなえてしまうのです。すごいことだと思いませんか?」

「ふむ……なかなかおもしろい話ね」

 ルウ子の瞳に一筋の光がよぎった。

 バクはその話の裏にある真意を暴いた。

「要するにあんたは、永遠のエネルギーを手にして、永遠の命をもって、永遠に世界を後悔させたいだけなんだろう?」

「フ」と笑っただけで、孫は再びルウ子に言った。「太陽電池の生産工場はすでに稼働している。原料の問題は技術的に解決できる見通しが立った。この難局(やま)さえ……この難局さえ乗り切れれば、飢餓も汚染もない永遠の楽園が築けるのです。今からでも遅くはありません。私に従っていただけるなら、お三方の身の安全は保証しましょう。屋上にヘリを用意してあります。今なら統京が灰になる前に脱出できますよ」

「そんなことをしなくても、列強を帰らせる方法はあるわ」

 ルウ子は短剣を抜いた。

 孫は笑った。

「決闘で私を倒し、他の者にニコを引き継がせ、あなたと二人で大陸の中立国に逃れる。そして各国メディアに向け、マスター・ブレイカーの世界共有を宣言。目的を失った列強はすごすごと母国に引き返すより他ない……といったところですか」

「さすがね。わかってるじゃない」

「あなたはまだそんな甘いことを……」孫はため息をついた。「やはり、こうするより他ないようですね」

 孫は懐から拳銃を抜き、ルウ子に狙いを定めた。

「汚いぞ! 決闘なら同じ条件で勝負しろ!」

 バクは怒鳴った。

「お母さんに誓ったことを忘れたんですか!」

 蛍は潤んだ目で訴えた。

「母への誓い? なんですかそれは?」

 孫は肩をすくめた。

「え? だ、だってあなたはたしかに、なくした左腕に誓って……」

「ええ誓いましたよ」

「ならどうして……」

「ああ、まだあの話を信じていたんですか。橋本ルウ子、あなたも疑うことを知らない人だ」

 孫はいびつな笑みをルウ子へ送った。

「……」

 ルウ子は黙したまま、孫を見据えている。

「母を食わせるために左腕を切り落とした? まったくのデタラメですよ。仮に私が極度のマザコンだったとしても、そこまではやらないでしょう? 私の左腕は生まれつきのものです。奇形ですよ。私はむしろ、こんな体に生んだ父や母を恨んでいた。実を言うとね、母を殺したのは私なんですよ。平時ならそんな勇気はなかった。飢えというのはまったく恐ろしい……」

 孫はかぶりをふった。

「ま、まさか親を食っ……」

 バクは想像しただけで猛烈な吐き気がこみ上げた。

 孫は爽やかに微笑んだ。

「ま、ともかく、はじめからないものになにを誓ったって無意味でしょう?」

「フフ……あたしの負けね」ルウ子は短剣を手放した。「電話番号は下着の裏に控えておいたわ」

 孫はその細すぎる目を精一杯に見開いた。

「これは意外だ。不屈の人、橋本ルウ子ともあろうあなたが軽々しく敗北宣言とは。なにを企んでいるかは知りませんが、私を止めることなどできませんよ」

「なにを怯えているの?」ルウ子はすっと歩き出した。「勝負はついたのよ。さっさと撃ちなさい」

「と、止まりなさい!」

 孫の銃口はひどくふるえ、狙いが定まらない。

「この期におよんで、なに? 往生際の悪い」

 ルウ子は立ち止まった。

 言っていることがあべこべだ。

「なぜだ! あれほど生に執着していたあなたが、こんなことくらいで諦めるとは……」

「なぁに? あたしに死んで欲しくないワケ?」

「そ、そんなことは……」

「ならいいじゃない」

 ルウ子は再び歩を進めた。

「止まれと言っている!」

 孫はトリガーを引いた。

 銃弾はあさってのほうに消えた。

 ルウ子は立ち止まり、ふと懐かしげな顔をした。

「あんたとはじめて語らったのはここの真下、タワー二階のラウンジだったわよね? 当時はまだ飢餓闘争が下火になって間もない頃で、カフェらしきものはそこしか営業()ってなかった」

「……」

「2026年のあの日あの時からやり直したい。あたしは窓際の席ですっぱいコーヒーをすすりながらそう言った」

「……」

「その後、あんたはあたしの反対を言葉巧みに押し切って、タワーとその周りをNEXAの拠点にした。はじめは権力の象徴が欲しいだけだと思ってた。けど……」

 ルウ子は雨夜の統京を見つめた。2026年と瓜二つの統京を。

「ごめんね。鈍くって。そういうの」

 ルウ子は最後の一歩を踏み出した。

 かすかに頬を染めるルウ子の胸に、孫の銃口がめりこんだ。

「知っていたら、世界はこんな事にはならなかったかもね」

「ル……ルウ子……」

 ルウ子は手のかかる子供を見るような目で微笑んだ。

「バカね……あんな嘘までついて。お母さん、雲の上で泣いてるわ」

「……」

 孫は銃を下ろすと、そのまますっと手放した。

 絨毯をたたく湿った音がした。

 バクと蛍は吐息をつき、和藤は固く目をつぶり、そしてルウ子は両手を差し出した。

 両手の行き先は黒縁メガネだった。

 素顔になった孫。

 ルウ子は改めて男の頬を包みこんだ。こわばる顔を引き寄せつつ、自らも唇を寄せていく。

 そのときだった。

 爆音とともに壁のガラスが激しく吹き飛んだ。

 大きな風穴の前に、ロープを携えた黒ずくめの男が立っていた。

 なにが起きたのかすぐには理解できず、呆然とする五人。

 真っ先に我に返ったバクは思わず声をあげた。

「熊楠!?」

 蛍が続いた。

「引退したはずでは?」

「私は黒船島に骨を埋めるつもりだった。だが、ペリー商会はこの男に追われた」ずぶぬれの熊楠は孫を指した。「私は逃亡先で、昭乃とともにこの国の未来を案じていた。電力網が復活すると、昭乃の予言通り、かつてのような汚染と破壊がはじまった。人はパワーショックからなにも学んではいない。ゆとりを手にした途端、目先の利益や快楽のことばかり考えるようになる。人間は少し飢えているくらいがちょうどいいのだ」

 熊楠は拳銃を抜くと、銃口を孫に向けた。

「孫よ! 電気は人の手に余るのだ! マスター・ブレイカーは永久に封印させてもらう!」

 ルウ子は両手を広げて孫をかばった。

「話はもうついたのよ。あたしたちはこれから大陸の中立国に逃れ、広く発電できるように働きかけるわ。これで世界のパワーショック問題もなかば解決よ」

「私の話を聞いてなかったのか? かえって死の闇が広がるだけだ!」

「電気がないせいで飢えている人が、世界にはまだ何十億もいる。あたしはそれを見すごすことはできない」

「地球は人間だけのものではない。人は人だけの力で生きているわけではない。人を救いたければ、草一本虫一匹さえ疎かにしてはならんのだ」

「!」

 ルウ子の瞳に光の筋がよぎった。これで二度目だ。

 ルウ子はこらえるように笑った。

「なるほど……昭乃が選んだだけのことはあるわ」

「大罪を犯した私がここまで生きながらえたのは、この日のためだと思っている。頼むからそこをどいてくれ!」

「マスター・ブレイカーはここにもう一組あるわ」ルウ子は胸に手をやった。「手間が省けてよかったじゃない」

「君は今、自分の誤りに気づいた。それをどう扱うべきか心得たはずだ。それがわかった以上、君の可能性を絶つなど私にはできない。そこをどくんだ!」

 銃声。

「クッ……」

 熊楠は拳銃を取り落とした。手の痺れに顔を歪めている。

 撃ったのは和藤だった。彼女は別の拳銃を隠し持っていたのだ。

「ぐずぐずしている暇はないのよ」

 和藤は銃口を熊楠からルウ子へ流した。

最初(はな)からルウ子を殺すつもりだったな!」

 バクは怒鳴った。 

「万が一敗れたときはそのつもりだった。けれど、彼は勝った。なのに……それなのに……」

 女の頬に光の筋が走った。

 そっと撃鉄を起こし、和藤はトリガーを引いた。

 胸を押さえる手。指の間から赤いものが溢れ、ボタボタと床を濡らしていく。

 苦しそうな息づかいは……孫英次のものだった。とっさにルウ子をかばったのだ。

「そんな……」

 和藤は銃を手放すと、よろめく男に駆け寄った。

 孫は女にどうと身を預けた。

「すまない栄美……自分で自分をごまかすことはもう……できそうにない……」

「ひどい……ひどすぎます……」

「そう……だな。私は……ひどい男だった」

「英次さん……」

「……」

「英次!?」

 孫は白目を剥きかけたが、唇を噛んでこらえた。

「少し……風にあたりたい」

 和藤は孫を風穴のそばへ連れて行った。

 そこにいたはずの熊楠は、いつの間にかバクのそばに立っていた。

 孫は雨の統京を眺めていた。

 勢いを増す雨粒。地上の光たち。街は銀糸に包まれていた。

 やがて、孫はルウ子に笑顔を向けた。

「死に満ちた世界でこそ生は輝くものです」

「えっ?」

「ルウ子……君なら……できる」

 孫は息絶えた。

 和藤の腕の中、謎めいた言葉を残したまま。

「孫!」

 ルウ子は駆け寄ろうとしたが、すぐにためらった。

 和藤の執念から生じた見えない壁が、ルウ子の行く手を阻んでいるのだ。

「英次……」

 和藤は孫の唇にそっと唇を寄せると、勝ち誇ったようにルウ子を見た。そして、孫を抱いたまま風穴の向こうへ身を預けていった。

「和藤! ちょっと待……」

 ルウ子はだっと駆け寄り、手をのばした。

 あと一センチ……ルウ子の手は届かなかった。

 ルウ子が四つん這いにうなだれると、遅れて他の三人が駆けつけた。

 ルウ子を慰めようと、バクが口を開きかけたときだった。

 廊下の間接照明がふわりふわりと消えていった。タワーのライトアップは下に向かって失われ、NEXAの施設群は黒のスポットを浴びた。闇のさざ波は次第に荒れていき、ついには怒濤となって光の国を呑みこんでいった。それはまるで、膨張するブラックホールだった。絶望半径はあっという間に地平の彼方を越えた。

 なにもかも消えた。

 残ったのは窓を打つ雨音だけだった。

 バクはそっと手を差しのべた。

 ルウ子はその手を取って立ち上がると、言った。

「あの夜と、同じね」

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